「クララとお日さま」を未読の方はご注意ください。
4.おわりに-エンタテインメントと文学
カズオ・イシグロの読者にとって、信頼できない語り手に裏切られることは、
その作品の魅力の重要な部分を占めている。
「遠い山なみの光」の悦子や、「浮世の画家」の小野といった
一人称の語り手たちの認知の歪みは作品の途中で明らかになってゆくし、
「私を離さないで」のキャシーたちがクローンであることも、
作品の途中で明かされてゆく。
「クララとお日さま」もまた同じ仕掛けを持つ作品だ(※)。
このことは、子供を慰めるために作られた
おもちゃが主人公である「トイ・ストーリー」や、
人の心を読み取り手紙にすることを「奉仕(サービス)」として提供し、
それを通じて成長する自動式手記人形ヴァイオレットが主人公である
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のような、
よく似た眼差しの主人公を持つ良質のエンタテインメント作品と、
イシグロの「文学」作品との間に一線を画している。
イシグロは、また、別のインタビューの中で、
「私が書きたいのは、読者を泣かせたり、笑わせたり、
元気にしたりするエンタテインメントではなく、
読者の心に取りついて離れないような作品だ」
「小説によって社会を変えようとするならば、そこに居続けるしかない」
などと述べている。最初に引用した日経新聞のインタビューでも、
「小説を通じて読者が思考や感情(emotion)の実験をする場を提供したい。」
と述べている。
もちろん、どちらの価値が高いということではなく、
人間の心にはどちらも必要だ。
しかし、後者のほうが評価もされにくく、稀少だろう
(だからこそ、「ノーベル文学賞」のような装置も必要なのだろう)。
そして、「クララとお日さま」が、イシグロの他の作品と同様に、
「読者の心に取りついて居座る」ことに上手に成功していることは間違いがない。
たとえば、この文章もまた、そのことを示している。
(完)
追記:
※)ただし、今回の場合、
語り手であるクララが信頼できないのではなく、
周囲の人間がクララをどう見ているのか、
という部分がラストで大きく変わる。
これは、同じ場面のクララ自身の言葉
「特別な何か(=魂のようなもの)はあります。
ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の
中にありました」に呼応して、このシーンの効果を増幅している。
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