ずいぶん久しぶりに読み返した。
「愛は敗れても、親切は勝つ」
ウォーターゲート事件で刑務所に入ることになった
ウォルター・F・スターバックの自伝、という形をとりつつ、
1900年代のアメリカ、特に、「資本」というものをめぐる寓話が、
いつものように、シニカル・ヒューマニズムの
独特の語り口で展開される。
ヴォネガットの作品はだいたい好きだが、
その中でも、わりと好きなほうに入る。
今回読み直して心に刺さったのは、次のフレーズ:
この自伝を書いていていちばん恥ずかしいのは、
わたしが一度も真剣に人生を生きたことがないという
証拠の数かずが、切れ目なくつながっていることである。
長年のあいだにわたしはいろいろな辛酸をなめたが、
それらはすべて偶発的なものだった。わたしが人類への
奉仕(とまで言わなくても、身近な人への奉仕)のために、
自分の生命を賭けたことは、いや、自分の安楽を犠牲に
したことさえ、一度もなかった。
「あなたが本気じゃなかったのは知ってるのよ」
「本気さ、本気だった」わたしは抗議した。
「嘘じゃない---本気だった」
「もういいのよ」彼女はいった。
「ハートを持たずに生まれてきたのは、あなたのせいじゃないわ。
すくなくともあたたは、ハートを持った人たちが
信じていたことを、信じようとした。---だから、
あなたもやっぱりいい人なのよ」
わたしもきっとそうだ・・・
村上春樹さんがカート・ヴォネガットの影響を
強く受けていたことは本人も言っているし、よく知られている。
実際、「風の歌を聴け」をはじめて読んだときは、
これって、パクリじゃないの?と思ったくらいだ。
しかし、同じように、この世界についての「寓話」
を書いていても、ヴォネガットと村上春樹さんとでは、
やり方がかなり違う。
ヴォネガットの場合には、なんといっても、
シニカルで鋭い洞察力が圧倒的に光っている。
宇宙の果てから地球上を眺めているような。
一方、村上さんの場合には、自ら「井戸に降りてゆく」
と言うように、もっとずっと、無意識の世界を扱う。
ヴォネガットの作品が「理性の哀しみ」だとすれば、
村上さんの作品は「無意識の哀しみ」だ。
久しぶりに「海辺のカフカ」を
読み直してみたくなった。
最新の画像もっと見る
最近の「本」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事