日々の寝言~Daily Nonsense~

「ホモ・デウス」から「クララとお日さま」へ(2)

激しくネタバレがあるので、
「クララとお日さま」を未読の方はご注意ください。


2.選ばれた場所と語り手-無垢な魂と献身

イシグロさんは、いろいろなインタビューで、
自身の作品の舞台設定の選択について説明している。
たとえば、2015年12月、「忘れられた巨人」
の出版後の WIRED のインタビュー

「わたしは小説を書く際に、まず主題となるべき「感情」
(原語は “emotion” なので、「情念」などと訳すほうが良いのかもしれない)
を決めて、それを的確に表現するために、物語をいったいどんな場所や
時代に設定したらよいかを考えます。」

「クララとお日さま」の場所は、作中では明示されていないが、
それはイギリスではないどこか、であり、アメリカ的な、
科学技術と個人主義の発達した国の近未来と考えて良いだろう。

そして、この小説の最大の仕掛けは、その世界が生み出した
Artificial Friend(AF)と呼ばれる人工知能搭載の人型ロボットを
語り手としていることだ。

たとえば、Vogue 誌の日本版に掲載された書評で、
評者である池田純一氏は「クララというAF=ロボットを
語り手にしたところが、この本の全てといってよい。」
とまで書いている。

2017年の、おそらくノーベル賞受賞後の BBC のインタビューでは、
新しい小説の構想に関する質問に答える中で、
イシグロは「人工知能は私たちの生活や人間関係を覗くレンズとなる」
語っていたという。

クララの、見聞きすることへの反応を通じて、
人工の知性から逆照射された形で、読者は、
「残酷な能力主義」に染まった人間社会の断片を垣間見せられる。

遺伝子工学によって個人の能力をアップグレードする格差社会。
学校はなく、知識の授受は端末を通じて効率良く行われ、
社会性を養うためのパーティーが開かれている。
そんな社会で、子供の孤独を慰めるために作られた道具が AF だ。

そこにおける重要なポイントは、クララという AF のキャラクターの設定だ。

これについて、上記の日経新聞のインタビューの冒頭で、イシグロさんは
「クララは初めから『寂しさ』というレンズを通して
人間世界を見るように作られている。」
と言っている。

大林宣彦監督の映画「さびしんぼう」を引き合いい出すまでもなく、
人間は、特に子供時代の人間は「寂しい」生き物だ。

その「寂しさ」を慰めるためのものとして作られた AF が、
そうした人間の「寂しさ」に対して敏感であることは自然なことだろう。
また、AF は、顧客である子供に選ばれ、献身し、そして、捨てられる。

選ばれるということは、つまり、将来において捨てられる可能性を内包している。
すなわち、AF という存在自体もまた、
人間の目から見れば、とても「寂しい」ものである。

しかし、クララ自身は、自己の存在の「寂しさ」を全く感じてはいない。
ただひたすら、純粋に、自分を選んでくれた子供、ジョジーと
その周囲の人々のために献身的に働く。

こうした純粋な奉仕(サービス)を違和感なく受け入れられるのは、
そのために作られたAF、という設定によるものだ。
そして、こうした AF という存在とそれに伴うキャラクターの設定によって、
読者は、改めて、「人間とは何か」「信仰とは何か」「献身とは何か」「愛とは何か」
といった、少し未来の世界における人間の本質にかかわる問いへと誘われる。

(つづく)
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