朝日記150709 梅雨、わたくの日々、正義と合法のことなど そして今日の絵
おはようございます。
昨夜は、大学生の孫娘が来ましたが、身体のリズムで8時すぎには、睡魔が襲ってきて、そっと部屋に帰ってそのまま寝てしまいました。結果は早起きになります。ラジオ体操までは大分間があります。外は雨です。
徒然こと 1 梅雨、わたくしの日々
公民館での「ことぶき大学」で月1度12回のルネッサンス美術のコースに
でています。特別際立ったコースではないですが
ここでの紹介された美術展をひとりで、さっと観にいって
その場で鉛筆を借りて、メモ的にスケッチして、さっと帰ってきます。
行けば、ひょっと、めずらしい角度の材料がみつかったりします。
ボッテチェッリ展の絵の話題では 貞女シューザンナがとりあげられました。
旧約聖書の内、正規の書ではなく、付録的な位置の外伝(アポクリファ)と
いうのがあり、「Susana書」というのがあります。
こういうのがけっこうおもしろいのです。キリスト校国では
このひとが、人気の女性像のひとりであること知ります。 英語ではスーザンですね。
旧約由来の女の子の名前では むかしから上位のようです。
そんなことで スーザンを調べる、それをネタにスケッチしていればこれだけで時間はうまりますね。おひとり様の過ごし方ですね。
しばらくお休みだった、クロッキー会が、スタヂオの版画美術館改修がおわったので、再開しました。ひさびさに木炭でばんばん描いて、心地よい緊張でした。
運動だと自分を言い聞かせて、雨のなか、新聞紙大の画帳を担いで、家から1時間ほどのスタヂオのある芹谷公園まで歩きました。たっぷり季節の湿りを衣服に感じました。
書きもののほうも、この五年間の旧約を読むからカント哲学への過程で、ようやく思索のの力支えができてきたようで、気が付くとなにかつぎつぎと書き物がのこります。
どこにもスケッチブックを携えていますが、それがときに、絵ならずメモ帳に変身もします。読んでおもしろいと思った本は新刊にかぎらずブックレビューをアマゾンに書いて掲載してもらうこともあります。これがいま15件くらいになっています。ここで「あらいやすまさ」を集めたブックレビューもみられます。通してみると何を考えてきたかがわかります。町田の公立図書館でもほしい新刊本を申請すると けっこうタイムリーに買ってくることを知りました。ありがたいことです。 返さなければならないので一生懸命読みます。
そうそう、外国の出版物などちょっと手にとるのがむずかしいものは、国会図書館で閲覧可能なので ここでのネット閲覧とコピー依頼の手続きをしました。これからの活用です。
身体のほうは、昨日、定期検診で、甲状腺ホルモンのレベルが下がっていると診断され、体がだるくないかと聞かれました。季節だからそうだろうとは、おもいましたが、すこし落ち込みぎみで家にかえりました。薬がすこし増量されます。9月のおわりに採血検査です。
しかし、早いものですね。術後、7年が経過したのです。音楽絵画をひとつおとどけしす。ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=Niq22_7r1k0
(友人への手紙から)
徒然こと 2 わが畏友Aさんからの手紙
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荒井さんのといかけ。正義と合法は異なる概念かどうか。
法の理想的な成立過程を想起すると、法体系と基底に流れる理念が、その法を適用されるコミュニティの正義および公正の概念と一致しているものと思われます。この状態を常に維持管理出来ているならば、コミュニティ内において、正義と合法はほぼ一致するでしょう。
しかしながら、現実の変化に法の整備が追い付かなければ、正義と合法の距離が離れていくことになります。
今、戦争を放棄した憲法を持つ日本が、幸福追求権から自衛権はあるとし、一国平和主義が成り立たない今、集団的自衛権があると言っているのは、現実の変化に法の整備が追い付かないから、とにかく有事対応だけはできるようにしておこうということだと理解しています。
60年前でしたら、このようなロジックは強烈な否定を大多数の国民から突き付けられたかもしれません。
しかし、今は、攻撃力を持つ友軍(米国)をサポートしてもいいかどうかという、憲法の文言だけを読むと首をひねらざるを得ないところなのに、まともに議論しています。
私は、この議論は非常に有意義だと考えています。
憲法は、法である以上、守る必要があります。
これは「遵守」という意味です。
護憲派という人たちは、憲法を「護ろう」とします。
これは「擁護」または、「保護」という意味です。
「護」という文字を、本来はコミュニティの価値観の変化に応じて変えていくべき法に対して使用している特定のグループには、我が国を70年前の価値観に固定しておきたい理由があるのではないかと思っています。
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徒然こと 2 畏友Aさんへの返事
(以下は、わたくしのfacebookからの転載です。)
Though I have a poor ability of English expression to give my responding to my friend. I am puttng my thought in follows: As the fundamental priority is naturally presumed as the following ranks, in the Western resume: 1. the Right(only under the name of God= absolute juctice)> 2.Natural law( human life saving, under the God will) > 3,Positive law( distributive justice by necessity and contract between human) . In this sense, Positive law is under distributive justice, not in absolute one. It means they live always under just or unjust. So, if either individuals or collectives are unavoidably placed under physicaly urgent state for their survives, ' just' for saving own life is naturally to be offered from 3. to 2 under the right of 1. My friend, I have recently got to know a joke of that "US is called unjust society" whrere just/unjust are going under evolutioned deliberately and constitutively along with their positive will; freedom. My summary is that our country,as a nation of liberal democracy rule, is presumed to going along on the same line above. Thanks.
つれづれこと終わり
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