今日は結婚52周年目を迎えました。ここまで来ると、ただの通過点で健康で過ごせれば良いかと思っています。
私は結婚してから、お互いの両親と女房に感謝の電報を送っています。
しかし、2年前から女房だけになりました。
喜怒哀楽の日々でここまで来ましたが、私は両親や女房(妻ではなく女房と言っています)に対して、結婚記念日も誕生日も祝ってもらうのではなく、「感謝」する日だと思っています。
昭和48年(1973年)3月16日、結婚式をあげさせていただきました。
「私たち二人は大神の御前で幸せな家庭を築きますと誓いの言葉を申し上げました」
面白いことに 私たちが結婚すると決まったら妹も私たちもと、妹夫婦の二組での合同結婚式となりました。
仲人さんは大学の教授(英語の)です。
親族のご挨拶でも、○○家の嫁となり・・・と間違えて祝辞をいただいたこともあります。
私たちの新婚旅行は、義父の車(カローラ)を借りて東京から京都・神戸・フェリーで四国に渡り、宿毛方面の海沿いを半周するドライブで、高知港から晴海ふ頭まではフェリーを使うコースでした。
道路が空いていて、ある町を通過したら一斉取り締まり(ネズミ捕り)で、初めてのスピード違反でキップを切られた思い出もあります。
また 結婚50年を記念して、再び新婚旅行先だった四国の松山などを訪れ、同じホテル(ふなや)に泊まり、また当時は出来ていなかった「しまなみ海道」で岡山へ向かいました。
早いもので結婚52周年となりました。二人の息子たちも50歳前後になりました。こうして家族が元気に暮らせることに改めて感謝しています。
毎年送っていた結婚記念日の電報も、特に女房の両親は喜んでいたようです。その日は電報が届くのを朝から待ちわびていたそうです。嫁に出した親ごころは幸せに暮らしているかがいつも心配するのでしょうね。
私は仕事と海人間(ヨットやスキューバダイビング)でしたが、女房から陸に上がってダンスしないと誘わ、50歳前から共通の趣味として始めたのです。
その後は、いろいろな競技会に出場いたしました。
市内のあるサークルでデモンストレーションをすることになりましたが、踊り終わって胸からバラの花を女房に渡した場面です。
ダンスも競技が中心でしたが、仕事やコロナ禍で中断したこともあります。
最近はジム通いして、体幹などを作り上げている日常です。
昨日は近所の園芸店で花を買い求めに行きました。
園芸店には春が来ていました。
こんなカゴに入っている草花を買い求めました。
少し鑑賞したら、地植えにするつもりです。
通過点と感謝の気持ちで「電報と花」です。健康で53周年目を目指します。
yuki76