さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

FGO:続・置換魔術(確率化する私たち)

2023年12月24日 12時43分42秒 | TYPE-MOON
※TYPE-MOONの記事はこちらから→ ■TYPE-MOON関連記事・もくじ■
※『うみねこのなく頃に』はこちらから→ ■うみねこ推理 目次■

FGO:続・置換魔術(確率化する私たち)
 筆者-Townmemory 初稿-2023年12月24日



Fate/Grand Orderランキングクリックすると筆者が喜びます


●前回のまとめ

 前回の内容を前提としたお話です。ので、前回をまずお読みください。こちらです。
●FGO:置換魔術で置換されうるもの(私たちとは何か)

 さて。
 読んでくださいといいつつ、いちおう雑な要約をしておきますが、FGOの世界観には置換魔術というものがあって、それは、
「よく似たものは距離を全く無視して入れ替えが可能である」
 というもの。

 この理論を使って、面白いことを仕込もうとしたら、どういうことが考えられるかな、と私の頭が考えた結果、
「ぐだと我々プレイヤーは置換可能っぽいな」

 私たちは、ぐだと全く同じ経験を積んでおり、しかも、自分のことをぐだだと思い込んでいるのです。ひょいと入れ替えたところで、ぐだも入れ替えに気づかないし、我々も入れ替えに気づかないでしょう。

 おそらくこの物語には「ぐだが道半ばで死んだり倒れたりした場合、人理保証は失敗する」という条件がありそうだ。
 なので、ぐだが死にそうになったりリタイアしそうになったら、それを監視していた自動置換魔法システムみたいなものが、ぐだと私たちの一人を、ひょいと入れ替える。
 いわば「無限残機・無限コンティニュー」でゲームをしている状態になる。
 こういうシステムが組まれていれば、ぐだはほぼ絶対に物語を完遂するので、事実上、人理を「保証」できる。

 そしてこの置換魔術を運営しているのは、おそらくFGO冒頭で描かれた「資料館としてのカルデア」ではないか。つまり「資料館としてのカルデア」は未来の存在で、その実態はぐだの足跡を大勢の人間に疑似体験させるシミュレーターであり、目的は「ぐだのスペアを大量にストックする」ことではないか。私たちはそのストックではないのか。

 というようなお話で。
(くりかえすようですが、ご興味を持った方は先行の記事を読んでくださいね)

 私は、あーこれは意外性があっておもしろい、と自分の発想を自分でほめちぎったのですが、「この説は心につらい」と感じた方も少数いらっしゃるようで。


●ぐだの絶対性がゆらぐ

 一言でいうならば、「自分のところのぐだの絶対性がゆらぐ」といった方向性のことのようです。

 このゲームには多数のプレイヤーがいて、その一人一人の世界に各人のぐだちゃんがいる。それはわかっている。
 けれども、「私の世界」においては、「私の世界のぐだちゃん」がたった一人の、唯一の、絶対の存在なのである。

 自分には自分なりのぐだちゃん像があって、「私のカルデア」という箱庭の中で、自分のぐだ像を思い切り展開させて楽しんでいたのに、それを急に「よそのうちのぐだと取り替え可能な存在です」「唯一性なんてものはありません」「ほかのぐだとの差異なんてないし、かりにあったとしてもほんの誤差程度のことです」なんて言われたら困ってしまうし悲しくなるではないですか。

 というようなことだと私は読みました。

 なるほどというか、言われてみるともっともだ。そういう感覚があることは、よくわかります。

 ただ思うのですが、「もし仮に」私が提唱したような「置換魔術によるぐだ無限残機説」が、本当にこの物語に採用されていたとしたらですよ。
(繰り返しますが、「仮に」ですよ)

 このアイデアを思いついて採用した人は、「このアイデアを採用することでみんなを喜ばせよう」という気持ちだったはずだと思うのですね。

 それはなんでかというと……という話をごちゃごちゃ頭の中で揉んでいたらまたいろんなものが出てきたので、以下それをダラダラ書いていきます。よろしくどうぞ……。


●コフィンとレイシフト

 急に話は飛びますが、コフィンとレイシフトのことから始めたいのです。

 いわゆる考察界隈で、コフィンやレイシフトがどう解釈されているのか、よく知りません。でも、私の理解のしかたはこうですよというのをまずは語ります。

 ご存じのとおり、コフィンとは棺桶みたいな密閉された箱。ぐだがコフィンに入り、外でオペレーターがなんらかの操作をすると、ぐだは時間と空間をこえて特定の過去世界にワープする。

 これって私が思うに、「シュレディンガーの猫」の理屈を使っていると思うのです。

 説明不要かも、とも思うのですが、一応「量子力学? シュレディンガーの猫って何」という方もいると思うので、「SF小説を読むのにだいたい不都合がないくらいに」説明しておきますね。
(わりとふわっと述べるので、細部でおかしくても見逃してください)

 素粒子の分野では、電子や原子の位置ないし運動量は「確率的にしか把握できない」そうです。

 素粒子は、位置を「今ここにいるよね?」と決めようとすると、そのかわりに運動量が測定不能になってしまう。
 運動量を「今このくらいよね」と決めようとすると、そのかわり位置が測定不能になってしまう。

 大谷翔平が打ったホームランボールは、「位置はここで運動量はこれこれ」と数値で表すことができますが、素粒子ではそれができない。

 そして、「位置を観測すると運動量がわからなくなり、運動量を観測すると位置が分からなくなる」のですから、位置や運動量は、

「観測するという行為によって決まる」

 という、ちょっとびっくりするようなことを量子物理学者はいうわけです。

 このビックリな話をイメージとして理解するのにわかりやすいといわれているのが、「シュレディンガーの猫」というたとえ話。

 箱の中に猫を入れる。この箱は外部からの観測は一切不可能であるとする。
 この箱には二分の一の確率で内部に毒ガスが噴射されるボタンがついている。
 そのボタンを押す。

 毒ガスが噴射されたかされないかは、50%:50%の確率なので、二分の一の確率で猫は死んでおり、二分の一の確率で猫は生きている。でも、内部を観測することは不可能なので、生きているか死んでいるかは外からはわからない。

 これ、普通の考え方では、
「猫は死んでいる」(が、外からはそうとはわからない)
「猫は生きている」(が、外からはそうとはわからない)
 のどちらか片方ですよね。

 しかし、量子物理学の世界ではそうはならない。どうなるかというと、
「猫が死んでいる状態と、猫が生きている状態が、重なり合っていて、まだ決定されてない」
(両方が半々ずつ箱の中に入ってる)

 こういうのを、(猫が生きているか死んでいるかは)「確率的にしかとらえられない」(この場合は50%:50%)というのです。

 じゃあ、猫が生きているか死んでいるかはいつ決定されるのかというと、
「箱を開けて、中身を確かめた瞬間だ」

 つまり、猫が生きているか死んでいるかは、箱を開けて観測したときに決まる。

 さてそれをふまえて、コフィンとレイシフトの話に戻ります。


●観測できたものは存在する

 FGOにおけるコフィンは密閉された箱で、ようするに猫の入った箱のようなもの。中に入った人物のことは、外からは一切観測できなくなる。

 観測できないってことは、「コフィンの中に、ぐだがいるのか、いないのかはわからない。可能性は50%:50%だ」ということになる。
 つまり、この箱の中にぐだが入ったのだが、観測不能状態に陥ることで、「この中にぐだはいない」という可能性が50%発生したことになる。
(発生したことにして下さい)

「50%の確率で、コフィンの中にぐだはいない」のだとしたら、ぐだはいったいどこにいったのか。

 それは、「コフィン以外のこの世のどこか。時空のどこかに50%の確率で存在する」

 さて次に、カルデアのシステムとオペレータは、技術と魔術とエネルギーを使って、レイシフト先の特定の地域において、「ぐだの存在」をむりやり観測することにする。

 シュレディンガーの猫の理屈では、観測することによって、観測対象の存在や状態が「確定」します。
 FGOの世界には魔術がありますから、もし仮に、「絶対に猫の生存を観測する」という魔術が存在すれば、50%の確率で死んでるかもしれなかった猫の箱から「100%の確率で生きた猫を救出できる」。

 その魔術を応用して、「レイシフト先において絶対にぐだの存在を観測する」ということを実現すれば、「レイシフト先の地域にぐだがいるかも」という可能性は、単なる確率論ではなく真実となります。

 つまり、コフィンの中に入ったぐだを、レイシフト先に出現させることができます。

 魔術によって、「コフィンの中にぐだはいないかもしれない」を作り出す。
 魔術によって、「レイシフト先にぐだがいるにちがいない」を作り出す。

 すると、「コフィンの中にぐだはいません、レイシフト先にぐだがいます」ということが現実として確定します。これでレイシフト先にぐだを送り込んだことになります。

 細部で多少違っていたり、もっと細かい理論的な設定があるかもしれませんが(魂を情報化して云々みたいな設定があったよね)、大づかみにはこのようなことだ、これを考え出した人の発想の大もとはこのあたりだ、というのが私の考えです。

 本来の論理でいえば、そこに本当にぐだがいるからこそ、そこにいるぐだを観測できるのです。
 ぐだがいる、という現実が先に存在してから、ぐだを観測したという事象が発生する。これがふつうの論理です。
 ですが技術や魔術で、それを転倒させるわけです。

 まず、ぐだを観測した、という事象を先に発生させます。
 ぐだが観測できた以上、そこにぐだがいないというのはおかしい。
 だから、そこにぐだは存在しはじめる。

 ちょっとあやふやな話になりますが、この「むりやりに観測を先行させる」のを、カルデアは「存在証明」と呼んでいるんじゃないかな……。
 カルデアのオペレーターやマシュが、レイシフト直後に「存在証明を確立、維持に集中します」みたいなことをよく言います。
 ようは、カルデアのシステムやエネルギーを使って、「レイシフト先の地域にぐだがいます」という観測を維持しているかぎり、「レイシフト先にぐだがいる」という状態が現実となり、ぐだの存在がレイシフト先で確定する。(コフィン内にはいないことになる)

 しかし、もし仮に存在証明を維持できなくなった場合、「コフィンの中にぐだはいないかもしれないし、レイシフト先にもいないかもしれない」という状態になり、ぐだの存在はきわめてあやふやなものとなる。
 ようするにぐだはどっかに消え失せて、どこにも存在しない人になってしまう危険がある。
 だからカルデアは、ぐだの存在証明を最優先で維持しようとする。

 ちなみにこれ(存在と観測の転倒)は宝具ゲイボルグの能力に近しい。ゲイボルグは「まず対象に命中したという結果を発生させてから、槍を投げる」という転倒を可能としました。それと似ている。
 私独自の説にひきつけていえば、第五魔法の効果にも近しい(まず根源に到達したという結果を発生させてから、根源に向かう。原因と結果を入れ替える)。

 あ、今気づいたさらなる余談ですが、だとするとゲイボルグや第五魔法は、シュレディンガーの猫の理屈で成立している(発想の大もとはシュレ猫だ)のかもしれないですね。

 普通の考えでは、対象の状態が確定してから(原因)、対象の状態を観測することができる(結果)。
 でも量子力学の分野では、その逆のことが起こる。
 まず対象を観測する(原因)。すると、対象の状態が確定する(結果)。

 これをつづめると、「原因と結果の逆転」。

 つまり自然界でも、場合によっては、原因と結果は逆転しうるのである。これを恣意的にコントロールすることができるなら、因果というものは操作可能であるはずだ。

 というところから発想をすすめていき、これをエンターテインメントに落とし込むと、ゲイボルグみたいな必殺武器が出力されてくる。


●クラウド的な私たち

 なんで急にこんな話をしだしたか、という説明をいまからします。

「ぐだと無数のプレイヤーは置換可能である」「そして本当にときどき置換されている」という本稿の説が、もし仮に、実際にFGOに採用されているとした場合。

 それを実現している「ぐだ置換システム」も、実は大づかみ、シュレディンガーの猫ちゃんの理屈でフワッと(モフっと)包み込まれているんじゃないかと思ったのです。

 前回の「ぐだ無限残機説」では(しつこいですが前回をご覧くださいよ)、本物のぐだ一名に対して、予備のぐだが順番待ちのようなことをしていて、たまに一対一ですげかえる……というようなモデルで説明をしました。

 これはわかりやすいし、基本の発想としてはこれでいいとは思っています。
(つまり、これが思いつかれた瞬間の、最初の形はこうだっただろうということ)

 が、
 これをちょっと修正したくなりました。

 もっと、なんというか「クラウド的」なモデルで考えたほうが理にかないそうだ。

「ぐだのスペア」である私たち、大量のプレイヤーは、個々の人間というより、群体のようなものとしてとらえられている。……ような気がするのです。


●大量のぐだが入った鉄の箱

 どういうことかというと、こういうモデルです。

 巨大な鉄の箱がひとつあって、この中に、オリジナルぐだと、無数のぐだスペアが入っていると思って下さい。
 箱の中に、大量のぐだがうじゃうじゃうじゃうじゃうごめいている感じ。

 この鉄の箱は、中身の状態を外部から知ることは一切できないものとします。

 箱の中に、一か所だけ、ピンスポット(一人だけ照らし出すスポットライト)が当たっている場所がある。
 このピンスポットの中に、常に必ず一名のぐだが入っている(スポットがあたっている)ものとします。

 この「ピンスポットの中のぐだ」が、現在、「現実世界においてアクティブになっているぐだ」です。

 今、ちょうどスポットが当たっているぐだが、外の世界で「たったひとりしかいないぐだ」として、白紙化地球をなんとかしようと戦っていると思って下さい。
 一名のピンスポぐだが、現実世界で矢面に立って戦っている。

 そして、この巨大な鉄の箱は、わりと頻繁に、シャカシャカしゃかしゃかシェイクされるものとします。すると、「いまピンスポあたってるアクティブなぐだ」はランダムに入れ替わる。
 今までピンスポあたってたぐだは、ピンスポの外に出る。そのかわり、別のぐだがピンスポの中に入る。その「別のぐだ」が、現在アクティブになっているぐだとして、世界を救う大事業の矢面に立つ。

 現在のピンスポぐだになんか不都合が起こると、カルデアシステムは鉄の箱をシャカシャカして、別のぐだに交代させる。
 だけど、特に不都合が起きなくても、わりと定期的にこの箱はシャカシャカする。


 ……つまり、一機死んだら二機めが出現する残機型モデルではなくて、「いま戦っているのはこっちのぐだ、次の状況に対応しているのはあっちのぐだ」というように、かなりめまぐるしくとっかえひっかえが起こっている。

 そしてこれは置換魔術の話なので、一人一人のぐだの認識では、自分の物語を走り抜けているだけなのです。
 いま自分にピンスポ当たってるか当たってないかは、ぐだたち本人にはわからない。

 そして、この箱は、「外から中身を観測不可能」という条件があるので、「いまどのぐだがアクティブなのか」は外からもわからない。ようするに、誰一人としてそれを識別できない。

 以上のことを、一言でまとめるとこうなるのです。

「いま、どのぐだがアクティブになって現実に対応しているのかは、『確率的にしかとらえられない』
 ああ、なんて量子力学(奈須さん風の言い回し)。

 シュレディンガーの猫のたとえ話では、「生きた猫」と「死んだ猫」という、二種類の猫が、「確率的な重なり状態」にありました。

 これがぐだの例では、「何万人か、何十万人という大量のぐだが、確率的な重なり状態にある」ということになるのです。


●オリジナルとコピーの区別はもうない

 このように、「無数のぐだたちの誰がいまアクティブなのかは確率的にしかとらえられない」とする場合、こういうことがいえます。

「どのぐだがオリジナルのぐだなのか、という疑問はもはや無効である」

 その疑問が無効になるように、構造ができている。

 箱の中にはオリジナルぐだとスペアぐだが入っていて、もはやごちゃまぜになっている。箱の中の全員が「自分はオリジナルだ」と思っているし、ぐだ全員が同等の能力と記憶を持っているので、本人にも他人にも、区別はいっさいつかない。

 そして、それら大量のぐだは、確率的にピンスポの中に入るので、

「確率的にいって、ぐだ全員が、世界を救う唯一の戦いの矢面に立っている」

 オリジナルとコピーの差は何なのか、という問いはもはや無効である。全員に差がなく、全員が「世界を救う唯一の戦いの矢面に立っている」のだから、全員が本物であり、「全員で本物」なのである。

 一機死んだら二機めが出てくる残機説に比べて、こちらのモデルが明らかにすぐれている点がひとつある。
 それは、

「あなたの世界のぐだは、あなたの世界限定の単なるぐだコピーなのではなく、世界を救った本物のぐだなのである」

 という結論が発生するところだ。

 ここまで書いてきたようなモデルが、「もし仮に」この物語に採用されているのだとしたら、それは採用した人が、

「あなたのぐだが本物であり、あなたたち全員がひとまとまりで本物なのである」

 という形をプレゼントしてくれようとしたからだと思う。私はこの形を美しいと思うのだけど、でもまぁ、こういうの別に恩寵とは思わない、という考え方もよくわかるのだった。


●なぜ、ぐだはレイシフト適性が100%なのか

 与太話の先に与太話を接ぎ木するのが続いておりますが、さらにまた接ぎ木。

 なぜかはわからないが、ぐだはレイシフト適性を100%持っている、という話がありますね。

 この話を書いていてふと思ったのですが、「ぐだという人は、そもそも存在自体が確率的だから」という前提を置くと、腑に落ちる感じがするのです。

 本稿の話では、「確率的にいって、レイシフト先に存在する可能性がゼロではないぐだを、量子論的観測によって強制的に存在させる」のがレイシフトでした。
(そうではないといえそうな根拠もいっぱいあるけどまあ横に置いといて下さい)

 そしてまた本稿の話では、「ぐだという人は、一人の人間というより、無数のぐだが確率的に重なり状態になった存在である」ということでした。

 たとえるなら、ぐだは、ペットボトルに入った水のような存在ではなく、大気の中の水蒸気のような存在で、本質的には同じ水ではあるんだけど、後者は確率的にしかとらえられないようなもの。

 この世にはじつは大量のぐだが存在する、という話は、「この世にあまねく存在する」という言い換えが可能なんじゃないか。

 だとすると、カルデアのシステムが、レイシフト先の世界においてぐだを強制的に観測することがものすごく容易そうにみえる。ぐだが遍在的な存在なら、「そこ」に存在する確率は高くなるので、強制観測がしやすい。

 コフィンの中に、通常の人間が入り込んでフタを閉めた場合、「この人物がコフィンの中にいるかいないか」は「50%:50%」なのです。

 でも、ぐだは存在自体が確率的重なり状態の人間ですから、事情がかわってくる。

 わかりやすく、「ぐだは、1万人のぐだが重なった存在だ」としましょう。

「ぐだはコフィンの中にいない確率」は50%です。でも、「コフィンの中にいる確率」は、50%÷10000×10000なんです。

 つまり、50%÷10000=0.005%の確率で「ぐだ00001番」がいる。
 0.005%の確率で「ぐだ00002番」がいる。
 0.005%の確率で「ぐだ00003番」がいる。
 0.005%の確率で「ぐだ00004番」がいる。

 そういうのが一万回ずらっと続いて、最後に0.005%の確率で「ぐだ10000番」がいる。

 そういう計算になります。

 そして、「コフィンの中にぐだがいない確率が50%」ということは、「コフィン以外のこの世の全時空のどこかにぐだがいる確率」が50%ということです。

 これも同様に、
 コフィン以外の全時空のどこかに0.005%の確率で「ぐだ00001番」がいる。
(中略)
 コフィン以外の全時空のどこかに0.005%の確率で「ぐだ10000番」がいる。

 こんな感じで、ぐだは全世界の全時空に「遍在」しうる。

 全世界の全時空に遍在する存在は、単に「いる」か「いない」かの二択ではない捉え方をすることができる。

 そういう特性を持った人間は、「そこにいる」可能性をつまんでひっぱりあげることが、おそらく容易だろうと想像できます。

 通常の人間をコフィンに放り込んで観測不能にしたところで、その人間が「特定の特異点の特定の場所」で存在確認される可能性は限りなくゼロに近いでしょう。この場合はレイシフト適性はほぼゼロだということができる。

 ところがぐだは存在自体が確率的重なり状態で、この世にうっすらと無限に散らばることができそうなので、「特定の特異点の特定の場所」にたまたま存在確認できる可能性が爆発的にあがる。

 レイシフトの成功率が100%というのはそういうことなんじゃないか。


 例えばこういう言い方。
 個の唯一性(非・確率性)が高いほどレイシフト適性が低く、個の遍在性(確率性)が高いほどレイシフト適性が高い。
 くだいていうと存在があやふやな奴ほどレイシフトしやすい

 みたいなことを考えると、わりと心地よくつながるので、おもしろいかなっていう話でした。まあ、こんなん出てきましたので、ここにそっと置いておきますね……。


●余談・なぜフレンドのサーヴァントを借りられるの?

 このゲームでは、フレンドからサーヴァントをレンタルすることができます。自分がまだ召喚していないサーヴァントを、まるで自分ちのカルデアに召喚したサーヴァントのようにあやつることができます。

 自分が召喚していないサーヴァントをなぜ使えるのか。それは、自分のぐだとフレンドのぐだは重なり状態にあるからだ。
 箱の中で一匹の猫が「生きた猫」と「死んだ猫」という、二種類の状態に分岐しつつも、全体としては「一匹の猫」でありつづけるように、わたしたちぐだは、「何万人か何十万人か」という、ほとんど無数の状態に分岐していながら一人のぐだであるからです。
 わたしたちぐだは、ひとりのぐだでもあるのだから、別のぐだが召喚したサーヴァントを、自分のもののように使役できるのはそんなにおかしくないのです。


●余談2・廃棄孔

 ぐだの心の中(だったかな?)には廃棄孔という謎めいた場所があって、よくないものがうごめいていたり、世界のなんか怪しい場所とつながっていそうだったりする、というような設定があります。巌窟王エドモン・ダンテスが掃除してくださってる場所ね。

 ぐだにかぎってなんでそんな廃棄孔なるものがあるのか、の原因が「無数のぐだが確率的に重なり状態になった一人のぐだ」という構造にある……なんていうことがあっても面白いなあと考えたので、ここにメモっておきます。

 ようするに、一人の人間を人為的にここまで多重化した例なんて他にない。本稿の説では、ぐだという人間の唯一の特異な特徴とはこの重なり状態にあるのである。廃棄孔というのも、ぐだ個人に紐づけられた特異なポイントなので、その二つは結びついていると考えるのは自然な流れです。

 存在を多重化したことによるゆがみが出ているなど考えればよい。
 例えば、無数のぐだの中には、旅の途中で死んだり、動けなくなってリタイアしたぐだもいるわけですね。

 そういうぐだを、ぐだをストックしている鉄の箱の中にいつまでも入れておくとさしさわりがあるので、別のところに取り出してため込んでおく。
 その死にぐだ捨て場が煮詰まってああいう場所ができた、などでもいい。

 また、無数のぐだが、一人のぐだとして多重化状態になるためには、やはり、ぐだスペア各々の固有性みたいなものを振り捨てないといけないのかもしれない。
 そういう「振り捨てたもの」を置いておく場所がブラックホール化したなんていうかたちでもいい。


Fate/Grand Orderランキング「いいね」はこちらをクリック

■この記事を気に入った方はX(旧Twitter)にてリポスト(リンク)をお願いします。


※ご注意●本稿は現実に存在する筆者(Townmemory)の思想・信条・思考・研究結果を表現した著作物です。内容の転載・転用・改変等を禁じます。紹介ないし引用を行う際は必ず出典としてブログ名・記事名・筆者名・URLを明示しなければなりません。ネットで流布している噂ないし都市伝説の類としての紹介を固くお断りします。これに反する利用に対して法的手段をとる場合があります。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« FGO:置換魔術で置換されうる... | トップ | ■TYPE-MOON関連記事・もくじ■ »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2023-12-30 21:31:33
「この世にあまねく存在する」という表現が単独顕現の“既にどの時空にも存在する”にも言い換えできること。
ヘブンズホールの説明や魔神柱の所属の分類として廃棄孔の表現が出てくることからやっぱりビーストとの関連が表現されていると思う。
殺生院キアラにセイヴァー適正があると言われていたり、ヘブンズホールが第三魔法の亜種であること、第一魔法使いが旧Fateのセイヴァーらしいことを考えると、ビーストは人類愛が捻じ曲がってセイヴァーになり損なった者達で、ぐだはセイヴァーの候補なのではないか。
返信する
Unknown (Unknown)
2023-12-31 19:50:27
資料館カルデアの来館者にぐだをシミュレーションさせることで来館者の集合無意識でぐだの存在を魔術基盤のように「世界に刻み付ける」。
朱い月の全人類を素材に新しい素体を作り出すように、来館者のぐだシミュの数多のデータを素に人理保証を完遂できるぐだそのものを生み出す。
朱い月のプランと違って世界に刻みつけられて許容されているから人間の血をベースにしなくても受肉が可能で、ぐだシミュで人理を救うという目的を植え付けて方向性を確定させているから全人類ではなく来館者という限られたデータの参照元でもぐだの構築が成立するみたいなことも考えられるんじゃないかと思いました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

TYPE-MOON」カテゴリの最新記事