朝日記241214―歴史逍遙―橘樹 住香 日の本のたからの山にてたからをさかすとその絵
(初出し: HEARTの会 会報No.119, 2024年秋季号)
―歴史逍遙―
日の本のたからの山にてたからをさかす
会員 橘樹 住香
大正十三年國立美校の國家事業 平安朝 山水圖屏風復元に 國立美校首席吉村忠夫が選ばる 一月から六月まで京都に出張 正倉院をもとに屏風を復元 今の屏風は紙の蝶番 正倉院は金具の蝶番をもちいており 正倉院にならふ 位置関係も復元 なれど原本の國寶修理は一扇一扇の位置をあやまり吉村の修復を學ばず配置 吉村の復元する能力はきわめて天才
今様の京都中心の修復におごりを思ふ
日本畫家真野満のお屋敷を訪ねし日のこと 京都の心地よいひびきは いいものがたくさんあるようにおもわれているがまるでない すぐれたものはすべて東京にあると そこから推しはかると 優秀な人も頭脳も東京にあるということか 真野の遺言となる
東京國立博物館 復元 山水圖屏風 吉村忠夫
國寶 宇治上神社 拝殿
本殿は千年前 日本最古の社殿 拝殿は九百年前 藤原時代のおもかけを唯一宇治にととめ ともに世界遺産となる
貴族の邸宅をしのふ このような檜皮葺を何百もつらねると平安京となる
何百年も守りつつけし宮司の のこさんとの あつきおもいの たふとさよ
宮筥根杜 御神躰
鶴ケ岡八幡につたはる後白河上皇から源頼朝へおくられし小袿(こうちき) 原寸にしたて きせてみる
源將軍實朝の伊豆山権現 筥根権現二所詣にて祈りしか
正倉院 聖武天皇飾劔(かさりたち)
時の玄宗皇帝もこれとおなじ飾劔を
古代エジプト・ペルシャ・古代ギリシャ・ローマへ 長安へ 飾劔は大唐のみやこ長安にて華ひらく 遣隋使遣唐使により倭國(やまと)朝廷へ
聖徳太子の飾劔はいまにつたはらぬも この流れは藤原道長から鎌倉まで
室町には高貴な姿を失ふ これは秀麗な基準作
大正という時代は日本文化の奇跡
大戰前は文化財審議委員會は確かなものなれど 大戰ののち いまの國寶重文の選定はいかがなものか 恩師鈴木敬三も審議委員會のなかにおり 数で押しきり話をきかぬと ひとむかし前のこと
時の衆議院議員 曾禰益がわれに 多数決は小學校の教室に例えると 五十人中頭のいいのは二・三人 わるい数の方が圧倒的に多く 数がまかり通る
時の衆議院議長秘書官から議事堂の建物の仕組みを見せていただき 國會の會期中なれど たまたま議事がとまり 秘書官が機転を利かせ なんと衆議院議長を呼んで下さり 議長室へ通される ここは数がものを言いますから 全て数ですからと
数で押し切ると 頭のわるいものがまかり通り 数は欲がからむ デモクラシーとは欲望主義なのか
文化財審議委員會は文化庁の 建築・絵画・彫刻・工芸等の専門技官にくわえ 國立東京奈良京都の博物館館長 副館長博物館の研究技官だけの選定委員がのぞましい 大戰前の岡倉天心のもと 日本畫の安田靫彦をはじめ そうそうたる見識の方が的確に國寶の選定に携わるも 大戰ののち 戰前の仕組みはちゃらとし
新たに教授たちの好みにかたよってゆく
今樣のしくみはいつのまにか わびさびが日本文化との思いが強く 大学は縄張りとなる
時は大正 國立美校にて一大事業として十二世紀 平安朝の神護寺の日本最古の山水圖屏風復元を 若き吉村忠夫にたくされ見事になしとぐ この山水圖は日本美術が華ひらくもっともたいせつな國寶 復元圖はいま國立東博にあり 早急に國重文に
國寶原本は屏風をいく度も位置を取り替え 新しい絹に取り替えるうちに圖柄をうしなう
安田靫彦、前田靑邨らにより法隆寺金堂壁畫を再現 また前田靑邨のもと高松塚古墳壁畫を再現し文化庁にあるも 原本はあっというまにいたむ 原本をしのぐこれらの復元圖は國重文として指定を早急に われにゆかりの日本畫家 河津光浚の醍醐寺五重塔壁畫等の原寸はすでに重文
國博・國立大學など國の機関は本来の國立に戻し じっくりと研究できる土壌に戻しては
平安鎌倉を中軸とした古代に重きを置く文化庁長官を
家康の鉛筆の遺物が國重文の流れはほどに
日本畫家河津光浚からおくらる
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