日々の寝言~Daily Nonsense~

博物学と物理学 -「科学」の行方

ところで、ドリトル先生は、医学博士で博物学の大家
という設定で、昔は、学問といえば博物学だったのだ。

珍しい種についての知識を愛する
人間の好奇心に基づく学問。

オウムのポリネシアに動物語を教えてもらったのも、
誰も知らない知識を動物から聞ける、ということが
大きな動機の一つだったと思う。

それが「科学」になって分野ごとに専門分化し、
ニュートン以来の物理学帝国主義によって、
普遍的法則を追い求めるのが標準的な学問の姿
と言う感じになったのだが、
昨今の「データ駆動科学」には、
ロングテールを志向する側面もあるわけで、
21世紀になって、また少し揺り戻すのかもしれない。

そういえば、20世紀の間にも、
「野生の思考」とか「複雑系」とか、
似た方向のムーブメントはあったのかもしれないが、
パラダイムの変換にまでは至らなかった印象がある。

物理学の、世界は普遍的で単純な法則に支配されている
というのは、明らかに大きな認知バイアスで、
実際は、状況依存で変化する複雑な法則しか
無いのかもしれない。

神は単純さを好む、とか、
神はサイコロを振らない、というのは
美しいが、限界はあると思う。

そこを、大量のデータでどう補ってゆけるのか?
あるいは、大量のデータからの機械学習に
科学の普遍的な法則をどう組み込んでゆくのか?

データと言うと、Evidence-based ということで
なんとなく客観性があるようだが、
集め方次第ではすごく偏ったものにもなるし、
そもそも統制されていない実世界のデータは
どんどん変化してゆくものなので、
そうした中での客観性の担保も課題だと思う。

単純な普遍的法則を、実験室で検証する
というのは素晴らしいパラダイムで、
その他の学問も、みんな真似しようとしたのだが、
それで扱える範囲は広くはない。

そこをどうやって超えてゆくのかは長年の課題で、
ソーシャルな情報交換ツールや、IoT、AI などをベースとする DX によって、
そろそろ、何か新しい学問の姿、フォーマットが生まれてくると
よいと思うのだが・・・

「科学」については、こうした
普遍性 vs ロングテール、複雑性、以外に、
好奇心 vs 功利性・有用性という軸もあって、
20世紀には、科学の有用性の側面が大きく
クローズアップされた。

これは、普遍的な法則を追い求めた結果でもあり、
ロングテールに戻るということは、
好奇心重視に戻るということかもしれない。

朝日新聞の新連載小説を告知する記事には、
「ドリトル先生、スタビンズくんの口を借りて、
自然のあり方、生命が本来持つ自由さを書きたいと思います」
という福岡先生の言葉が紹介されている。

この「自由さ」というのは、明らかに、
少し前に書いた、Diversity / Inclusion に
つながっている。

福岡先生も、前のエントリーの KADOKAWA のものとは別に、
新潮社から、「航海記」の新訳を出されていたのだ。
そのときの紹介記事に、
まさに上のようなことも書かれている。

新・ドリトル先生に、こうした自然の姿とともに、
それを捉えようとする、新・学問、科学の姿が
描かれることを期待したい。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「雑感」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事