※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■
[Ep5当時に執筆されました]
☆
『ヱリカの「愛のない解の凝集」に対して、戦人の「愛ある解の霧散」』という発言をしたのは、じつはわたしなんですが(http://digicha.jp/erlkonig/chat_s_log.html?o=18&l=50)、これは作中の事象だけでなくて、ユーザーの推理空間のことも、少し念頭に置いていました。
「ひとつの解があり、それは明かされなければならない」
というミステリーの約束事は、ひょっとして、狭いのではないか。
時としてそれは暴力性なのではないか。
現状、たくさんのうみねこユーザーが、それぞれの、無数の「解」を提示しています。そして、それは絶え間なく増え続けています。
つまり、解は絶え間なく「発散」方向にむかっている。一個に収束することなく、たえず広がり、散らばっていっている。
「うみねこ」の物語は、そのことこそを良しとしているように思えるのです。
いったい、誰の推理が正しく、誰の推理が間違っているのかを、決める必要があるのか?
「間違っている」とされたら、その推理は捨てねばならないのか?
月にはうさぎの文明がある、という美しい夢を、捨てなければならなかった戦人みたいに?
ep5で、戦人がすごく良いことをいっていて、わたしはこのセリフが大好きなのです。
「あぁ、そうだ。俺の真実に関係なく、お前の真実も同時に存在する。……それが、この世界だ」
「ここでは、想像の数だけ真実があっていいんだ。それを、誰も一方的に否定してはならない…!」
さて……。
この話は「作者」のアクションを大幅に制限しそうな予感がします。
作者が、「解答編」といって、「答え」を出したら、解がひとつに凝集(収束)し、結果的にそれ以外が否定されるかたちになります。
わたしみたいに「作者の答えより、わたしが描いた夢のほうが美しいに決まってる」とかいうあつかましい人は別ですが、そうでない大部分の人は、「ああ、これが正解か、自分のは間違ってた」と素直に思ってしまうにちがいありません。
でも、この物語って、そういう解の収束を良しとはしていないと思うのです。
「想像の数だけ真実があっていい」「誰も一方的に否定してはならない」という世界です。
「誰も」というのは、もちろん作者も含むはずです。
ユーザーが組んださまざまな推理は、その人が描いた美しい夢です。
ひとつの強力な解よりも、いろんな人のたくさんの夢が、星空みたいにカラフルに散らばっている状態のほうを、尊いと思う。そういう思想があるようにも感じられるのです。
ひょっとして、この「うみねこのなく頃に」という物語は、決定的な解答を、あえて明かさないまま終わるかもしれないですね。
ある程度、みんなが納得するような説明は出しつつ、核心だけは伏せられるとか。
たとえば、ベアトリーチェが誰なのか、といったことは、もしかして明かされないんじゃないか……という予感です。ちょっと、こわい予感ですが。
どうして、「うみねこのなく頃に解」というタイトルは選ばれず、「うみねこのなく頃に散」が選ばれたのか。その理由もひょっとしたら、ここにあるのかもしれません。
「解」も「散」も、「ほどける」という意味であって、つまり謎がほどけてゆく物語なのですが、
「ひとつの解」
という言い方はできても、
「ひとつの散」
という言い方はできないのです。
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
■関連記事
●勝利条件論
プレイヤーの勝利条件は大魔女「作者」を否定することだ
「作者」に屈服しない方法
作者も二次創作者も「後期クイーン問題」に直面する
愛なき解の凝集と、愛ある解の霧散
[Ep5当時に執筆されました]
☆
(引用開始)
昨日のうみねこチャットで出た話で「愛ある解の発散」という言葉がありました。
敵が愛なく「解」を凝集……「夏妃を犯人と決め付ける」ことから、戦人は「愛」をもって「そうともいいきれない。他の可能性もある」と別の仮説を提示する。そうすることで夏妃の名誉を守るわけです。解を発散して、一つに定めさせない。
このことから、EP6では「非現実的解釈により特定の人物が犯人として決定されかかると、戦人が愛をもって現実的解釈により別の可能性を提示する」というお話になるかもしれません。
(引用終了)
【うみねこのなく頃にEP5プレイメモ:02】[ネタバレ] ゲーム開始前 1985年親族会議/雛見沢研究メモ(仮)http://irimadonna.blog63.fc2.com/blog-entry-673.html
『ヱリカの「愛のない解の凝集」に対して、戦人の「愛ある解の霧散」』という発言をしたのは、じつはわたしなんですが(http://digicha.jp/erlkonig/chat_s_log.html?o=18&l=50)、これは作中の事象だけでなくて、ユーザーの推理空間のことも、少し念頭に置いていました。
「ひとつの解があり、それは明かされなければならない」
というミステリーの約束事は、ひょっとして、狭いのではないか。
時としてそれは暴力性なのではないか。
現状、たくさんのうみねこユーザーが、それぞれの、無数の「解」を提示しています。そして、それは絶え間なく増え続けています。
つまり、解は絶え間なく「発散」方向にむかっている。一個に収束することなく、たえず広がり、散らばっていっている。
「うみねこ」の物語は、そのことこそを良しとしているように思えるのです。
いったい、誰の推理が正しく、誰の推理が間違っているのかを、決める必要があるのか?
「間違っている」とされたら、その推理は捨てねばならないのか?
月にはうさぎの文明がある、という美しい夢を、捨てなければならなかった戦人みたいに?
ep5で、戦人がすごく良いことをいっていて、わたしはこのセリフが大好きなのです。
「あぁ、そうだ。俺の真実に関係なく、お前の真実も同時に存在する。……それが、この世界だ」
「ここでは、想像の数だけ真実があっていいんだ。それを、誰も一方的に否定してはならない…!」
さて……。
この話は「作者」のアクションを大幅に制限しそうな予感がします。
作者が、「解答編」といって、「答え」を出したら、解がひとつに凝集(収束)し、結果的にそれ以外が否定されるかたちになります。
わたしみたいに「作者の答えより、わたしが描いた夢のほうが美しいに決まってる」とかいうあつかましい人は別ですが、そうでない大部分の人は、「ああ、これが正解か、自分のは間違ってた」と素直に思ってしまうにちがいありません。
でも、この物語って、そういう解の収束を良しとはしていないと思うのです。
「想像の数だけ真実があっていい」「誰も一方的に否定してはならない」という世界です。
「誰も」というのは、もちろん作者も含むはずです。
ユーザーが組んださまざまな推理は、その人が描いた美しい夢です。
ひとつの強力な解よりも、いろんな人のたくさんの夢が、星空みたいにカラフルに散らばっている状態のほうを、尊いと思う。そういう思想があるようにも感じられるのです。
ひょっとして、この「うみねこのなく頃に」という物語は、決定的な解答を、あえて明かさないまま終わるかもしれないですね。
ある程度、みんなが納得するような説明は出しつつ、核心だけは伏せられるとか。
たとえば、ベアトリーチェが誰なのか、といったことは、もしかして明かされないんじゃないか……という予感です。ちょっと、こわい予感ですが。
どうして、「うみねこのなく頃に解」というタイトルは選ばれず、「うみねこのなく頃に散」が選ばれたのか。その理由もひょっとしたら、ここにあるのかもしれません。
「解」も「散」も、「ほどける」という意味であって、つまり謎がほどけてゆく物語なのですが、
「ひとつの解」
という言い方はできても、
「ひとつの散」
という言い方はできないのです。
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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作者も二次創作者も「後期クイーン問題」に直面する
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