NHKラジオ深夜便4時台で、市川たい子さんの「父 藤山一郎を語る」を聴いていたら、作詞の詞は言葉を司どるではなく、言べんに寺の詩だとお父さんから言われたとのこと。なるほど、詩は言葉の寺、寺の言葉だったのだと初めて気づかされた。目からウロコが落ちるような気分である。
今まで、お寺に行くと仏像にばかり眼が行っていたが、最近はお寺全体が仏さまという気持になっている。詩は言葉の寺と聞いて、お釈迦さまの教えであるお経なども詩なんだと思えるようになった。般若心経も観音経も詩なんだと・・・。人生の詩、生きる智慧の詩だったのだ。
21/8/20 草稿
今日、鎌倉の円覚寺に行ってきた。横須賀線の窓から32.4℃の看板が見えた。体中汗が噴出すのを忘れさせるかのように、円覚寺の境内は、夏の終わりを告げる蜩のカナカナという鳴き声が響き渡っていた。
紫陽花や紅葉の季節の雑踏が信じられないくらい、真夏日の境内は閑散としていたが、今まで入ったことのない山肌に沿った石仏のお顔に、ホッと一息つかせてもらったり、所々に咲いている白百合の花や百日紅の花を愛でながら、ゆっくり寺の佇まいを感得できた。言葉の寺で五七五の詩が浮かんだ。
静けさを 打ち破らんと 蜩の声
石仏に 白百合寄り添い 涼しげに
禅僧の 師弟の仕草に 礼を知る
今まで、お寺に行くと仏像にばかり眼が行っていたが、最近はお寺全体が仏さまという気持になっている。詩は言葉の寺と聞いて、お釈迦さまの教えであるお経なども詩なんだと思えるようになった。般若心経も観音経も詩なんだと・・・。人生の詩、生きる智慧の詩だったのだ。
21/8/20 草稿
今日、鎌倉の円覚寺に行ってきた。横須賀線の窓から32.4℃の看板が見えた。体中汗が噴出すのを忘れさせるかのように、円覚寺の境内は、夏の終わりを告げる蜩のカナカナという鳴き声が響き渡っていた。
紫陽花や紅葉の季節の雑踏が信じられないくらい、真夏日の境内は閑散としていたが、今まで入ったことのない山肌に沿った石仏のお顔に、ホッと一息つかせてもらったり、所々に咲いている白百合の花や百日紅の花を愛でながら、ゆっくり寺の佇まいを感得できた。言葉の寺で五七五の詩が浮かんだ。
静けさを 打ち破らんと 蜩の声
石仏に 白百合寄り添い 涼しげに
禅僧の 師弟の仕草に 礼を知る
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