死後の世界
新約・ヘブライ9・27
人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受ける事が定まっている。
キリストはなぜ世に来たか。
キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を追うためではなく、ご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださる。
次の記事はブランデン・D・クロウさんの著書「最後のアダム、イエス・キリスト」から
福音書はアダムの要素であふれかえっています。イエスが自分のことを指して頻繁に用いていた「人の子」という称号は、ダニエル書7章13-14節に由来していると考えられますが、そこでは、人の子の王国(創世記1-2章、詩篇8篇)が、不敬虔な、獣のような王国と対比されています。アダムは、神のお造りになったものを支配するべく、尊厳と威光をもって創造されました。人の子は新しいアダムであり、永遠の王国を支配する者です。福音書の中でイエスは、人類の代表として、最初の人が犯した罪を克服し、救いを達成します。イエスは従順によって強い者を縛り上げ、悪魔に束縛されている人を解放し、罪の赦しを与えるのです(マタイ12:22-32、マルコ3:22-30)
使徒パウロはアダムについて多く語っていますが、ほとんどの場合、イエス・キリストの人格と働きに関連させています。鍵となる箇所はローマへの手紙5章12-21節とコリント人への手紙第一15章20-49節でしょう。ローマ5章12-21節では、一人の人間(アダム)の罪によってすべての人が罪に定められ、死ぬ運命となったことが書かれています(5:12, 18)。アダムの代表的な不従順に取って代わるのが、イエスの代表的な従順なのです。この従順はイエスにあるすべての人に義といのちを与えます(5:18-19)。アダムは、単なる例として取り上げられているのではなく、歴史的な真理、霊的な現実として、罪の起源と、罪からの救いを説明する際に取り上げられています。アダムが本当に人類の頭であるからこそ、アダムの行いによる、死とさばきの普遍性が説明されるのです。アダムの歴史的行いは、もう一人の歴史的行いによって克服されなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、義といのちをもたらすために、歴史の上に現れた人なのです。
ひろばあは、「神は、どうしてアダムだけでなく多くの地上を埋め尽くす人々をいっぺんに創造されなかったのか?」と疑問に思っていました。「でも、そうしたら神に似せて作られた人間がその目的の一つである創造の自由を得られないから?」なんて思ったりもしました。
子供を産み育てて愛情を育み親子一緒に世界の動物たちを保護していくという、神の創造の業に似た素晴らしい仕事は実行不可能だったかも知れませんよね。人間が反逆しなかったら、6000年間生きている人がまだ地上にいて、いま生まれたばかりの人がその知識や体験の恩恵を受け、一人ひとりには守護霊のような天使が付いていてさらに人間を助け、凄い世界ができていたかもしれませんよね。今の人間よりテレパシーが発達していて知能も高く、多くの書物を読まなくても聞いたら全部暗記できてしまっているような超能力のある人々で溢れかえっていたかもしれません。今の世界より可能性が限りなく広がっていて楽しく興味深い事だらけだったかも知れません。チータと一緒に走れたり、象より力があり重いものが運べたりと、身体的能力ももっと優れていたかも知れません。アダム達の頃は皆900年以上生きていましたから今の人達より能力は優れていたと思われます。
ひろばあ」は、「どうして御使い(天使たち)は人間のように子供を産み育てず、ロボットみたいに皆それぞれ神から生まれたのか?」ということも考えていました。 みなさんはどう思われますか?
私の結論は、今のところ次のようなものです。「御使の仕事は人間を助けることなので、それぞれ子供を産み育ててみんな個性的な御使いになってしまったら困るからでは?」と思ったのですが、いかがでしょう。人間を助ける時、それぞれの個性的な御使いがそれぞれ個性的な違う方法で助けたら混乱をきたすのでは?と思うのです。聖書に書かれている神と御使いの集会では、神が問題を提起し、御使いたちに解決のためのアイデアを尋ねています。神が勝手に押し付けているわけではありません。
私達人間の為、”太陽や月を、日や(月だったかな?記憶があやふやですみません。調べておきます。)季節のために造られた。”、というたった一つの神の業でさえ真似できない私達人間には、時々なぜ神がそうされたかということはno ideaで、さっぱり解りませんね。
創造の業の終了後のアダムに対する神の命令と、ノアが洪水後に神から聞いた命令とは同じで「産めよ増えよ、地に満ちて地を支配せよ。」でした。地球上の生物を保護して世話し、人間がお互いに助け合ってそれを行うのが神のお目的だったようですね。このようなマイティパワーの人間たちにはライオンも、恐竜も大人しく従ったことでしょう。ある牧師さんの推測では、堕天使との混血の巨人ネフィリムのように、完全な人間に近かった初期の人間たちは3メートル位の身長があったかも知れないと言っています。
余談ですが、前に書いたブログで、恐竜はかなり近代に近い時代でも生きていたという証拠をあげました。ぜひ、お読みくださいね。キングジェーム訳の聖書には、ハッキリとドラゴンと書いてありますが、今の訳ではカバとか別の訳に変えられていますね。アメリカ版百均のドラーツリー店に行くとKJV(キングジェームス版)の聖書が山積みで売っているので、私たちみたいな庶民の方々が多く買っていかれているのかな?と思っています。
とりとめもない話をしていますが、ひろばあも頭が混乱してきたので、また今度ね〜。
読んでくださって、ありがとう〜〜!
新約・ヘブライ9・27
人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受ける事が定まっている。
キリストはなぜ世に来たか。
キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を追うためではなく、ご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださる。
次の記事はブランデン・D・クロウさんの著書「最後のアダム、イエス・キリスト」から
福音書はアダムの要素であふれかえっています。イエスが自分のことを指して頻繁に用いていた「人の子」という称号は、ダニエル書7章13-14節に由来していると考えられますが、そこでは、人の子の王国(創世記1-2章、詩篇8篇)が、不敬虔な、獣のような王国と対比されています。アダムは、神のお造りになったものを支配するべく、尊厳と威光をもって創造されました。人の子は新しいアダムであり、永遠の王国を支配する者です。福音書の中でイエスは、人類の代表として、最初の人が犯した罪を克服し、救いを達成します。イエスは従順によって強い者を縛り上げ、悪魔に束縛されている人を解放し、罪の赦しを与えるのです(マタイ12:22-32、マルコ3:22-30)
使徒パウロはアダムについて多く語っていますが、ほとんどの場合、イエス・キリストの人格と働きに関連させています。鍵となる箇所はローマへの手紙5章12-21節とコリント人への手紙第一15章20-49節でしょう。ローマ5章12-21節では、一人の人間(アダム)の罪によってすべての人が罪に定められ、死ぬ運命となったことが書かれています(5:12, 18)。アダムの代表的な不従順に取って代わるのが、イエスの代表的な従順なのです。この従順はイエスにあるすべての人に義といのちを与えます(5:18-19)。アダムは、単なる例として取り上げられているのではなく、歴史的な真理、霊的な現実として、罪の起源と、罪からの救いを説明する際に取り上げられています。アダムが本当に人類の頭であるからこそ、アダムの行いによる、死とさばきの普遍性が説明されるのです。アダムの歴史的行いは、もう一人の歴史的行いによって克服されなければなりませんでした。イエス・キリストこそ、義といのちをもたらすために、歴史の上に現れた人なのです。
ひろばあは、「神は、どうしてアダムだけでなく多くの地上を埋め尽くす人々をいっぺんに創造されなかったのか?」と疑問に思っていました。「でも、そうしたら神に似せて作られた人間がその目的の一つである創造の自由を得られないから?」なんて思ったりもしました。
子供を産み育てて愛情を育み親子一緒に世界の動物たちを保護していくという、神の創造の業に似た素晴らしい仕事は実行不可能だったかも知れませんよね。人間が反逆しなかったら、6000年間生きている人がまだ地上にいて、いま生まれたばかりの人がその知識や体験の恩恵を受け、一人ひとりには守護霊のような天使が付いていてさらに人間を助け、凄い世界ができていたかもしれませんよね。今の人間よりテレパシーが発達していて知能も高く、多くの書物を読まなくても聞いたら全部暗記できてしまっているような超能力のある人々で溢れかえっていたかもしれません。今の世界より可能性が限りなく広がっていて楽しく興味深い事だらけだったかも知れません。チータと一緒に走れたり、象より力があり重いものが運べたりと、身体的能力ももっと優れていたかも知れません。アダム達の頃は皆900年以上生きていましたから今の人達より能力は優れていたと思われます。
ひろばあ」は、「どうして御使い(天使たち)は人間のように子供を産み育てず、ロボットみたいに皆それぞれ神から生まれたのか?」ということも考えていました。 みなさんはどう思われますか?
私の結論は、今のところ次のようなものです。「御使の仕事は人間を助けることなので、それぞれ子供を産み育ててみんな個性的な御使いになってしまったら困るからでは?」と思ったのですが、いかがでしょう。人間を助ける時、それぞれの個性的な御使いがそれぞれ個性的な違う方法で助けたら混乱をきたすのでは?と思うのです。聖書に書かれている神と御使いの集会では、神が問題を提起し、御使いたちに解決のためのアイデアを尋ねています。神が勝手に押し付けているわけではありません。
私達人間の為、”太陽や月を、日や(月だったかな?記憶があやふやですみません。調べておきます。)季節のために造られた。”、というたった一つの神の業でさえ真似できない私達人間には、時々なぜ神がそうされたかということはno ideaで、さっぱり解りませんね。
創造の業の終了後のアダムに対する神の命令と、ノアが洪水後に神から聞いた命令とは同じで「産めよ増えよ、地に満ちて地を支配せよ。」でした。地球上の生物を保護して世話し、人間がお互いに助け合ってそれを行うのが神のお目的だったようですね。このようなマイティパワーの人間たちにはライオンも、恐竜も大人しく従ったことでしょう。ある牧師さんの推測では、堕天使との混血の巨人ネフィリムのように、完全な人間に近かった初期の人間たちは3メートル位の身長があったかも知れないと言っています。
余談ですが、前に書いたブログで、恐竜はかなり近代に近い時代でも生きていたという証拠をあげました。ぜひ、お読みくださいね。キングジェーム訳の聖書には、ハッキリとドラゴンと書いてありますが、今の訳ではカバとか別の訳に変えられていますね。アメリカ版百均のドラーツリー店に行くとKJV(キングジェームス版)の聖書が山積みで売っているので、私たちみたいな庶民の方々が多く買っていかれているのかな?と思っています。
とりとめもない話をしていますが、ひろばあも頭が混乱してきたので、また今度ね〜。
読んでくださって、ありがとう〜〜!