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朝日記250228  サールとデリダの論争'Searle and Derrida Debate'

2025-02-28 20:55:01 | 絵画と哲学

朝日記250228  サールとデリダの論争'Searle and Derrida Debate'

 

これは十年まえ朝日記の再録です。 AIのバックグランドが人間の言行をを徹底的に真似た者ということから再度、登場してもらうことのしました。(朝日記「AIと哲学を語る」シリーズ) さて、どうなりますか。

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出典:
朝日記151231 ハイデガーの哲学で年末におもうことと今日の絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/9d4cb222a7396355c4a230ff197cb2df

サールとデリダの論争

'Searle and Derrida Debate'というのが目にはいり、どうもアングロ・アメリカン系の分析哲学系と大陸の合理哲学系との伝統を象徴している論争が面白いです。
この論争は、前者がevidence baseでの客観性(価値性)を、後者はvalue free baseでの実存性という視点にあります。 実は、当代を代表する二人の哲学者が馬が合わずで30年間対立が続いているようです。前者がSocial Institution(社会制度論)理論として 社会現象に対して問題解決的な思考を展開します。 さすがにプラグマティズムの国で 評価もさることながら、その展開が期待されます。(今年亡くなれた青木昌彦さんが支持する哲学者です)
後者は、現象論哲学のながれで、対象に対して、それに関わる自分との関係で、その存在(実存)の意味するものに’ひかり’を当てて行こうとする態度です。 存在について 言語などの論理だけではなく、芸術など非言語(感性)を含めて 人間の存在の意味を問うという態度です。こういうところでは、ピカソの芸術などの歴史的意味も思考の枠組みに入ってきておもしろいです。
私は、読んでいくうちに、二人は、関心の向かう対象領域が異なるだけで、本来 相互の位置づけられ、全体としては 人類にとっては、プロダクティヴなものになるはずのものと思っています。

そういう意味では、スタンフォードのネットで、上記三つの項目に注目しました。ここでの記述は バランスよく、二人の論争の意味が俯瞰できて、よく整理されているとおもいました。(おすすめです)

 ちなみに、2012年来の私のテーマはシステム思考と目的論理ですから、そのままふたりの論争によって、彼らの現代的な問題意識がわかり、思考の整理に助かりました。

 カントの認識哲学は、思考の共有場の候補という意味で、ひとつの「土俵」を提供してくれていると私は理解します。かれらドイツやフランスでは、はいまだにカントのそれに注意深く参考にしていることを知ります。アングロ系も、直接話題にすることが少ないだけで、それを否定していないようです。
しかし、カントは思考の場以上に、認識する対象を「現象」という’力士’を土俵に上げて みるということは後世に託したとも理解しています。 その意味では、フッサールやハイデガーは、それにメルロ・ポンティ等はそこにまともに取り組んだ人たちであると思います。
 私は、特に ハイデガーに着目して、「存在と時間」にいま取り組んでいます。 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」(cogito,sum)で、考える「われ」ということを均質に考えることに異議を呈し、主体と対象とを一体で考えていくことを提案します(「現存在」Da seinとよんでいます)。 そのときに たよりになるのは、いま自分が置かれ、問題として意識している環境であり、このなかに「現存在」があり、その存在状態を「実存」とよぶことになります。
しかし それをどう認識できるか、根拠はなにかということが出てきますが、かれは「存在了解」という用語で ひとは漠然としてそれを知っていてそれを認めているということにしています。

「存在了解」は、身近な「実存」を意味していて、これとよりひろい世界(普遍的世界)との関係は如何にという問題があります。彼は身近のほうから思考を展開します。(普遍を考えるまでの哲学的展開は未達のまま終わっています)
広い意味で、ハイデガーのながれに位置するデリダからみれば、人間の存在について 言語という論理で取り上げた現象を言語論理以外またはその裏側をも含めて、むしろそこに光を当てて考えるということを主張しています。(「脱構築」Deconstructionということばが登場しあます) これが彼らの現象論哲学の主題なのであろうとおもいます。
一方、ハイデガーのいう存在を 意識する問題意識は、その現象対象に向かっているはずで、それにまじめに焦点を当てていく立場があります。 この場合、問題を意識するのは、個人である( a first person account)が、問題対象を、共有の場に出すことによって、解決すべき問題として 晒し、議論し、問題として合意しようという立場が考えられます。それをとりあげていく主体が、Agent(「機関」と訳しておきます)で、Institutive(「制度化」)として問題を取り上げ、分析、提案、制度化)を取り上げていくものです。そういう意味では存在として対象を丁寧に見て、扱っていくという点では、「現存在」ということになります。 また対象の「実存」性を考慮したことになります。 社会的に明示化Explicitにしていく点に特徴があると思います。

 私が、ウィスコンシンの大学に留学したのは1969年からでしたから、もう50年弱の昔になります。 現地の彼らとの接触で、私の耳に残っていることばを4つほどならべますと 以下です: concern(関心), commitment(関与), encouragement(励まし),そして contribution(貢献)です。 彼らの会話は、共有的な「con-」につながっていて、みずからの意志のあり方を相手に表明していく姿でした。そして、それは、私のその後の社会生活に良きにつけ、悪しきつけ影響を与えつづけています。

 ところで、ハイデガーの哲学は、難解といわれています。
彼は、その著「存在と時間」のなかで、存在について、認識論哲学と、それに拮抗し姿を現す存在論哲学を展開します。 彼の論をよんでいくとそうであるのですが、抽象的概念ですから実世界との具体的なイメージが出にくいというということが難解にしているとようです。そんなときに ふとあのアメリカ人たちならどう読むかと勝手に想像して、おもいだしたのが 上の「con-」とつなげて読むということでした。そうすると 以下のようになります: 
彼の哲学は、対象の存在認知としての方法論として、現象論を積極的に導入します。その現象とは、考える主体の自分(共有をふくむ)とその対象を一体とした存在を取扱います。それを「実存」とよんでいます。さらに、その「実存」に<「関心」をもち>、その個別の存在として<「関与」していく>主観的概念として、「現存在」Da seinを導入したと理解する。

<…>の部分が「con-」です。注意して読むと、ハイデガーは論述の各所で この筋を使って、小まめに総括していますが、気が付きにくいところです。 私は、勝手に。彼の文のなかでの「現存在」を「関与」さらに「Agent(機関)」と読み替え、また、彼の文のなかの「実存」を、「関心」さらに「Institutive」として、読みかえることを試みました。 結果は、意味が一貫してきて刺激的で興味ふかいものになることを経験しました。(本来 もっとひろい解釈かもしれませんがひとまずそうしました)

そういう文脈で うえのScientific Objectivity(科学的客観性(価値性)と訳しました)を読んでいきますと、そこでは。価値自由理念Value Free Ideal(VFI)と価値負荷理念Value Laden Ideal(VKI)を別けて、意味をしっかり位置づけていることを知ります。前者が、カント~ウェーバーの認識論的な知そのものへの思考であり、後者は、経済学や政治学のような実践的(プラグマティズム)知として実社会への関与への思考としています。
おもしろい例として現代医療の中心が「Evident based medical」として 徹底的にデータベース依存になっている。これで目下米英系社会は、成果をあげている。ここでの医者は医療プロジェクトのメンバーのひとりで、その病気の専門家ではなく、データ科学実務者でして位置づけられています。(つまり技術者の集団です) これだけで、ほんとうによいのか、つまりValue Laden Idealだけでなく、Value Free Idealへの配慮が必要ではないのかの問い掛けは意識していて、その答えは出ていないと括っています。 
SearleとDerridaとの論争の背景は、多分こういうところに位置するのであろうと 想像しました。 最後にいきつくのは、価値の本源としての、「現存在」に帰ることになり、そして人間の生き方を基本から考えるという意味では、デリダのいう提言「脱構築」であろうと 思うものでもあります。

 人生の「終活」に入った私には、優しい提言であると悟ります。AgentやInstitutionに不満があってもそれからの恩恵に深謝するということでもあります。
徒然ことおわり。

 


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