不幸せからの脱出法

「不幸せ」からの解放をテーマにした、スピリチュアルなお話。

「不幸せ」からの脱出法 <12:天上界と繋がり、「心配」から解放されよう>

2024-05-01 07:21:45 | スピリチュアル

「心配」の種は私達の人生に常について回ります。

物事がうまく運ぶ日々もあれば、思うように運ばない日々も必ずやってきます。うまくいっている時は要注意です。私たちが自分たちの力を過信し、高慢になり、天上界との繋がりなど不要だと感じやすいときだからです。この点については後の回で詳しく見たいと考えています。一方で、うまくいっていない時やそれを想定する段階で私たちはしばしば誤った判断をしてしまいます。今回は、特に私たちが「心配」するという行為について見てみたいと思います。

米国バーモント州、チャンプレイン大学のキンバリー・クイン教授(Ph.D)は、 2022年6月"Psychology Today"に寄せた記事で次のような指摘をしています。
・「心配」に時間を割くことを許してしまうと、それが自己問答を通して拡大・強化されていく傾向があり、貴重な時間を奪っていく。
・過去の災難や失敗に想いを巡らすと、現在の行動・体験に悪影響を及ぼす。
・今後における不確実性に悩まされる事は無意味であり、問題解決に貢献する事はない。

では「悩み」で心が折れてしまいそうな時や、「心配」するという行為に時間が割かれてしまう予感がした際にどうしたら良いか?

バイブルの答えは: まさにそんな時こそ天上界との繋がりを求めることが勧められます。なぜなら、天上界への信頼が私たちの心を守り、その心理的なメリットは当然ながら、それと同時に問題解決に必要な知恵が霊の働きを通して与えられることも期待できます。更に「心配」の種自体が天上界の超自然的な力で処理されることも多々あるからです。つまり、時間を割くならば、比較にならないほど優れた代替案が提示されているという事なのです。

今回の天上界からの一言(二言):

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(ピリピ人への手紙 第4章6~7節)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い煩うのか。野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書 第6章25~34節)

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【今日の余談】
食欲の秋。焼肉屋さんの雰囲気だけでも家庭で楽しもうと、肉を数種類スーパーで買ってきて、さあ準備。でもフライパンで頑張ってもどうしてもその雰囲気が出ない。そんな経験はありませんか?


 

 


「不幸せ」からの脱出法 <11:創造主に導かれて、豊かに満たされた人生をおくる為の「最高指導霊」>

2022-11-29 19:01:21 | スピリチュアル

豊かに実を結び、心も満たされた最高の人生を生きるための究極のマニュアルがバイブルである事を、繰り返しお伝えしていますが、そのバイブル(特に新約聖書)の主人公である「キリスト」とは、一体何者で、どういった存在なのでしょうか?

多面性を極めているため、それを一言で表現するのはなかなか難しいのですが、前回は「天上界の究極の代弁者」、「創造主の化身」という言い方をしました。このブログでは基本的にそれらの呼び方使用したいと考えています。また「最高指導霊」という表現を使用する場合もあるかと思います。

その「天上界の究極の代弁者」「創造主の化身」により深く親しむために、まずはその多面性について一通り理解しておきたいですね。バイブルの中で描写されているその様々な「面」の幾つかを、ここで一瞥しておきましょう。

①創造主が私たちに求める、喜びに満ちた正しい生き方を教える「最高の指導者」
②天上界の奥義を伝授する「究極の預言者」
③人々の病気を癒し、死人を蘇らせ、5つのパンと2匹の魚で5千人の群衆を満腹にさせるなどの多くの奇跡を行った「最強の超能力者」
④私たちの悲しみや痛みの全てを理解する「受難者」
⑤私たちが、創造主と永遠に繋がり続けて生きることができるために、自らを生贄として捧げ、犠牲の愛を実証した「究極の愛の実践者」
⑥「死」をも克服し、信頼して従う者達全てを勝利に導く「圧倒的勝利者」
⑦①の「最高指導者」としての記録を記述する聖書の時代を超え、現在でもスピリチュアル界で私たちを導き続ける「最高指導霊」

等々。

そして、「8回目」でも述べましたが、私達に必要なのは、創造主の化身が「死」を克服したという事を史実として受け入れて「救い」と「祝福」をゲットしようと教える「ご利益宗教」に入信する事では無く、創造主の化身に絶対の信頼を置いてその導きに従う決心をするという事で、その決心が後悔に至る事は決してありません。

(次回に続く)

 

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【今日の余談】
もう11月も終わります。これからの季節は特に空気の清浄と乾燥対策に心を配りたいですよね。


 

 

 


「不幸せ」からの脱出法 <10:生きることが何故そんなに苦しいのか。人生の主導権を誰に?>

2022-11-09 23:19:08 | スピリチュアル

あなたの人生の主導権は誰が?と聞かれたら、「もちろん自分自身」と答えるのが最も自然に感じますよね。「権利」として見ても、「責任」として見ても、自分の生き方は自分で決めるし、自分が何を好み、何を考え、物事の優先順位をどのように決めるか等々、主体は自分自身であるべきというのが主流でしょう。

しかし、バイブルによれば、その主流派の考え方こそが究極の過ちという事になり、例えば私たちが鬱になり、不幸せになり、孤独に死んでいく理由がそこにあるという事になります。そして、じゃあ誰に人生の主導権を明け渡すのかというと、「天地をそしてあなたを作った創造主に」という答えになります。

さすがに、これには私たちの殆どが違和感を感じずにはいられません。私たちは「それは他力本願そのものだ」「無責任な生き方だ」と言いたくなります。更に悪いことに、生きる事の主導権を明け渡すという天上界の教えを利用して、宗教団体などがその主導権の譲渡を迫ってきたりすることも普通にあります。

結論を言うと、主流派の「自己責任論」にも宗教団体などの「主権譲渡の勧告」にも騙されてはならず、あくまでもあなたに与えられた権利である「自己決定権」の行使として「天地をそしてあなたを作った創造主」に自らの思いや考えを支配させ、すべての言動を委ねるという事が求められます。そして、この一見他力本願的で「カッコ悪く」見える決心こそが、あなたを苦しみや不幸から解放する究極の選択であるということを、是非知って頂き、その実践をもって検証し体感して頂きたいです。

実際に、一見とても聞こえの良い「自力本願」の「責任のある生き方」、カッコいい生き方があなたをどこに導いたでしょうか?また不幸せからあなたを解放する術を提供できたでしょうか?

最後に、天上界からのメッセージを一つ紹介します。その中には幾つか馴染みのないワードもあるかと思いますが、とりあえず現時点ではこの中で出てくる「わたしの父」は「創造主」、「あなたがた」は私達人間一人ひとり、そして「わたし」の事は「天上界の究極の代弁者」又は「創造主の化身」と捉えて下さい。

今回の天上界からの一言:「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。」(ヨハネによる福音書 第15章1~6節)

(次回に続く)

 

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【今日の余談】 エレキギターを始めたい方の「最初の一本目」にオススメな、コスパ最強アイテム。シングルコイルタイプとハムバッカータイプの2種類のピックアップを装備しているため、歯切れのよいクリスピーなサウンドから丸くて優しいトーンまで、幅広いジャンルへの対応力に優れています。楽器店にてストラトの年代物等と弾き比べをしてみては。


 

 


「不幸せ」からの脱出法 <9:スピリチャル界の入り口。真の大前提>

2020-06-27 16:12:39 | スピリチュアル

ここから先は霊界についての本題になります。

スピリチュアルの世界での最高のマニュアルは「聖書」であることを繰り返し強調していきますが、一方で「正統な」キリスト教徒がこのブログを見たら異端による発信に見えるかもしれません。多分見えるでしょう。「キリスト教界」が長年培ってきた伝統を特段重んじることなく、また「天上界」などキリスト教界では馴染みの薄いワードも使われていたりしますから。ここでは「型」にはまらないことが強く意識されているがゆえに。

また、一般的な「キリスト教」に対してこのブログで提唱している内容がより「リベラル」であったり、より「保守的」であったりするわけでもありません。ただ、伝統、慣習、型については思いっきり「リベラル」でしょう。しかし同時に天上界との結びつきや対話とその教えの実践ついては群を抜いて厳格になろうかと思います。

さて、先ずは大原則から。通常「神」と呼ばれる、自然界の全てを創り上げ治めている存在が実在するのかしないのかという事について考えてみましょう。「そんなものは存在しない」という立場を取るとしたら、天体・微粒子・生命の誕生と成長などを含む、ありとあらゆる精密で複雑な自然界の仕組みの全てが「偶然と偶然が重なり合って」出来上がった事になります。しかしその偶然説を信じるならば、それは呆れるほど凄い「信仰」が要求されます。

もし私が100均で買った腕時計を指して「偶然と偶然が重なり合ってこれが出来たんだよ。凄いだろ!」と言ったとしたら、多分残念ながらそれを信じてくれる人はあまりいないのではないかと思います。しかし、例えば女性の胎内でへその緒が胎児に栄養補給をするシステム一つ取っても、間違いなく100均の腕時計よりも複雑で高度な「仕組み」を見ることでしょう。つまり、100均の腕時計には「それをデザインする人や製造する企業があるに決まっている」のであれば、自然界・超自然界に存在する諸々の仕組みにはそれ以上のことが言えるわけです。

なので、自然界の全てを創り上げ治めている存在を、それを何と呼ぶかは別として、認めることを先ずは大前提に据えること。それは、それほど難しいことなのでしょうか?

今回の天上界からの一言(二言):

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言1章7節)

「 愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている・・・。」(詩編53篇1節)

(次回に続く)


「不幸せ」からの脱出法 <8:「まず信じなさい」?>

2020-06-25 14:44:48 | スピリチュアル

このブログは、キリスト教に対する批判や価値の否定を目的としているものではありません。

「不幸せ」から脱出し、明るく喜び満たされた日々を送るために最も重要なキーが天上界との繋がりであって、そのための至上のマニュアルが聖書であるという事が、最もお伝えしたいことです。その一方で、宗教の持つ「伝統」や「慣習」の中には、天上界との滑らかな交信の妨げになりがちなものもあり、検証するに値する部分がある事。そして「妨げ」や「つまづき」になる要素は取り払っていきたいと考えるのです。

宗教の共通項の一つに、救いや悟りは自らの意識改革や行いによって「獲得」または「到達」するという概念がありますが、一方で例外的にキリスト教に於いては、「神の犠牲の愛と恵みによって、救いは既に提供されていて、救いを得るにはそれを信じて受け取るだけ。後の話はそれから。」という事になります。確かにそのこと自体は聖書の教えと一致していると言えますが、「キリスト教」という宗教そして「教会」という組織の中でどうしても起こりがちなのが、「信じることを公言するように個人が導かれ、『救われた』という断定が人間(牧師及び周りの信徒達)によって(意識的に又は無意識のうちに)下される、少なくともそのような形をとってしまう事だと思います。 

ここで考えたいことは、一つは「救い」にせよ「悟り」にせよ「解放」にせよ、それを客観的に断定できるのは、人間ではなく天上界の権威ではないのかという事。そしてもう一つは、「信じる事」が唯一絶対かつ必須の条件であるからこそ、その「信じる」とは何かという事に十分に考えを巡らせず、また十分な説明もせずに、「信じましたね?」「はい、信じました。」に持っていくのはいささか乱暴なのではないかという事です。

ここで有名な個所、「ヨハネによる福音書」の第3章第16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の中の「信じる」を見てみたいのですが、ギリシャ語の「発音:pisteuō」が使われていて、これは「信頼する」というニュアンスを持った「信じる」になります。即ち、解放者・救世主として油を塗られたメシアについて歴史上起こった事(処女懐胎及び再臨など)を単に史実として認めること、又は「神の子である」という定義を受け入れるという事よりも、「このメシアの力と権威と愛に自らの人生を100%委ねれば絶対間違えが無いんだ。」という確信の下、信頼して従っていく決心。これこそが問われるのではないでしょうか。

(次回に続く)