例によって主人公に意味不明な試練を課すという展開になっていて、
主人公が「人の為と書いて偽りと読む」などと言われていた。
いわゆる利他=偽善問題だが、これはもう、
利他は結局のところ利己である、
純粋の利他的行動は存在しない、
ということで決着させてよいのでは?
つまり、純粋の利他的行為でないものを偽善と呼ぶなら、
利他は常に偽善であるが、そのことは、あえてそう言うまでもないことである。
人はそもそも利己的に利他的行動をするようにできているのであって、
その意味で、利己か利他かという区別は重要ではない、ということである。
人間の快感の経路には
自分の身体の反応から直接の経路と
他者の反応からミラー・ニューロンシステムを経て間接の経路
の二つがあると言われている。
したがって、後者が、利他的な行動の源の一つになる。
要するに、誰かが歓ぶと自分も嬉しいということだ。
人間の脳には社会的活動を促進するために、
多かれ少なかれそういう回路が組み込まれていると思われる。
ただし、ここで面白いのは、
相手が好きな人か嫌いな人かで
かなり変調がかかると思われること。
好きな人が歓べばとても嬉しいが、
嫌いな人が歓んでもあまり嬉しくないか、
むしろ嫌になったりする。
では、相手を好きか嫌いかは、
何で決まるのだろうか?
ミラーシステムの同調・共鳴のしやすさで決まる、
となると、「鶏卵」になってしまうのだが、
案外そんなものなのかもしれない。
そうだとすれば、本来的に共鳴しやすい人たちが
集団をつくりやすく、その集団の中では
利他的行動が生まれやすくなるということになる。
あるいは、相手が自分の存在や生き方を承認しているか否か、
というのもあるのかなぁ。
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