書棚にある詩集の本を捲りながら、なんと素晴らしい感性なんだろうと思うことが屡々ある。
サトウハチローさんの詩集にある「母の思い出」にまとめられた32編の作品は、わが母の記憶とともに心打たれる。中でも特に共感を覚えた作品は『一番苦手なのは』である。
一番苦手なのは
おふくろの涙です
何にもいわずに
こっちを見ている涙です
その涙に灯りが
ゆれたりしていると
そうして灯りが
だんだんふくらんでくると・・・・・
・・・・・・これが一番苦手です
サトウハチローさんの母の思い出の詩は、昭和33年から始まった「おかあさん」というテレビ番組のタイトル詩を書くことから始まったと言われる。幼い頃腕白の限りを尽くし、勘当されること17回、退校処分8回を繰り返したハチローさんの母への詫び状でもあるという。
私の母はある意味壮絶な人生を歩んできた。亡くなって20余年になるが、その生き様を小説にして書きたいと思うくらいだが、才能のない自分には無理だと諦めている。せいぜい短い詩を書いて残すことぐらいしかできない。
わが家は私が小学生の時から父母の夫婦喧嘩が絶えなかった。男5人兄弟の4番目だった私は、一度だけ母に就いて家を出たことがある。6畳あるかないかの間借り生活で、学校のこともあり私は短期間のうちに戻った。
両親は離婚することなく、晩年はお互いそれなりの距離を置いて会話もしていたが、母は家を出たり入ったりの生活が長かった。私の結婚式には父が反対して出席していない。唯一東京勤務の私のアパートにはよく来たし手紙ももらった。
結婚3年半で妻がガンで他界、3歳と0歳の息子を抱えて途方に暮れた私は、銀行人事部の配慮もあって郷里浜松の支店に転勤させてもらった。それから母と同居するようになり10数年もの間息子の面倒をみてもらった。
当時の母とは確執もあったが、小学生の時から殆ど同居していない母親と暮らしたことは、私にとっても、母にとっても幸せな期間だったかもしれない。亡くなった妻も今のカミサンも、母には優しく接してくれた。
ガンとの壮絶な闘いをしてきた亡き妻、息子たちを長い間面倒見てくれた母、それぞれの思い出は尽きないが、毎日の読経で感謝と供養の気持ちを伝えている。
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