はあんなに売れたのだろうか?
もちろん、村上春樹の文章の力はある。
結局、長く愛される歌手は、
どこか人を惹きつける声を持っているように、
村上春樹の文章には、
音楽のように人を惹きつけるものがあるのだ。
しかし、それだけでは十分ではない。
井上陽水や中島みゆきが歌っても、
大ヒットする曲とそうでない曲があるのと同じで、
「ノルウェイの森」には何かがあったはずだ。
女性から見れば、不誠実とも見える男、
男性から見れば、頼りなくなよなよとしたように見える男、
を描いたこの小説が、
なぜここまで多くの人の支持を得たのか?
おそらくそれは、
「愛の不可能性」にあるのだろう、
というのが私の仮説。
著者自らが100%の恋愛小説、
と書いているにもかかわらず、
冒頭でいきなり、僕と直子の間には「愛はなかった」
ということが語られる。
つまり、村上春樹にとって「恋愛小説」とは、
存在しない「愛」を追い求める者たちを描いた小説である、
ということだ。
この点において、愛の存在を前提として、
それを疑うことなく、
高らかに謳いあげるタイプの小説とは
はっきりと一線を画している。
それはつまり、村上春樹の「物語」への態度でもあるだろう。
それは、構想され、作られた物語を嫌い、
自然に湧き出るままに書く、
という創作態度に表れている。
愛の不可能性、我々の孤独、を、
美しい文章で丁寧に描き、
それを100%の恋愛小説と銘打って、
美しい装丁に包んだ。
だからこそ、「ノルウェイの森」は
あそこまで売れたのだと思う。
それができたのは、意識の力だけではなく、
無意識的な力を上手に使ったからだろう。
近代的な知的人間における
愛の不可能性を描いた作家としては、
まず漱石が挙げられる。
漱石のすべての作品は、
愛の不可能性に関連しているが、
最も明示的なのは「心」や「行人」だろう。
そして、福永武彦が、漱石の仕事を明示的に受け継いだ。
「草の花」、「海市」そして「死の島」は、愛の不可能性に関する
珠玉の作品であり、今でももっと読まれるべきものだと思う。
そして、村上春樹もまた、この系譜の上に連なる作家だ。
多くの人々は、愛の不在に無意識には気づいている。
「愛」に飢えているからこそ、
愛を高らかに謳いあげる小説や映画が必要とされる。
しかし、本当に必要とされているのは、
愛の不在をそのまま認めて、
負い目を癒してくれるような作品なのだと思う。
そして、村上春樹は、この態度を、愛のみならず、
多くのものに広げている。
「文学」「革命」「愛」「物語」「信仰」・・・
多くのものが、実際には、ごく稀にしか存在しない。
村上春樹の小説は、その不在を静かに認めて、
それでよいのだ、それは自然なことなのだ、
そんなものは無くても人はちゃんと生きてゆけるのだ、
さらに言えば、そんなものがあるから、
無いものをあると思うから世界が歪んでしまうのだ、と主張する。
そうではなく、もっと単純な、しかし奥深い気持ちよさ、
目の前にいる人の笑顔、小さいけれど確かな一歩、
を大切にすればよいのだ、と、読むものを癒す。
だからこそ、「ノルウェイの森」を筆頭とする
村上春樹の作品は多くの人に読まれ続けている
のではないだろうか?
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