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世界構造(補遺)/あなたの魔法を賛美する
筆者-初出●Townmemory -(2011/10/26(Wed) 12:47:00)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=66179&no=0 (ミラー)
☆
世界構造(上)/ただの創作じゃない、全てに実体がある
世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体
……の、おまけ編です。
上下編の中に入りきらなかった、ちょっと脇道にそれるようなトピックを、さっと語ります。
上下編の内容を前提にした話をしますので、このエントリだけ読んでもまったくわかんない可能性があります。というか読まないとわからないように書きます。
ですので、まずは「世界構造(上)」「世界構造(下)」を読んで下さい。
さあ、どうぞ。
●もっとシンプルな別の説明
お読みになりましたか?
ありがとうございます。
大変だったでしょう……。お疲れ様です。
というわけで……。
大変、ややこしいことを、大量の文章で議論したわけです。
ずいぶん入りくんだ、むづかしい話をしてきたのですが、
これをばっさりとショートカットして、簡単に、端的に、別の説明もあるよね。ということを思いついたので、ここでそれを語ります。同じことを、もっとシンプルに説明するわけです。
☆
「物語を事実としてまじめにとりあってきたのに、結局八城十八個人の創作にすぎなかったのか」
という、最初の問いに戻ります。
一歩引いて考えると、ふしぎ。
なぜなら、「うみねこのなく頃に」は、竜騎士07さん個人の創作であって、それはみんな知ってるはずです。
これは事実なんかじゃないのです。
なのに、その物語をつかまえて、「エピソードを事実だと思って真剣に考えてきたのに、単に個人の創作だった、がっかり」というのは、いったいどういうことだろう……。だってアナタこれホラ、最初から創作なんですよ。(あ、ここで怒って読むのをやめないで下さい今からフォローが始まります)
といっても、わたしは別に本気で「キミたちちょいとおかしくないかい?」と言ってるわけじゃありませんのです。
だってそりゃ、たとえフィクションだと最初からわかってるとしても、本当のことのように思って読むのでなきゃ、面白くありません。本当のことのように感じて読むから、ピンチになればハラハラするし、楽しければげらげら笑うし。
それが臨場感というものだし、それが感情移入というものではないか。
うみねこがフィクションだということは知ってる。でも、いったん事実として捉えて読むから、だから没入できるし、それが読書の快楽というものではないか。読んでるとき、それは事実で、本当のことなんだよ。それをオマエは変だと言う気なのか? どうなんだ? えぇ?
ごもっともです。おっしゃるとおりです。スミマセン! わたしだって本とか読むときその通りのことをします。
だから、創作だけど、そこに入り込んだとき、それは事実なんだ。
だから「うみねこ」を読むとき、その中に入り込み、没入するとき、この物語は創作であるにも関わらず事実として作用するんだ。
創作だけど、同時に事実でもあるんだな。
あれ。
……そう。
「うみねこ」という、竜騎士07さん個人の創作に対して、わたしたちはそれを事実として、真実として受け取ることができる。
ならば、それを、ちょいと一歩踏み込んで。
「八城十八偽書」という、八城十八個人の創作に対して、わたしたちはそれを事実として/真実として受け取れば良いです。
竜騎士07さんの書いた「うみねこ」を、事実のように捉えて読むことができるなら、同様に「八城十八偽書」を事実のように捉えて読めば良い。
竜騎士07さんの書いた「うみねこ」が創作であることは最初からわかっているのだから、「八城十八偽書」が創作であるとわかったからといって、「じゃあこれは事実じゃない価値のないもの」とする必要はないんじゃないだろうか。(だって内容同じなんですもの)
ですから、創作であることと、真実であることは、全然コンフリクトしない。
創作物であるから、これは真実性がないだなんて、文章読みの人は全然考える必要ないです。
一方であったなら、他方ではない、なんてこと、全然ないっす。なぜなら創作物に真実性を見いだすことこそが、読書の快楽であるからです。
竜騎士07さんの創作は、創作であると同時に真実でもあるんだし、
八城十八さんの創作は、創作であると同時に真実でもある。
というふうに捉えることができれば、まったく同じ結論に、かなり短縮で到達することができます。「八城十八の偽書は偽書ではなく真実である」というふうに。
なんか、そんなふうに考えると、真実って何だろう、不思議。
まったくの創作物の中に、含まれることができる「真実」って、不思議だ。
「真実」を、その身の内に含めることのできる「創作」って何だろう、不思議。
そのような不思議に思いを馳せた人は――
ここでいう「創作」「真実」を、作中の用語である、「幻想」「現実」に、まるっと置き換えることができるのに気づくわけです。
うみねこって、まさにそういうお話、そのものじゃなかったか。
創作だとわかっているけれど、入り込んで、真実として読もう。
幻想だとわかっているけれど、現実だと思って振る舞おう。
真里亜はさくたろうがぬいぐるみであることを知っています。知っているけれども、それと同時に、彼女はさくたろうを、お話のできる不思議なライオンであるとしています。
つくりものと、ほんもの。
創作と真実。
その作用を何というのか。
魔法。
これはあなたの魔法を賛美する物語なんですよ。わたしが思うに、たぶん。
☆
以上が本論。
追伸。
八城十八は、別の世界で起こった本当のことを、小説として書いている。
というお話をしたんだけども。
もうひとつ発想を広げて、「それは八城十八に限らないかもしれない」と考えてみませんか。
わたしたちの世界も含めた、あらゆる国のすべての小説家、漫画家、脚本家、フィクションメーカーは、実は別の世界で本当にあったことを見てきて書き写しているのである。
そんなふうに発想を広げた場合。
「幻想や虚構というものは、実態のない取るに足らないものである」という、世の中の先入観はまったく無効になります。
こんな言い方ができる。
「幻想とは、他の世界の真実である」
幻想とは真実である……。
まさにそういうことが、Ep8で強く打ち出されたのではなかったか。幻想は幻想であるけれども、それでも真実でもありうるのだ。
「うみねこ」というお話は、真里亜の、ベアトリーチュの、魔術師となったバトラの姿を通じて、まさにそれひとつを訴えかけていなかったか。幻想は真実である、と。
そしてわたしたちも。
いま、ひまつぶしに手に取った文庫本ひとつ。
それを、「隣の世界の事実を書いたものかもしれない」と思うことで、わたしたちは、何かさわやかな広がりを感じ取れるかもしれない。
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■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
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世界構造(補遺)/あなたの魔法を賛美する
筆者-初出●Townmemory -(2011/10/26(Wed) 12:47:00)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=66179&no=0 (ミラー)
☆
世界構造(上)/ただの創作じゃない、全てに実体がある
世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体
……の、おまけ編です。
上下編の中に入りきらなかった、ちょっと脇道にそれるようなトピックを、さっと語ります。
上下編の内容を前提にした話をしますので、このエントリだけ読んでもまったくわかんない可能性があります。というか読まないとわからないように書きます。
ですので、まずは「世界構造(上)」「世界構造(下)」を読んで下さい。
さあ、どうぞ。
●もっとシンプルな別の説明
お読みになりましたか?
ありがとうございます。
大変だったでしょう……。お疲れ様です。
というわけで……。
大変、ややこしいことを、大量の文章で議論したわけです。
ずいぶん入りくんだ、むづかしい話をしてきたのですが、
これをばっさりとショートカットして、簡単に、端的に、別の説明もあるよね。ということを思いついたので、ここでそれを語ります。同じことを、もっとシンプルに説明するわけです。
☆
「物語を事実としてまじめにとりあってきたのに、結局八城十八個人の創作にすぎなかったのか」
という、最初の問いに戻ります。
一歩引いて考えると、ふしぎ。
なぜなら、「うみねこのなく頃に」は、竜騎士07さん個人の創作であって、それはみんな知ってるはずです。
これは事実なんかじゃないのです。
なのに、その物語をつかまえて、「エピソードを事実だと思って真剣に考えてきたのに、単に個人の創作だった、がっかり」というのは、いったいどういうことだろう……。だってアナタこれホラ、最初から創作なんですよ。(あ、ここで怒って読むのをやめないで下さい今からフォローが始まります)
といっても、わたしは別に本気で「キミたちちょいとおかしくないかい?」と言ってるわけじゃありませんのです。
だってそりゃ、たとえフィクションだと最初からわかってるとしても、本当のことのように思って読むのでなきゃ、面白くありません。本当のことのように感じて読むから、ピンチになればハラハラするし、楽しければげらげら笑うし。
それが臨場感というものだし、それが感情移入というものではないか。
うみねこがフィクションだということは知ってる。でも、いったん事実として捉えて読むから、だから没入できるし、それが読書の快楽というものではないか。読んでるとき、それは事実で、本当のことなんだよ。それをオマエは変だと言う気なのか? どうなんだ? えぇ?
ごもっともです。おっしゃるとおりです。スミマセン! わたしだって本とか読むときその通りのことをします。
だから、創作だけど、そこに入り込んだとき、それは事実なんだ。
だから「うみねこ」を読むとき、その中に入り込み、没入するとき、この物語は創作であるにも関わらず事実として作用するんだ。
創作だけど、同時に事実でもあるんだな。
あれ。
……そう。
「うみねこ」という、竜騎士07さん個人の創作に対して、わたしたちはそれを事実として、真実として受け取ることができる。
ならば、それを、ちょいと一歩踏み込んで。
「八城十八偽書」という、八城十八個人の創作に対して、わたしたちはそれを事実として/真実として受け取れば良いです。
竜騎士07さんの書いた「うみねこ」を、事実のように捉えて読むことができるなら、同様に「八城十八偽書」を事実のように捉えて読めば良い。
竜騎士07さんの書いた「うみねこ」が創作であることは最初からわかっているのだから、「八城十八偽書」が創作であるとわかったからといって、「じゃあこれは事実じゃない価値のないもの」とする必要はないんじゃないだろうか。(だって内容同じなんですもの)
ですから、創作であることと、真実であることは、全然コンフリクトしない。
創作物であるから、これは真実性がないだなんて、文章読みの人は全然考える必要ないです。
一方であったなら、他方ではない、なんてこと、全然ないっす。なぜなら創作物に真実性を見いだすことこそが、読書の快楽であるからです。
竜騎士07さんの創作は、創作であると同時に真実でもあるんだし、
八城十八さんの創作は、創作であると同時に真実でもある。
というふうに捉えることができれば、まったく同じ結論に、かなり短縮で到達することができます。「八城十八の偽書は偽書ではなく真実である」というふうに。
なんか、そんなふうに考えると、真実って何だろう、不思議。
まったくの創作物の中に、含まれることができる「真実」って、不思議だ。
「真実」を、その身の内に含めることのできる「創作」って何だろう、不思議。
そのような不思議に思いを馳せた人は――
ここでいう「創作」「真実」を、作中の用語である、「幻想」「現実」に、まるっと置き換えることができるのに気づくわけです。
うみねこって、まさにそういうお話、そのものじゃなかったか。
創作だとわかっているけれど、入り込んで、真実として読もう。
幻想だとわかっているけれど、現実だと思って振る舞おう。
真里亜はさくたろうがぬいぐるみであることを知っています。知っているけれども、それと同時に、彼女はさくたろうを、お話のできる不思議なライオンであるとしています。
つくりものと、ほんもの。
創作と真実。
その作用を何というのか。
魔法。
これはあなたの魔法を賛美する物語なんですよ。わたしが思うに、たぶん。
☆
以上が本論。
追伸。
八城十八は、別の世界で起こった本当のことを、小説として書いている。
というお話をしたんだけども。
もうひとつ発想を広げて、「それは八城十八に限らないかもしれない」と考えてみませんか。
わたしたちの世界も含めた、あらゆる国のすべての小説家、漫画家、脚本家、フィクションメーカーは、実は別の世界で本当にあったことを見てきて書き写しているのである。
そんなふうに発想を広げた場合。
「幻想や虚構というものは、実態のない取るに足らないものである」という、世の中の先入観はまったく無効になります。
こんな言い方ができる。
「幻想とは、他の世界の真実である」
幻想とは真実である……。
まさにそういうことが、Ep8で強く打ち出されたのではなかったか。幻想は幻想であるけれども、それでも真実でもありうるのだ。
「うみねこ」というお話は、真里亜の、ベアトリーチュの、魔術師となったバトラの姿を通じて、まさにそれひとつを訴えかけていなかったか。幻想は真実である、と。
そしてわたしたちも。
いま、ひまつぶしに手に取った文庫本ひとつ。
それを、「隣の世界の事実を書いたものかもしれない」と思うことで、わたしたちは、何かさわやかな広がりを感じ取れるかもしれない。
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■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
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