おでかけmemory

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さぁ きょうも おでかけしましょ。

奈良 中西遺跡

2015-08-25 | 遺跡/現地説明会

奈良 御所(ごせ) 中西遺跡 現地説明会

京奈和自動車道 御所南ICの建設予定地で、2009年より継続調査されていた

中西遺跡内から南北約400メートル、東西約200メートルを超える大規模の範囲で、

古墳時代前期(4世紀前半)26棟の竪穴建物跡(一辺3~6・5メートル)や、

鏡を模した鏡方石製模造品(直径6・1センチ)、その他多数の土器が出土しました。

方形区画施設(祭祀空間)と竪穴建物群(居住空間)が

計画的に造られた集落としては稀に見る大きさだそうです。

(竪穴住居ではなく、「竪穴建物」と表記されているのは、住居だと断定できていないからだそうです。)

 

この周辺では、さらに1mくらい掘りすすめば、弥生時代の水田が出る地層だそうです。

一般的な豪族が単独で造営できる規模ではないと思われるが、

遺跡周辺は5世紀に活躍した大豪族の葛城氏の本拠地なので、

「葛城氏ならば、造営できた可能性もある」が、

ヤマト政権にかかわる施設の可能性もある。と推測されるそうです。

流路で、北群と南群に画さられています。  その内側は、で細分されている。

遺跡内は、板を敷いた簡易道(中央部)が作られていて、間際で観察することができます。

(ヘルメットをかぶっている方々は、関係者なので遺跡内に直接立っておられます)

竪穴建物跡 

祭祀で使用した土器をまとめて捨てた土杭 

井戸

 の写真に解りやすく赤ラインを引きました。  上下を見比べると

断面の部分の内と外で土の色が違います。内側(左)が黒い土、外(右)が白っぽい土

表面半円形の部分は井戸として使用するために、丸太をくりぬいて嵌め込んでいる。

井戸を使い終わった後、土器等を入れて封をしたようです。

      流路より出土した直径6・1cmの鏡方石製模造品(滑石製、祭祀用に作られたと推定される)           

  

             煤で黒くなっているので、生活で使用されたものだろう。 

                                   祭祀用?の高杯 

  

  

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奈良 小山田遺跡

2015-01-21 | 遺跡/現地説明会

奈良 明日香村 小山田(こやまだ)遺跡

5、6時発掘調査 現地説明会(1・18)

今回の調査で、貼石、敷石板石積みの掘り割りが、出てきました。

7世紀中頃の可能性が高く、他に例を見ない構造だそうです。

詳細は、朝日デジタルの記事 こちらで

開場手前50m程の所で、最後尾が見えてきました。   遺跡が出現した養護学校の校門まで、約10分経過 

  

1時間くらいの待ち時間を予想して来ましたが、15分程度で説明場所に到着、嬉しい誤算です。

  

いよいよ、発掘現場へ  150名づつ区切って入れたので、ゆっくり見る事ができました。

  

掘り割りと噴丘裾部

貼石、敷石

板石積み

 

今回の遺構は、埋葬された古墳を囲む周りの部分(堀)である可能性が高く、

新たな出土品の発掘が楽しみです。

予想される古墳に当たる部分には、現在、養護学校が建っています。

被葬者は、舒明天皇か? 蘇我一族か?とメディアが、賑わっていますね。

手がかりになるものが、出土してほしいものです。

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出雲 西谷墳墓群

2011-11-20 | 遺跡/現地説明会

荒神谷遺跡を後に  次は 西谷墳墓群へ 行ってきました。

     《王家の谷》と呼ばれるに相応しく3世紀(弥生時代後半)から古墳時代にかけての500年に渡り 墓地だった遺跡です。

     その中でも 6基の日本最大級 四隅(よすみ)突出型墳丘墓は 代々の出雲王の墓地だろうと言われています。

         前に読んだ幾つかの本には 高句麗、新羅に類似した墳墓があるので それが伝わり 摸したのだろうと書かれてありました

四隅突出型墳丘墓とは
    中国地方の山間部で作られ始め 山陰(出雲)地方を中心に広がり 北陸地方にかけて作られた墳丘墓
    これまで約90基が確認されています。形状は のように方形でコタツに布団をかぶせたような形

    外側の法面には石積みがされ 墓裾は2列の石で囲われていた。また墓上では葬送儀礼が行われたと考えられています。

       2号墓(約46m x 29m x 3.5m)   

 

 (パンフ

墳丘墓より発掘された土器の中に 儀礼用の吉備(岡山)や北陸の土器が見つかりました。

それら他地域の土器が発見されたことで それらの地域との交流があったと想像できます。

こちらの2号墓は 中に入ることができます。中は展示室になって 埋葬時が再現されています

  

                    3号墓 実際は芝ではなく こちらも石積みだったそうです

    

   今回 訪れた1~4号墳墓の位置 (パンフ

  出雲地方を中心に建造された四隅突出型墳丘墓は 

  3世紀後半古墳時代が始まると突然消え 

  大和政権勢力の強力化と並行して

  近畿地方で発展した古墳へと姿を変えた。 

 ということは

 ・・・大和政権に屈した?神話の国譲りにつながるか?

 

 

 王の墓は 古墳時代から【古墳】と呼び それ以前は【墳墓】と呼ぶ)

四隅突出型墳丘墓の側にある 出雲弥生の森博物館    ( パンフ

   

  こちらの博物館では 四隅突出型墳丘墓より発掘された

  副葬品の展示や 出雲王についての解説、

  弥生時代の衣装に着替えるなど

  様々な体験もできる施設です。

  小学校低学年生が 楽しげに体験学習をしていました

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出雲 荒神谷遺跡

2011-11-18 | 遺跡/現地説明会

加茂岩倉遺跡を後にして 出雲 荒神谷遺跡に 行ってきました

 一片の須恵器の欠片を見つけたことをきっかけに発掘調査が開始され、1984年(昭和59年)、これまで日本全土で発掘された
すべての銅剣の数(約300本)を大きく超える
 358本の銅剣が 神庭荒神谷の一か所から発見されました。

また翌年には 7m離れた位置で
 銅鐸6個、銅矛16本も発見されました。(銅矛については 九州産と形状や特徴が一致)

これまでに  銅鐸の出土場所は畿内、東海、北陸、四国東部

        銅矛の出土場所は九州、四国西部

限定されており 一か所で 銅鐸と籐鉾が同時に出土したことはなく ここ神庭荒神谷で両方が一緒に発見されたことは

この地において近畿、九州の両地域との交流があった「大きな国」が存在していたと証明できる 大きな発見になりました

古事記や日本書紀の記述に沿う出雲王の存在が そしてそこから発展して「国譲り」が見え始めてきました。

   銅剣、銅矛は 悪霊を寄せ付けないようするための祭祀道具として位置づけられています。 

   銅鐸も 住居跡から発見されたことはほどんどなく 神を招く鐘として祭祀時に使われたものと考えられます。

また これら青銅器の制作年が2世紀半ば頃と考えられるので 歴史史上3世紀に登場する邪馬台国ができる前の時代
埋納されたようです。             ・・・・・ これも 神話【国譲り】に繋がるかもぉ 

358本の銅剣(全長約50cm)は、標高22mの小高い丘の南斜面の中程に段をつけた場所で 発見されました

 

上の写真の右下にある階段を上った 位置から。  
          4列34本、111本、120本、93本刃を立てて並べて 埋納されていました。

 
 列目34本、 列目111本、 列目120本、列目93本。パンフから   

 

 列目は 剣先を東と西に向けたものを交互に 

 列目は 4本だけが剣先を西を向き、

  残りは東と西に向けて交互に

 列目と列目は すべて東に向けられてあった。 

 

 また 屋根があったことを示す4本の柱穴跡も 

 見つかっています。


 荒神谷遺跡の出雲型銅剣にも 加茂岩倉遺跡の銅鐸と同様に「×印」が刻印されてありました

なぜでしょう?弥生時代も【X】を【バツ】と捉えていたのでしょうか?そうではなくて【〆(締め)】として何かを封印したのかも

しれません。ならば 何を封印したのでしょうか?【無念な魂?】・・・・・これも【国譲り】に繋がっていくように思えます。

【銅鏡の登場】(=卑弥呼の登場)の頃に銅鐸は消え 祭祀道具も銅鐸から銅鏡に変わりました

そうそう簡単に祭祀道具を変えることは考えられないので 長が変わり(国譲り?)その長の無念(?)を鎮めるために

別格の神殿(出雲大社)を築き これまでの祭祀道具の銅鐸を封じ込めたのでは?と 勝手に想像します。

そう考えると 国譲り後、脈々と続く万世一系の宝物【三種の神器】のひとつに 鏡が入っているのも うなづけるのですが・・・

未だ 邪馬台国、天孫降臨、などなど紐解けない倭の原点は 今後解き明かされるでしょうか・・・

  この道の先にある 木が生い茂った中の丘に

    上記の荒神谷遺跡 出土場所があります。  

  

   途中からは 未舗装です

   荒神谷遺跡の入り口にある 荒神谷博物館

  銅剣のレプリカが出土場所とともに再現してあります。

  手袋をはめて触れるレプリカの銅剣、銅矛、銅鐸は

  実物の形状、重量まで同じにしてあります。

  銅矛は3kg弱あり ずっしりと重かったです 

  ここでも 職員さんが丁寧に質問に答えてくださいます。

  
銅剣を 実際に目にしてみると根元が短くて とても剣としては木製の柄に取り付けることができない作りなので

やはり祭祀道具と考えるのが妥当のようです。

こちらの博物館もレプリカ展示です、実物は このあと訪れた古代出雲歴史博物館にあります。今から わくわくします

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出雲 加茂岩倉遺跡

2011-11-16 | 遺跡/現地説明会

出雲 加茂岩倉遺跡へ 行ってきました

  平成8年10月14日、農道を建設するために重機で丘を切り開いていたらバケツのようなものが現れ 作業員が不信に思い

確かめたところ 青銅器のようだったので通報したそうです。 すでに重機で壊れたものを含め 一カ所の出土において

全国最多の39個の銅鐸を 確認しました。

 2000年の眠りから目覚めたこれら銅鐸は その後の調査で弥生時代中期から後期のものと判明。  

発見(出土)場所は 昭和58年、大量の弥生青銅器、銅剣358本が発見された神庭荒神谷遺跡や 

景初三年(卑弥呼の銅鏡と同年)三角縁神獣鏡」が出土した原神社古墳、また 歴代の出雲王が葬られただろう

弥生時代終期(約1800年前)の四隅突出(よすみとっしゅつ)型墳丘墓西谷墳墓群とも 近い位置にあります。 

設置された航空写真を見ると 3つの遺跡 西谷・・神庭荒神谷・・加茂岩倉の位置が把握できます 

 

発掘場所では 出土当時を再現しています 

 

出土場所へは から 緩やかな坂を、数分で到着です。   途中の車止めも 銅鐸です 

   

      あと少し この階段を登りきると 出土場所です。 

        出土場所を見た後は そのまま木道を・・・・・・加茂岩倉遺跡ガイダンス(総合案内)に到着。 

    

銅鐸の実物は 出雲の県立古代出雲歴史博物館に 展示されてあり(後にUPします)
加茂岩倉遺跡ガイダンスには 出土した39個の銅鐸 パネル、レプリカが展示されています。

常駐されているボランティアの方が 疑問、質問に丁寧に説明をしてくださいました

【雲南市HP】出土した銅鐸の詳細説明は こちらをご覧ください

レプリカ と パネル

  

加茂岩倉遺跡の銅鐸の不思議

   出土された39個の内大(約45cm)の銅鐸の中に小(約30cm)の銅鐸を入れた入れ子状態の
    ものが12組(24個)あった

   13個の銅鐸の鈕(吊り手)の中央に X印が付けてあった。
    
(後で行った神庭荒神谷遺跡の銅剣358本中344本にも X印が付けてあった)

また近畿地方、中国、四国地方で出土した同范銅鐸(同じ鋳型で作られた銅鐸)が26個あり 他地域と交流があったと想像されます 

この、は偶然ではなく 意志を持って残したと考えられます。何故?そしてどういう意味があるのか・・・、

多くの学者、研究者が仮説を記されています。そのどれもがそれらしくて、知識が乏しいsapphireは どれを読んでもわくわくしました

    拡大すると 鈕(吊り手)の中央に 

    X印が はっきり見えます 

   

銅鐸について
    弥生時代の代表的文化の青銅器道具として登場するにも関わらす 『古事記』『日本書紀』には登場しない   

    銅鐸が多数発掘された近畿圏で 弥生式文化の後期(2~3世紀)に盛大となるが、その後は全く無くなった。

    住居跡からは ほとんど発見されず、何も無いところで発見されることがほどんど、祭祀道具とおもわれる。

     わざと割って埋納してあるものもある

と道を挟んで向かい側には 大岩 伝説が ありました


 
 

続いて神庭荒神谷遺跡へ   

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茅原大墓古墳

2011-03-01 | 遺跡/現地説明会

茅原大墓古墳(ちはらおおはか)現地説明会に 行って来ました(2.26 一日限り) 

盾持ち人(たてもちびと)埴輪

  

珍しい笑顔の埴輪です。鼻とオデコが黒いのは 焼く時の温度が充分でなかったためで

また そこには 隆起するものが付いていたが 剥がれ落ちたと想定できるそうです。

は (縦47センチ、横50センチ)頭部は(縦17センチ、横16センチ)で 三角のかぶとをかぶっています。

そして よく見ると 顎には 線刻で刺青が彫られています

盾持ち人埴輪の最古のものは5世紀前半でしたが 今回の盾持ち人埴輪は 

4世紀末ごろ と思われるので 数十年さかのぼり 最古となるようです。
線で囲った部が 盾の部分  

 

 

 

  質問には 桜井市の遺跡発掘のたびにメディアに解説されている橋本さんが 
ジャスチャーを交えて 丁寧に答えてくださいます

 

    の盾 (部)を UPで。  

   菱形文が くっきりと線刻されています 

  

                             このテントに中に 出土品が展示されています  

  

もちろん 触れることはですが こんな至近距離で 見ることができるのは 現地説明会からだこそです。

  

  
 今回 盾持ち人埴輪が出土したのは 図部の【4-2の場所(前方後円墳の 前方と後円の境目 くびれ部分

     

おそらく発掘された場所より上段(後円部の傾斜がある部分)に立っていたが  

何らかの原因によって崩れ落ち頭部と下部が 離れた場所で発掘された?と考えられます 

また 上図【4-5】の部分からは 主葬者の縁者と思われる 埴輪棺が出土されました

 

  段々になった後円部の石垣は

    築造当時のものではなく 

    近現代の調査時に 積んだものだそうです

 

 

 

 

 

   後円部の頂上から 西を見れば 卑弥呼のお墓か?と諸説にぎわす箸墓古墳が見えます。
     そのはるか彼方には 大阪と奈良の境 二上山も見えました

      その位置で振り返れば  反対の東に 大物主を祭る大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山が あります
      つまり ここ茅原大墓古墳は 箸墓古墳(3世紀)と三輪山の間にあります

  

15分ほど。 三輪山の麓 大神神社の大鳥居と ご神体の三輪山

  

今回の調査成果 【現地説明会で理解できたこと】   
 古墳の形が珍しいこと 
   墳丘の端、葺石が出てきたので 規模が 後円部 径 およそ72m、 全長 86mと把握でき
   全長が短いので 形態が 帆立貝式の前方後円墳(4世紀末頃より出没してくる)と判明した。
   周りにある箸墓などの古墳(300m)から比べると 全長が短い(86m)ので 勢力が主流派から非主流派に外れ 
   大和衰退期に築造されたと推定できる (勢力の衰えとともに 小さくなったのだろう)
   その後 勢力の移動とともに 古墳も大和から大阪へ移り 羽曳野、古市近辺~堺あたりで 大きな古墳が築造されるようになる
  
 珍しく重要な出土遺物が出てきた
   盾持ち人埴輪が出てきた・・・古墳の端で出土することが多いので 他の形象埴輪とは意味合いが違う
                         盾を持って外を向いていることから 邪悪なものから古墳を守る役目だろうと考えられる

   円筒埴輪列が(数段)見つかった。今回多数出土したので 古墳築造の年代が4世紀後半と特定できてきた
 
   埴輪棺も見つかった(埴輪を棺に転用したもよう)同古墳から出土しているので 被葬者の縁者だと推定できる

                                                                                                           以上 

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越塚御門古墳

2010-12-12 | 遺跡/現地説明会

発掘されたばかりの 越塚御門(こしつかごもん)古墳 現地説明会に 行って来ました 

   現時点では 日本書記に記された内容667年 斉明天皇と間人皇女を合葬する。皇孫大田皇女を陵の前に葬る』と 

   ほぼ一致しているので 大田皇女(おおたのひめみこ)【天智天皇の娘で 大海人皇子(天武天皇)の妃】だろうと・・・ 

              発掘された越塚御門古墳は

               7世紀後半の石室、

               位置も記述通り 斉明天皇陵だとされる牽牛子塚古墳の20m南東

   (現在 宮内庁のち治定では 斉明天皇は牽牛子塚古墳ではなく これより2.5km南西にある 別の古墳とされている) 

 

           今回は解説は無くて 聞きたいことがあれば 所々に立っている係員に 個別に質問をする形式でした

 ゆるやかな道を 登っていくと 古墳に着きます。   終了1時間前  待ち時間は このあたりで 約20分。                     

 

  上が南  下が北。  牽牛子塚古墳から見た 今回発掘された 越塚御門(こしつかごもん)古墳

 

                                     西から

 

                           南から 後ろの人垣の後方が牽牛子塚古墳  距離は約20m

 

                           バラス敷の墓道(1m X 4m)   

 

北側の今年9月に ほぼ斉明天皇陵だと確定した 牽牛子塚(けんごしづか)古墳

  

 

飛鳥の地の足元に眠る偉大な歴史が目を覚ます 新たな発見が楽しみです

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奈良 纒向遺跡

2009-11-15 | 遺跡/現地説明会

桜井 纒向(まきむく)遺跡の現地説明会に 行ってきました(14、15日の2日間)
ここの発掘を どれほど楽しみにしていたことか…、もうです

都合がつかず 来られなかった方へ。 現地説明会の様子です。 
13分の説明をすべてを収めましたが You Tubeが 最大10分なので 前後を3分カットしました
ほぼ 本題には影響はありません。ただ 所々雑音があります
解りやすく 解説して下さっています 



新聞によると きのうの説明会には 午前10時のスタート前に 考古学ファンらが殺到し、
開会と同時に入場を制限されたそうです。(2日間の来訪者は 1万人超)

連日、各メディアが こぞって
邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿の可能性がある3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかった
と報道し、特集記事が紙面を賑わしています。
そんな状況に 日に日に 邪馬台国畿内説が盛り上がってきました。

説明会で桜井市教育委員会の橋本さんは 「古墳時代は纒向遺跡から始まった」
 「卑弥呼論争よりも配置、方向性、はじめて東西南北を意識した建物跡が見つかった」
 「纒向以前と ここからとでは建物様相が大きく変わったことがわかった」 

古墳からしか分からなかった《古墳時代の始まり》が 今回の発掘で建物様式からも探れるようになったことが 
卑弥呼論争より とても大きな事だと説明されていました 

なぜなら それ以前の弥生時代では 地形に合わせてバラバラに建てていた(吉野ヶ里遺跡など)が 
今回の建物跡を含め 発掘された建物跡4つは 東西の軸線上に 並んで建物の中心がある。 
つまり《方向性》を考慮していることが分かった。

古墳時代のあとの飛鳥時代から始まったとされている 方向性を重視した建物(飛鳥京、藤原宮など)は
南北の線上に立てられていました。今回は東西ということで 太陽信仰と結びつくのかもしれません。
 
説明の中にあるように 黄色の筒が当時の柱です。
太いものが主柱(直径32cm)で 屋根(約10m)まであったと思われます
細い柱は 主柱の間隔が4.8mと広いので 床がフカフカしないように補強する為に 添えられた束柱(直径15cm)です
構造からだと建物は平屋の高床式で 床の高さは 2mくらい、広さは238㎡(畳 140~150畳くらい)だったようです
その後 この柱はすべて引き抜かれ 別の場所へ リサイクルされたそうです


西から東を向いて撮りました。ちょうどJRが通過



中央から北向きに撮影



南から北向きに撮影





東(線路側)から西を撮影



北から 南向きに撮影



俳優 苅谷俊介さんが 桜井市の腕章をつけて 説明会に参加されていました
10数年 通いつめて発掘を一緒にされていたそうです。今回彼の持論と予想通りの遺跡が 出たようです 



一緒に出土されたものの一部





これまでの出土品から伺える纒向遺跡の特徴は 
この時代の遺跡からは たいがい出土している農具が出土していない
なので 祭祀のための建造物跡と想像できる(そこから発展して 卑弥呼の居住地か?)
九州、中国地方から東海、関東にかけての器が 多数出土している → 国の中心的な位置

またまた わくわくしてきます  

現地説明会のそばで売っていた 奈良新聞(11月11日と14日の2部で 200円)

 

今後の発掘調査の進展に が 離せません 

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桜井茶臼山古墳

2009-10-30 | 遺跡/現地説明会

桜井茶臼山古墳現地説明会(29~31日限定)に行ってきました。



 緑の矢印が順路です

 

桜井茶臼山古墳
4世紀前半から中葉にかけて(古墳時代前期前葉)築造された前方後円墳 竪穴式石室
墳丘長 207m,前方部幅 61m,前方部高 13m,後方部径 110m,後方部高 21m,
被葬者は不明、大王級の人と推定される

県立橿原考古学研究所 22日の発表

  60年ぶりに行われた桜井市外山(とび)の桜井茶臼山古墳の石室内調査で 石室内に、
  古代中国で不老長寿の薬とされた赤色顔料「水銀朱」が全面に塗られていたことが分かった。
  水銀朱の使用量が国内の古墳で最大となる約200キロと推定しており、
  荘厳な葬送儀礼が行われたとみられる。

報道によると 最大の難関である石室から木棺を取り出す作業のために 
県橿原考古学研究所は 石室と木棺の20分の1模型を製作し、実験を繰り返し行い 
石室を覆う天井石12枚のうち、3枚だけを動かし 木棺を取り出すことに成功。
また木棺を置くために 岩盤をU字型に掘り下げ、その上に 水銀朱を塗った石や土を重ね、
丁寧に据えつけていたことも判明した。石室は、板状の石を垂直に積んで壁を作り、
その上に大型の石(最大1.5トン)を12枚乗せて天井にしてあった
内部は全長6.75メートル、幅1.27メートル、高さ1.71メートル
石は見えるだけで1000個以上あり すべて【水銀朱】が塗られていた。

R165から。手前は用意された30台弱の。       受付を済ませ ①の位置(拝所)から 仮設階段を昇りました

  

 

②の場所へ進む途中には パネルが配置され、録音解説が流れています

 

 

石室直下まで進むと 安全確保のために 20人くらいづつに区切って 一列で登ります



階段を登ったら③の位置です。 視界いっぱいに 広がります。 



順路に沿って 一回り(時計反対回り)しました



上の写真の中央部 穴の部分、右側からのUPです







土にまみれた中に 水銀朱が うかがえます



④の位置から



はずされた3枚の天井石



産経ニュース(前川純一郎氏撮影)の空撮を見れば 三輪山との距離がいかに近いかが確認できます



三輪山の麓のこの場所に 1700年前に埋葬されたのは 誰なんでしょうか  
手がかりになるものの出土があるといいですね 

コメント (4)
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