「『大きな物語』は死んだのか」という
文芸時評を書いていた。
結論は「死んではいない」だ。
笙野頼子さんの
「文学の言葉は、国家や市場経済に対抗します。
それは人間の肉体から発している言葉で、
同時に歴史を背負った言葉でもある」
という言葉が引用されていた。
いい言葉だ。
そうなのだ。文学とはいつでも、
異議申し立てであり、反体制なのだ。
だから、文学が大きな物語になるか否かは、
体制側がどれだけ強いか、に依存するのだろう。
大きな物語は終わった、というのは、
日本の体制が複雑化し、一見強くは見えなかった時代の
一時的な現象だったのかもしれない。
しかし、資本の力が暴力となり、
市場の限界が露呈して、格差が拡大して、
明確に抑圧された者が生み出されるようになった現在、
事態は変化しているのだろう。
しかし、強い物語に、大きな物語で対抗する、
攻めに出ることだけが選択肢ではない。
将棋に限らず、苦しい状況に陥ったときに、
そこから、攻めに出るか、守り、受けに回るか、
は難しい決断になることが多い。
攻めに出るのは、成功すれば事態を
変えられるが、失敗すれば結果は悲惨だ。
成功したときと失敗したときの差が大きい。
一方、受けに回るのは、往々にして
何もしないことにもつながりやすく、
そのままジリ貧になる可能性がある。
体制側があまりにも強かったり、
複雑すぎる場合には、対抗しようにも
攻め方がわからない、ということがある。
そういう場合には、受けに回る文学、
ある種、現実と距離を置き、癒しに回るような
文学が流行するのではないか?
大きな物語の終焉、とは、
そういうことだったのかもしれない。
さらに言えば、攻めと受け、
は多くの場合には単純な二択ではない。
特に、戦う相手が一筋縄では行かない場合、
戦争の前線にナイチンゲールが必要なように、
ボクシングに、パンチとガードが必要なように、
あるいは、羽生さんの曲線的な戦い方のように、
両方をバランスよく組み合わせて、
粘り強く戦うことが重要だ。
攻めと守りをバランスよく備えた文学。
守りの中で攻めを忘れず、
相手の急所にいやみをつけ、一撃を飛ばし、
攻めの中で守りを忘れず、自爆や特攻をせずに、
自らのスタミナやライフポイントをしっかり維持する。
そんなものがあるのかどうか、よくわからないが、
羽生さんの将棋を見ていると、
あるような気もしてくる。
とりあえず、笙野頼子さんは読んでみたくなった。
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