「クララとお日さま」「わたしを離さないで」
等を未読の方はご注意ください。
「クララとお日さま」がイシグロさんの名作「わたしを離さないで」
に直接的に連なる作品である、ということは明らかである。
いくつかのインタビューで、イシグロさん自身もそう語っている。
どちらの作品も、科学技術の発展した近未来を舞台とし、
誰かに「奉仕する」主人公を語り手としている。
しかし、二つの作品が異なる点の一つは、
「わたしを離さないで」のキャシーは、クローンとはいえ生身の人間であり、
そこでキャシーの目を通して語られるものは、主に、クローンの生活や
クローン同志の関係であるのに対して、「クララとお日さま」では、
AF はあくまでも「機械」「物」であり、
AF 同志の関係はほとんど語られることはなく、もっぱら、
AFから見た人間と人間の間の関係についてのみが語られる、
ということである。
このことは、二つの作品の受容のされ方に大きな違いを生み出している。
「わたしを離さないで」を読むときに、クローンの生きている世界は、
決して私たちの世界と別のものではない。
クローンは、用意され、管理された環境の中で生まれ、
誰かを愛し、誰かに愛され、誰かに奉仕して、そして死ぬ。
それは大きくデフォルメされた私たちの世界であり、
私たちは、比較的容易に、キャシーやルース、トミーに共感し、
自らを投影することができる。逆に言えば、
それができるかどうかが、作品の評価に大きく影響する。
一方、「クララとお日さま」においては、
AF の世界というものは冒頭で少しだけ描かれるだけで、
むしろクララの認知能力の人間との違いが強調されている。
クララに対して、子供時代の、知的に幼く、
その分純粋で無垢な自分を投影することは可能かもしれない。
日本語訳の解説で河内恵子氏も
「クララはカズオ・イシグロが創ったもっとも美しい子供だ」と書いている。
しかし、読者とクララの間の距離は、読者とキャシーの間の距離よりも
だいぶ遠く、その間には、単純な共感を妨げるようなガラスの
ようなものが置かれているようにも思われる。
「わたしを離さないで」では、クローンを利用する側の普通の人間は、
クローンもまた人間である、という事実を隠蔽し、
見ないふりをして生きている。そうした、多くの社会に内在している
社会的な認知の歪みもまた、作品の重要な主題の一つだ。
一方、「クララとお日さま」では、AF が人間ではなく「物」である
ということは、特に隠されているわけではない。
誰もがそれを認めた上で、人間のコピーを作ることの可否や
AI に対する恐怖を取り除くための方策、などが論じられている。
そして、このことを、とても巧みに利用しているのが、
作品の末尾の「廃品置き場」のシーンだ。
ピクサーの名作アニメ「トイ・ストーリー3」の捨てられるおもちゃを
連想させるクララの姿は、読者の涙を誘う。
しかし、「トイ・ストーリー」のウッディやバズたちとは異なり、
クララには、別れの悲しみや捨てられたことへの恨み、
のような感傷は全くみられない。そこにあるのは、
自らの使命を達成したというシンプルで明るい満足感であり、
その「無私」とも見える姿が(はじめから「私」など無いのかもしれないのだが)、
彼女の献身の純粋さを人間を超えたレベルに押し上げ、
読者の別の種類の涙を誘う。
そうした「純化」された献身、愛をまとったクララを見て、
読者は、何か見てはいけないものを見てしまったような印象を受ける。
そして、改めて、その輝かしい何かと対比させて、
自らの、商品となり、汚れてしまった献身、愛、魂、と向き合い、
それについて考え続けることを強いられる。
(つづく)
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