日々の寝言~Daily Nonsense~

井筒俊彦「ロシア的人間」

プーチンのウクライナ侵攻のニュースを見ていて、
昔々読んだ、井筒俊彦さんの「ロシア的人間」を思い出した。

19世紀のロシア文学の主要な作品と作者を論じることを通じて、
「ロシア的なるもの」の本質へと降りて行くそのスタイルは、
作者曰く「若書き」とはいえ、その分ある種の疾走感が加わって、
実に迫力があった。

ロシア的心情の起源を、韃靼人による侵略から説き起こし、
さらに、ロシア中心主義や革命主義の必然を説く。

> ロシアは「最高の心理」を捧持する地上唯一の民族であって
> やがてロシアが中心となって世界は救済されるだろうという
> この特徴ある思想――というより幻想ーーをロシア人が抱くように
> なったのは韃靼人時代に続くモスコウ人時代のことであった。
> この民族主義・国家主義的な世界救済のメシア思想を理解することは、
> ロシア文学のみならず一般にロシア的現象というものを
> 正確に解釈する上にきわめて大切である。

そして、プーシキンを始まりとする、一連の
ロシア文学の作者の作品への讃がまた素晴らしい。
作品に深くのめり込み、しかし、我を忘れなかった人だけが
書けるような評論である。

たとえば、トルストイに関する章の
「人間の自然性と意識性との間の根元的な矛盾」!

> 人間における自然性と意識性の矛盾は、
> 少なくとも人間にとっては、一の根源的矛盾であって、
> トルストイならずとも所詮は誰にも解決できない問題なのであるが、
> この問題を最後の限界にまで考え抜くことは人間にとって重大な意義をもっている。

> 人間の救済ということも結局はその一点に行き着くのではないか。
> (中略)根源的矛盾に凄まじくも魂を引き裂かれ、
> 二度と繰り返せぬ一生をあえて悲劇たらしめることを、
> 巨人ならぬ誰が一体肯じるだろうか。
> この点においてトルストイは他の誰にも真似のできないことをした。

たとえば、タルコフスキーの作品の根っこも
これと同じところにあるように思われる。

ゴンチャロフの「オブローモフ的」人間像は、
現在の日本にもかなり近いものがある。
この比較(明治維新の頃も含めて?)
をするのはおもしろそうだ。

プーシキンの章では、宮沢賢治を連想した。
宮沢賢治の思想はずいぶんとロシア的だ。

ロシアと同じように、東北もまた、近代になる前は、
厳しい自然と、共同体単位で対峙しなくては
生きてゆけない環境だったから、だろうか。

そして、ドストイェフスキーの文学については、
てんかんの発作の恍惚から説き起こされる。

> その発作が今まさに始まろうとする数秒間、
> 彼はこの世のものならぬ光景をのぞき見た。
> 永遠性の直観、「永遠調和」の体験。

> 人間全体が、このような至福の境地に、
> 精神異常や麻薬といったような異常な
> 途を通ることなしに、昇っていけるのかどうか?
> これがドストイェフスキーの問題である。

ドストイェフスキーの主人公達は
いずれもペテルブルグ=都市の住人である。

> 大都市-それは近代的人間の悲劇的生存形態だ。
> 人間は他の一切の存在とのつながりを断ち切られて、
> 人間はただの人間だけで存在している。人間は孤立している。
> 人間だけが生きており、「周囲には死の影」がある。
> 大都市は、近代的人間の内的孤独の表現形態である。

> 自然を喪失し、自然の響宴に参与できない「除け者」と、
> 愛を喪失し、もはや素直に他人を愛することのできない無能力者。
> この二人は同じ一つの事態の二つの様相にすぎない。

> この問題はすでにプーシキンによって近代的人間の死活を決する
> 大問題として取り上げられていた。
> 自然喪失と愛の不能、
> それこそ近代的人間の最大の悲劇であることを
> 彼は鋭く見抜いていた。

> 彼=ドストイェフスキーにとっては、
> 自然喪失と愛の不能とは、共に派生的現象であり、
> それらの底に、さらに根源的な神(神話的な世界認識)
> の喪失という問題がひそんでいた。

> 神話的な世界認識の喪失は、
> 近代的自我の誕生と裏表である。

> 近代的実存の孤独は、人間が神を喪失した瞬間から始まる。
> 人間は神を見失うと共に自然を失い、そして愛の不能に陥った。
> だから、ドストイェフスキーにおいては、
> 失われた神の探究ということが最大の課題になる。

> 自然性の回復とは、要するに自然との連帯性の回復ということである。
> しかし愛もまた、人と人とを結びつけ、人と世界とを一体に結びつける
> 力ではないだろうか。だから、愛といい自然といっても、
> 結局は連帯性への復帰だけが問題なのである。

> だが、一度喪失した連帯性を、人間はどうしたら回復できるのか。

> ドストイェフスキーにおいては、人はそれを原罪意識の深化に伴って
> 回復するのである。トルストイ的自然人の場合のように罪を忘れ、
> 善悪の彼岸に還ることによってではなく、逆に罪に深まり、
> 罪に徹することによって人間は救われる。

> ゾーシマ長老をめぐってドストイェフスキーの人間学は白熱し、
> その絶頂に達する。ゾーシマの実践的愛の教えは、
> ドストイェフスキーにおける全ての総決算であり、一切の
> 最後の結論である。したがって、ここに至ってはじめて
> 罪の秩序はあますところなく愛の秩序に転成し、
> 孤独は完全に克服され、自然は祝福され、
> そして全存在が絶対無条件的に肯定される。

> だがそれにしても、どうしてそのような奇跡が
> 可能になってくるのであろうか?

> この奇跡は「原罪」の自覚から始まる。

> (原罪の意識とは)自分の犯した罪ではなくて、自分の
> 犯さない(そして、それは当然、もしかしたら犯したであろう)罪に
> 対して、あらゆる人の罪性に対して主体的責任を取ることである。

> そうしてみれば、原罪の事実を主体的事実として自覚するという
> ことは、結局、人が自分ひとりの自意識的外殻を踏み破り、
> 自己を突き抜けて宏大な全体的連関の中に躍り出ることにならないだろうか。

「お母さま、本当にあらゆる人が、あらゆる人に対して、
またあらゆる事に対して、あらゆる人の前に罪人なのです。
どう説明したらいいか分からないんですが、まったくその通りだってことは、
苦しいくらいに感じています。それなのに、私達は今まで、
この世に暮らして腹を立てたりして、この事に気がつかなかったなんて、
一体どうしたことでしょう。」

> 彼はもはや孤独ではない。なぜならば「罪」によってあらゆる人、
> あらゆる物とかたく結ばれているからである。
> 罪の共同体がここではそのまま愛の共同体なのだ。

> 罪の秩序から愛の秩序へ。罪の共同体が直ちにそのまま
> 愛の共同体であるような、そういう根源的連帯性の復帰。
> それこそドストイェフスキー的人間の最高の境地であり、
> 窮極の目標であった。ただそのためにのみ、ただそれをよりよく
> 表現せんがためにのみ、ドストイェフスキーは「文学者」として、
> あの苦難にみちた一生を生き通した。

「静かにきらめく星くずに満ちた大空が涯てしなく広々と頭上を蔽い、
まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけて
ひろがっていた。静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の
白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。
…じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれた
かのように地上に身を投げた。何のために大地を抱擁したのか、
どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に
襲われたのか、自分でも理由を説明することができなかった。
しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙で沾らした。そして
私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。…無限の
空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。
それはちょうど、これらの無数の神の世界から投げかけられた糸が、
一度に彼の魂に集中したような気持ちだった。そして彼の魂は
「他界との接触」にふるえていた。彼は一切に対して全ての人を赦し、
同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。しかも、
ああ、決して自分のためだけではなく、一切に対して、全ての人のために…。
あの大空のように確固として揺るぎないあるものが
彼の魂の中に忍び入った。さっき地上に身を伏せた時は、
脆弱い青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、
一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。」

> こうして、ラスコーリニコフにおいてはまだたんに
> 予感にすぎなかったものが、
> アリョーシャにおいて現実となって完成する。

> そして、この復活の秘跡とともにドストイェフスキー的人間も
> 最後の結末に到達するのである。もちろん、それは
> 一個の終末論的黙示録的風景にすぎない。
> しかし「終末」はすでに今、現にこの瞬間に、
> 着々として来たりつつあるのではないだろうか。

「永遠調和」の直観、あるいはもっとずっと緩やかな
「調和性」の直観は、ある種の音楽的な世界観とも結びつく。

「自然からの疎外」の直観は、都市に生まれた、
根のない者にとっては、無自覚な前提条件だ。

だから、ドストイェフスキーの問いは普遍的だが、
その答えは普遍的であるとは限らない。

たとえば別の一つの答えは、
問題自体を無効にしてしまうことだ。

「永遠調和」など幻に過ぎない。
人間は、あるいは世界は、もっとずっと多元的で混沌としているのであり、
それに対して、永遠調和というビジョンはあまりにも強連結すぎるのであり、
それを快復しようと企てることはあまりにも思い上がった、
まちがった問題の立て方である、というふうに。

たとえば「意味なんて考えちゃいけない。意味なんて無いんだ」
という村上春樹の言葉は、この方向を示唆しているかもしれない。

しかし、この答えからはすぐに、
「永遠調和のかわりにどのようなビジョンをどのように持ってくるのか?」
あるいは、むしろ、「そうした「ビジョン」を一切廃して、かつ、
現実に存在するさまざまな不調和に目をつぶることなく、
しかもなお充実した生を生きることはできるのか?」
という問いが生まれるだろう。

というようなことを、昔考えたのだ、
ということをまた思い出した。

ウクライナで起こっていることに心を痛めつつも、
北京のパラリンピックの開会式や閉会式に感動し、
年度末の歓送会の宴で料理や会話を楽しむ、
それが人間、ではあるのだが。

ところで、amazon で検索すると、
中公文庫の古書に、
1万円以上の価格がついている!?

そういえば、井筒さんの作品は、
あまり Kindle 化されていないという印象がある。

大変残念なことだと思う。
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