朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと
さて、以下に四つの絵とカリカチュアを掲載します。
最初の四つは墨、紫、青、赤の山々です。
覚悟してやまの稜線を追ってみました。
晴れのあさで朝雲の時々刻々のうごきが山の前景と後景の区別をあたえます。
朝日が前景の影が後景の山並みに形を投影しているのがわかります。
山並みの凹凸で凸は視覚ではわすかな突起でも単体の山であることを知ります。
雨雲のときも形状形態がわかって山肌がおもしろかったです。
そうなると、あの突起は何であろう、名のある山なのであろうと考え、そして手元の
携帯でGoogleMapのようなもので地図をながめ、これを手で描き、いま見える実物と名前の
対応を試みます。
丹沢山系というのは、平面では工字状をしていて、部屋位置からはこの工の下の一を軸に上の一を奥手に倒したした形態となっている。山並みがよこに前後してならびそれらをむすぶ縦奥行きの山壁があるといった態である。
一方、大山1252mはその丹沢系の前景に位置していることになり、あの烏帽子のような形の登頂から左方になだらかな下降稜線となるが、その下降の始まり辺りから丹沢系がなだらかなふくらみの稜線を引く。丹沢系前景の稜線となる。丹沢山1576mと名のついている突起部分は後景横稜線をつなぐ奥行きの山壁の始めに位置するようである。この奥行き系と後方の横稜線系あたりに登頂群がいくつか重なってみえる。前方山並みは西峰、中峰、東峰と続くが急速に下降、それを補うように前景の辺室山が横にのびてる。これらが前後平行して、一見一体ものとしてこちらに押し出してくる感じである。丹沢山の後方には実質の盟主であろう蛭が岳1673mが、袖平、黍穀山(なんとよむのだろうか)などが重層的に重なる。わが望見との対応を確かめ得ていない。(家に戻ってから県地図をひろげ、わが基点(東急南町田グランベリー駅)から各山頂へ定規で線引きしてみた。測量したひとはすごいなとあらためておどろく。)
執こいが大山は、これまで何度も描いてきた。家内からは「大山大観ね」と揶揄されるほどであるが今回地形上の勉強になった。この山はご承知のように、上述の山頂から右下降がはじまるとまもなく前方に「山」という字態の三つの単峰群がならぶ、三峰山である。伊勢原市あたりまで接近するとこのやまがほどよい迫力を呈するがいまここの点からでは裾部分のグラデーションを構成する。その裏あたりが宮ケ瀬ダムらしい。一方、大山山頂から左下降では裏側から烏尾山とか二の塔、塔の台が視界につらなり階段のように落ちていく対応となる。
この景色を何枚も早描きする。地形的知識はこの場合どのくらい助けになるのかわからないが、すくなくとも形状の特性は抑えていることになるので一応目をつぶっても形にはなる。象形文字的に接近しすぎることはなにか危険であるが、写真的(失礼)写実に接近してもよいが意識はこれらへの拘りをゆるさないようだ。ただ、しらべたことは対象への畏敬をもたらしめ、その天候、時刻でスケッチをいざなうのは事実であった。
今回の入院の方の主題はあとになってしまったが、ICU緊急治療ユニットでのスタッフの俊敏無駄のない動きには感動さえおぼえた。明け方静まり返って、患者への声掛けが聞こえる、患者は結構無理難題を出している。それに対応するスタッフの人とガラがでている。なにもないがスプレー瓶を一つ描く、車いすもおもしろい。こんな無機的なものが描線がはいると意識があらわれるのがおもしろい。いま哲学界と物理学系の話題の中心である「意識のHardproblem問題」へと繋がろうか。これについては別稿にて書きたい。
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たまたま、立ち眩みが夜中にあって、緊急滞在となった。しかし年相応なのでこれからの2,3年は要注意で
養生の課題が課された。たべもの、うんどう、あたまつかい、ほか。
部屋から山々の展望が豪華で幸い主題の立ち眩みの方は軽微であった。
ちいさな画帳とクレヨンを肌身はなさずそっと携え、たっぷりこれに取り組めたのであった。
Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa III 墨大山・丹沢
Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa IV 紫大山・丹沢
Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa V 青大山・丹沢
Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa VI 赤大山・丹沢
(友人からのたより)
親愛なる友人の画家からの丹沢大山大観談です
(Yasumasa Arai)2024-12-02 10:43:04荒井 康全様
入院されたとは知らずにおりました。もうすっかりお元気になられましたか?
荒井さんの「丹沢山系大観」読ませてもらいました。流石によく熟知されておられるんだな
と感じました。スケッチを拝見して驚きましたが、まさに目をつむってもわかる…ですね。
病室のベッドで描かれたと思われますが、墨丹沢は横向きですか?他の3点どれも力強く
晴れやかで、とても入院中とは思えません。私も時々近くの小高い丘に登って大山:丹沢:
富士から高尾山を見ますが、なかなかどれがどうだかよくわかっておりません。一度一緒に
登って教えていただきたいと思っています。須田国太郎懐かしい名前です。若い頃に「犬」
「羽を乾かす?鵜」「スペインの紅い屋根」など感動してました。また荒井さんが言われる
様に長谷川利行の絵の雰囲気も感じます。でも全く違って健康的ですね。
カリカチュアには何となくルオーを感じさせられました。
全く勝手なことばかり書いて申し訳ありません。
来年の寒いうちに(空気が澄んできれい)「見晴らしの丘」にご一緒したいですね。
今後とも、色々教えて頂ければ有難いと思っております。よろしくお願いいたします。
24年11月30日 (anonymous)6636
友人anonymousさんへの返書
メール拝読しました。「丹沢山系大観」の朝日記とおつきあいいただき
恐縮です。行き当たりばったりで絵にとりくんできたので、今更ながらものごとが
語り掛けてくることにおおげさに感じ取ってしまっています。だからおもしろいとも
言えるかとヨシよしと自分をあやしています。
その延長で「来年の寒いうちに(空気が澄んできれい)「見晴らしの丘」に」のご提案は大賛成です。簡易スケッチブックで1,2枚スケッチできたらいいなあと愉しみにしています。
ちょっとあるくぐらいの感覚でバスにのって赴く、天候のよさそうな日を直前にも
やっときめてお会いしたいですね。
「須田国太郎」という絵付き随筆をあるところに投稿したので添付いたしました。
貴兄が教えてくださったのが縁でおとうと世田谷美術館のかれの展覧会にいったのです。
おとうと一緒に「鵜」、「阿弥陀堂」、「犬」、「落窪神社」などすっかり楽しんでながめていました。
朝日記をみっつほど添付もうしあげます;
朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと
御覧になった朝日記ですね。
朝日記240520 AI実験1「Yassie Araiの絵画作品を見たいです」
PCなどにて使えるAIがいかばかりかをテストしています。ちなみに、荒井康全氏を
どのように紹介するか。
朝日記241129 目次gate AI Copilot氏との哲学的会話 目次
哲学や絵画のテーマはAIがゾンビであるかBeingであるかを問う恰好の話題になると
考えて、自分の研究課題をつかいながら、AIとの対話をこころみました。
哲学入門のような形をとり、AIへの確認というながれにしました。
しっかりまとめてくれることを知ります。しらず相手の人格的存在を意識します。
そしてかれに問います、あなたは意識をもちますかと。
答えはいいえでした。
会社、学校、政府、郵便局などとおなじ社会的service agentつまり法人としての人格が
要求されることに気が付きます。誠実なアナリストと話していることを知りますが、相手が邪悪でないという保証はない。かれらも気が付いていない。知的ゾンビですね。これからの問題であることをAIになげかけています。資料整理などの秘書としての自分の思考の確かめなどの役割りには優秀なのでさらにつきあっていくかとおもいました。
荒井拝
2024/12/02
Yasumasa Arai
友人anonymousさんへのノート
思考展開の過程で、ときに話し相手があることはふしぎと意識が
活性化して集中されることを体が知っているのでしょうか。
やはり私自分individualということとひとpersonの次元とは違うようで,
生きているということはやはりそのような関わりのなかであるのだなと
感じます。友と杯をかわすということもそういうことかなと、
いつまでたっても青くさくて可笑しいですね。
哲学も思考という場でみえない相手(理性か)と将棋をさしているような楽しさがあります。
こちらは経験も思考も歳月を経てどんどんボケてきていますが、なにか生きてきた過程から
身体の髄にのこる大切ななにかコアに思いいたすことがをがあり、しょっと形にできればいいなとおもうこの頃です。だからどうなんだということにもなりますが。
クロニクルということばがありますが、一個の人間の生きているときのそのときの切片を刻しておくことはこの世へのお礼かもしれませんWW。もっともまとめて捨てられてしまうかもしれませんがそれはそれでよしとします。若いときはそんなことを言っていたら日が暮れるよしっかり働けと叱られますが、この齢は日が傾いても怒られないからやることごともあるかなと思っています。
世からあるいは天があたえてくれた褒美かもしえませんが。
絵画などにもまさにその実感をつよくします。とにかくなにかに目が留まり、それにちょっとかかわってみる、スケッチしてみる、形にしてみる対象たちをおなじ場に招いてみると何かある世界がみえるか、意識として感じる、おもしろい、色彩をつけてみてるなどしているうちに日が暮れてくるなど。このようなことが人生のある限られた期間でもあたえられたということはもしかしたら稀有最高なことなのかもしれないとひと深呼吸して、夕日を仰ぐ。気障な表現に至ります。
HeideggerのVereinigenという語がまたでてきそうですが、きょうはこれで止めておきます。
春の市美展には出品をしようと考えています。ことしでたしか十五年となり二十年までやるかと色気をだいています。ITさんも一緒にどうですか。これからの作もいいですが、きっと出してくれと裾を引いている待ちの御作品があるのではないでしょうか。
このように気軽にお話ができて幸いです。
また、書きます。 お身体に気づかってください。
荒井拝 2024/12/06