
大分県 蓮城寺 薬師堂 千体薬師
詩を書くことが少なくなった。詩が書けないなどと生意気なことも書いてきた。私には、もともと言葉の感性などないのだから、詩人気取りなどチャンチャラ可笑しいのであるが、久しぶりに書棚の詩の本を取り出して読む。裏表紙のウラに49.6.6のデイト版と谷島屋の鉛筆書きがあるので、浜松在住当時に書店で買ったのがわかる。ヘンなところだけは几帳面なのだ。
有斐閣選書「現代の詩と詩人」で、昭和49年5月30日初版第1刷発行と記されている。編者は中村稔、三好行雄、吉田凞生の3氏で、近代詩と現代詩(当時)の代表的作品が解説つきで紹介されていて、私の知っている石垣りん、谷川俊太郎、吉野弘、茨木のり子などの詩人も登場している。
石垣りんのページに次の詩が載っていた。半身不随の父と義母、無職の弟、知恵の遅れた義弟が住む一家を背負ってきた作者が、日本の古い女の一人としてその「重さ」と「血の色の濃さ」を見つめた詩であると書かれている。幸せに浸っていてはとても書けそうにない詩である。
屋 根
日本の屋根は低い 貧しい家ほど余計に低い、
その屋根の低さが 私の背中にのしかかる。
この屋根の重さは何か 十歩はなれて見入れば 家の上にあるもの 天空の重さではなく 血の色の濃さである。
私をとらえて行くてをはばむもの 私の力をその一軒の狭さにとぢこめて 費消させるもの、
病父は屋根の上に住む 義母は屋根の上に住む きょうだいもまた屋根の上に住む。
風吹けばぺこりと鳴る あのトタンの 吹けば飛ぶばかりの せいぜい十坪程の屋根の上に、 みれば 大根ものっている 米ものっている そして寝床のあたたかさ。
負えという この屋根の重みに 女、私の春が暮れる 遠く遠く日が沈む。
私が小学生だった終戦直後の頃は、バラック建ての貧乏長屋的な住宅に食を欠いて生きながらえていた人がたくさんいた。私の家は染色工場を営んでいて、貧乏だったという認識はないが、男兄弟5人もいては満足にお小遣いももらえず、鉄屑を拾って売ったり、川で鰻をとって鰻屋に売ったりしていた。
また、「なっとぉーう、なっとぉーう、いとひきなっとぉーう」と自転車で大声で納豆売りもやった記憶がある。そして高校生の頃は、氷の配達、味噌工場の配達、郵便配達などもやった。とにかく自分の事は自分でやるしかなかった時代であった。
石垣りんのような家族を支えるという重みはないが、親に負担をかけまいと一所懸命だった。おやつというとザリガニやツボ(タニシ)を艦砲射撃あとの池(「1トン」という)や田圃から獲ってきて茹でて食べたりした。焼き芋やふかし芋も懐かしい。
今年は戦後70年の記念の年である。戦争もなく平和ではあるが、これからの日本の先行きは不透明だ。高齢の私たち世代は、高度経済成長に乗って賃金の定昇とベアは当たり前になっていた。今はどうかというと、政治家はデフレ脱却を声を大にして唱えるが、国民の多くは冷淡な反応しかない。
株で儲けた奴とか大企業のみがいい思いをして、中小企業や個人事業者の収入アップと消費拡大は望めそうにない。今朝の朝日新聞である大学教授が書いていた。「政治で経済は変えられない」、「人口減少が続けば経済成長は向こう数十年はない」という。
一方、8日に発表された昨年12月の日銀による「生活意識に関するアンケートによると、1年前より暮らしに「ゆとりがなくなってきた」と答えた人の割合は、9ヶ月連続で増え51.1%に悪化したと新聞に掲載されていた。
歴史は繰り返されるというが、最近の東アジアの緊張は高まるばかりで、戦争放棄の平和憲法に揺さぶりをかけるご時世だ。子供や孫たちの将来が心配になるが、身近な存在である家族の健康と安定を願い、ただひたすらお薬師さんのご真言「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」を唱えるばかりである。そして出来る範囲での社会奉仕を続けていくことが大切と思う。
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