日々の寝言~Daily Nonsense~

「ホモ・デウス」から「クララとお日さま」へ(4)

激しくネタバレがあるので、
「クララとお日さま」を未読の方はご注意ください。


3.信仰と奇跡

作品の末尾が、ずっとクララに感情移入しようとしてきた読者に対する裏切り、
どんでん返しであるとするならば、物語のクライマックスは、
お日さまが引き起こす奇跡によって、ジョジーの病気が治るシーンだろう。

AF のエネルギー源である「お日さま」に、クララは全幅の信頼を寄せて、
ジョジーの救済を願う。太陽は、化石燃料も含む地上の多くのエネルギーの源であり、
原始時代から人間の信仰の対象であった。

それはまた、見返りに何も求めない無償の愛の象徴ともいえる。

そうした太陽に対する人間の原始的な信仰心にあたるようなものを
クララが抱くことは、それほど不思議ではない。

そのお日さまが沈む場所にある納屋に、
クララはお日さまに願いを伝えるために出かけてゆく。
また、お日さまを覆って見えなくさせる
邪悪な機械を破壊しようとする。

その必死な姿は、たとえば、タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の中で、
温泉のお湯が抜かれたプールの中を、ろうそくの炎を消さずに渡りきることができれば、
この世界は救われる、と考えて行動した、狂人ドメニコの姿を連想させる。

そして、ある日、ついに、お日さまは、クララの願いを聞き入れて、奇跡を起こすのだ。

この一連のシークエンスは感動的だ。
こうして「お日さま」→「クララ」→ 「ジョジー(とリック)」という
無償の愛のリレーが完成する。

たとえ、少しご都合主義的で、安易で嘘っぽいなぁ、
と心のどこかで感じるとしても。

最初に物語を読み進めるとき、
読者は自然に語り手であるクララに感情移入しようとする。

それを邪魔するような仕掛けがあったとしても、
人間というのは、毛虫にも、カエルにも、車や城にさえも
感情移入することができるのだ。

しかし、作品を最後まで読み、AF が「物」「道具」であった、
ということを改めて突き付けられた後では、
これまで読んだすべてのできごとが、
クララの勘違いと思いこみに満ちているのではないか、
という疑いが、よりはっきりと感じられてくるだろう。

クララにとっての事実から導かれたクララにとっての献身と奇跡は、
作品を読み終えた読者から見れば偶然の妄信に過ぎないようにも見えてくる。

こうして、読者は、クララに感情移入しながらの読みを半ば否定され、
宙ぶらりんなまま、登場人物の誰に対しても感情移入しない形での
作品の解釈し直しを強いられる。

そして、逆に、客観的事実と思いこんだものから、
信仰や奇跡といった妄信や勘違いに至るものが我々の知性だった、
ということにも改めて気づかされる。

ハラリさんが圧倒的な博識にもとづく筆さばきで語ったように、
フィクションを信じる力こそが、人間の本質であり、
宗教も、信仰も、奇跡も、それによって生まれてきたのだが、
科学技術の発展は、それらが「妄信」であることを示した。

神は死に、魂は否定され、奇跡は種のある手品になった。

しかし、その科学技術が生み出したクララが、原始的な信仰を持ち、
奇跡を起こし、そして晴れやかな気持ちで使命を終える姿は、
私たちが何かを失っているかもしれないということを暗示し、
私たちに、改めてそれについて考えることを促すだろう。

これもまた、イシグロさんが、「クララとお日さま」という
フィクションの力によって、読者に伝えようと
していることだと思う。

(つづく)
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