はぐれの雑記帳

極めて個人的な日めくり雑記帳・ボケ防止用ブログです

精神革命論(1)欲望の暴走を止めるのは

2020年03月16日 | 思想史関係
精神革命論(1)”インドに生きる人々のことば・・

一黙さんのコメントと対話していて、中国人の「職業観」に触れていくうちに、ヒンズー教のヴェーダ文学と言うか聖典の中に、「職業に励め」と言う一節があったように思いだし、ブログのどこかで触れていないかと探していたら、2014年のブログで、とてもいいことを書いていたと思い、自分のブログをリブログしました(⇒序に加えました。)できれば読んでいただきたいのですが、インド人の宗教心は日本人と共通するものがあるとおもえてなりません。
21世紀も20年を経過していようとしています。2020年には日本で半世紀ぶりにオリンピックが開かれます。
「終戦」の年に生まれてその後の70年を見てきましたが、その年代ごとに自分は一所懸命にやってきたなと思っています。多くの方々も私と同じように過ごされたと思います。
一つには、自分の置かれている状況から逃げないと言うことでした。
「一所」と言うのはそういうことだと思います。「そこの場で」ベストを尽くすと言うことでしょう。「言い逃れ」「他人のせいにする」、こそこそ逃げる、そういうことはせずに来たと思うのです。成人するまで親の影響をもろ受けてきますよね。大学に入って、私の人生で、この大学に行けたことが運命を変えたと思っています。大学終了する時期に学園紛争が始まりましたね。70年安保、全共闘、赤軍派事件など「政治の時代」でした。

マックス・ウェーバーの研究者、内田芳明先生に出会ったのが思想的に大きな出来事でした。20代始め結婚するまでの5年間は、一つのエポックだったでしょう。この間に私の基本的なエートスが形成されたと言ってよい。
第二の時期は大手流通企業で10年間であろう。ほぼ30代を過ごした。この時期に「組織」「企業」について学んだと言っていい。それまで世間知らずであった自分が、生々しい人々の姿に触れた時期でもあった。
40代、50代、流浪の時期、「人」に出会えず彷徨ったと言える。振り返ると長い時期だ。独立して一人で自営に至るまで、《人》に出会えなかった。
今振り返ると、内田芳明先生との出会い、これは今一度振り返らないといけないが、私の人生でであった本物の《人》の一人であり、その後に出会った伊藤雅俊社長、長岡喜法常務と山本常務は私に影響を与えた人だろう。その後、影響を受けた人と出会わない。強いて言えばダライラマであろうか。
ヒンズー教では四住期と言う人生のとらえ方がある。
ウィクペディアの説明による四住期
四住期(アーシュラマ)とはヒンドゥー教独特の概念で、最終目標の解脱に向かって人生を4つの住期に分け、それぞれの段階ごとに異なる目標と義務を設定したもの。四住期について概略を示す。
受胎から入門式(8 - 12歳)までは四住期に入らず、この間は一人前の人間とは見なされない。
学生期 - 本来の意味は、特定の師匠(グル)に弟子入りして聖典ヴェーダを学習する時期であったが、クシャトリアは武人としての技能の鍛錬や行政統治の実務の勉強も行い、ヴァイシャも世襲の職業に関する勉強も行った。現在では就学期間に相当。
家住期 - 学生期を終えると家業に務め結婚して家族を養う家住期に入る。男子をもうけて先祖の祭祀を絶やさないことが重要視される。このためインドでは中国のような一人っ子政策は受け入れられにくい。『カーマ・スートラ』は家住期を充実させるための経典である[22]。家住期において家長は家業を繁栄させて大いに儲け、その金を喜捨することも重要と考えられている。
林住期 - 家住期を終えると解脱に向けた人生段階に入る。孫の誕生を見届けた家長は家を離れて荒野や林に住み、質素で禁欲的な生活を営む。
遊行期 - 林住期を終えると住まいを捨てて遍歴行者となって放浪し、解脱を目指す。
過去においても現在でも、全てのヒンドゥー教徒が四住期を全うするわけではない。ちなみに仏教の開祖釈迦も当時のバラモン教の教えに従い、四住期に則った人生を送っている。即ち男子をもうけた後、29歳で釈迦族の王族の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出ている。

私は生を受けて両親と出会い、学生期に内田芳明先生に出会い、ウェーバーであった。家住期に伊藤雅俊氏や長岡喜法氏や山本春樹氏に出会った。ある意味本物の「人」に出会えたと思う。今は林住期にあって、山を歩き自然に触れる。質素に暮らしているというより、貧しいのだ。でも不満はなく、不安はある。
人生において、本物の「人」に出会えることは少ないだろう。それを思うと私はまだラッキーだと思えている。
林住期にあって、ダライラマに出会ったとも言える。チベットの子供たちと出会って彼らの成長を見守る。

私はダライラマの「幸福論」(新しい千年紀に向けての倫理)と言う本を多くの方に進めたいと思う。Youtubeに私が作成した「ダライラマのことば『人はどうしたら幸せになれるか』を見ていただきたいと思う。これは「幸福論」から言葉を拾い集めたものです。
ダライラマは、二一世紀に向けて人の「道徳の革命」「精神の革命」を訴えています。

今回の「精神革命論」シリーズはこのダライラマの教えからスタートします。そしてリブログした「インドに生きる人々のことば・・私がインドを好きな理由」にたどり着くます。そのブログは最後に「続く」」と在るのですが、三年の間をおいて「つづき」が書かれます。
私が過ごしてきた70年はは「平和な時代」でした。「平和を求めた」時代でした。でもここにきて時代の風が変わっています。
私はウェーバー的世界観で時代を見てきました。今もそうです。
そうして、今世界が求めている人類の「生き方」について問い直す時期が来ていると思っています。《近代の終焉》とか「資本主義の終わり」とか言われていることを別の角度から見てみたいと思うわけです。結論的に先走って言えば、日本は歴史の変化の先頭集団にいると思うのだが、それを我々が気づいていないのではないか、と思うのです。
佐伯啓思と言う経済学者をソルトメイトさんのぶろぐで知りました。「欲望と資本主義」と言う新書版の本は、ある意味同じテーマを見ています。
優れた学者であり、ウェーバー解釈も間違えていませんが、経済学の範囲の学者はウェーバーの世界を知りません。ごく一部の近代化論・近代資本主義論の範疇でしかウェーバーをとらえられないのはやむをえません。
ウェーバーの有名な論文、「資本主義の精神」に触れて、倫理との問題をp181以降で扱っていますが、彼は「倫理」と関係ない「資本主義」をとらえていて、そこに「経済学の資本主義」をとらえようとしています。ですから「資本主義」と言うのは、マルクスの言う<労働価値説>からなるのではなく、「金融資本の自己増殖」の自己作用で成り立つと言いきっている。だから「倫理」と切り離した「資本主義」を見る。これは純粋経済学者としては正しいのです。
彼はウェーバーが「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」の中でウェーバーが否定したゾンバルトの意見を取り上げて、資本主義の本質は、「欲望」「ルサンチマン」などの動機によるものだと指摘しています。
佐伯氏はウェーバリアンではないから、経済学の分野からプロテ論からこのような答えを導き出すのは、大したものです。でももし、彼がウェーバーの「古代農業事情」とか「一般社会経済史」などを読まれたら、書き方が変わったと思います。
彼が言っていることは正しいのです。
まず資本主義は「貨幣経済」の発生と同時にあるのです。マルクスの「労働価値説」では無くて、「資本」そのものの「活動」が資本主義なのです。世界で貨幣経済がないところはもはやないでしょう。資本は自己増殖をめざして巨大化していきました。
資本主義と「市場経済」とはコインの表裏のようなものでしょうが、資本の暴走を止める装置が「市場」だと言えるかもしれません。
ウェーバーのことを私なりに説明させてもらうと、資本主義は貨幣経済の在るところ古代からあったのです。それがまず歴史の中で前提です。ですから前期的資本主義と言うのは「略奪資本主義」とか「「戦争資本主義」とか呼ばれています。十字軍などは略奪資本主義の見本のようなものです。古代ローマ帝国の主力商品は「奴隷」でした。<人権>なんていう概念が生まれたのは今から200年前のアメrカ独立戦争の時ですよ。それでもアメリカは19世紀まで奴隷がいたし、南アフリカのアパルトヘイトは20世紀までつづいたのですよ。
奴隷を持たない歴史があるのは「日本」くらいで、中国も朝鮮もっていたのです。
ウェーバーは、そういう「資本主義」の中から、産業革命を生み出し、合理的な会計制度で企業を経営し、労働者を「人間」として扱う《近代》資本主義が何いよって、またいつから作り出されてきたのかを問題にしたのです。ウェーバーは大学教授になる任官試験で「古代ローマの帝国の衰退」を取り上げています。当時の歴史学者モムゼンンが彼の分析をたたえています。
彼はドイツの「歴史経済学」の後継者として彼の時代がどこからきてどこへ行くのかを学術的に分析しようとしたのです。佐伯も同じ問いを発しています。
彼は<『欲望』を文化的なイマジネーションの世界に取り戻す>ことができる社会になっていくとみている。
佐伯は今の資本主義を「欲望を刺激してそのフォロンティア」を広げることが難しくなっていると言う。
それは「人間の道なるものに対する想像力の危機」だが、それは「想像力を産業技術が独占していた「近代」を脱して、それをもう一度、とりわけ産業技術によって開拓され「新しいもの」が産業技術によって提供されてきた、「産業資本主義」と決別することができる(p218)と考える。
「今世紀の産業資本主義は、それ(経済活動自体)を字術の次元に還元し、文化から切り離そうとした。」
今限界にきているのはそういう資本主義だと、佐伯は言う。
「欲望」を「文化的なイマジネーションの世界に取り戻す」ことの可能性に佐伯はかけてみたいと言う。

佐伯の言う「文化的イマジネーションの世界」に欲望を取り戻すという言い方の中に、すでに「価値判断」が入っていて「文化的」と言う概念がすでに「道徳的・倫理的」要素を前提にしているのだ。
だから、資本主義が、倫理と切り離されて存在すると言うのは言えるけれど、資本主義を利用する側の「人間」の側の問題がむしろ問題であって、rンりと切り離されて存在する資本主義が時運で「文化的」になるわけではない。そこを混同しているように思う。
ウェーバーの論文の最後の部分をもう一度読み直してほしいと思う。
経済制度とか法律制度、社会的システムと言うのは、人間の周りに存在するもので、孤立的、自動的にそれぞれの合理性を求めて動くように見えるけれど、人間とそれらのシステムとをつなぐものが何かと考えたら、骨と骨をつなぐ「軟骨」があるように、そこに人間の「思考」と言うか「心理的な作用」があるわけで、単なる動物的生物としての人間だったら、自然のみがあって、猿や鹿のように生きていくわけです。
特に経済行為と言うのは「人間の行為」の累積です。
むしろ、彼の言い方からすれば、資本主義が2001年宇宙の旅」の「コンピュターハル」のように自立した動きをしてしまい、人間の管理能力を超えてしまうところに限界が来たといrべきでしょう。
近代資本主義は『欲望』と言う動力を人間に《無制約》に与えることで、自己増殖を遂げるわけです。暴走するわけです。だから佐伯が「文化的イマジネーションの世界に取り戻す」と言う言い方は、もっと明確にウェーバーが近代資本主義を生み出した<思想と理想の力強い復活が起こるか>、または新たな預言者が現れるか、の部分にあたるだろう。だが、もしどちらでもないとしたら<一種の病的な自己陶酔をもって粉飾されたシナ的化石化が起こるのか、それはまだ誰もしらない>とウェーバーが悲観的に書いている事を見るべきだ。

今のチャイナは前近代的資本主義のチャンピオンとして姿を現し、「近代資本主義」を経験してきた「社会」の脅威となって現れている。もしここで、『文化的イマジネーション』がチャイナ的になったら、この世界の希望は失われていくだろう。
宗教改革を契機として、人間は「平等」「自由」と言う原則を打ち立て「近代民主主義」と言う形を作り出してきた。「近代資本主義」は近代科学技術を産み出し、人間生活を飛躍的に豊かにした。今の時点は、不平等の社会が当然であった時代から、だれもが豊かになれる時代の扉を開いたが、ここでさらに世界の隅々までに人間の文化をいきわたらせる世界を築くのか、再び「不平等格差の社会」に戻るのかの境に来ている。
もし、われわれが「倫理」を手放せば、「欲望」が勝利する世界となる。「倫理」再び「修道院」や「寺院」の中に閉じ込められるだろう。今のチャイナには、それらを「倫理」をはぐくむ場所すらない。今のチャイナの状況こそ、歴史が過去に見ていた状況なのだ。あなたはそれを肯定し、本能的欲望の暴走する社会の出現を望むのか。

今や多くの識者が「ポスト資本主義」を語る。それは間違いだ。資本主義はなくならない。もっと世界にひろくいきわたる。だが「近代」と言う時代は終わる。我々はウェーバーが憧れた「古プロテスタント」の人々のような生き方を復活することができるだろうか。それが問題なのだ。
『近代』がつくりあげた「人間類型」はきわめてもろい薄いガラス細工のようなもので壊れやすいのだ。何に弱いのかと言えば、それこそ「欲望」にである。
先進国に暮らす人たちと、自己陶酔にしたるチャイナの人たちとが「欲望」の支配する行為に走り出しているのです。少なくともそれにストップの警鐘を鳴らすことができるのは、インドであり、日本であるだろう。
米中の人々は神を恐れることをわすれてパぺルの塔を建設しているのです。

アマルティ・センと言うインドの経済学者がいる。インドの貧困を目の前にして経済学を考える学者だ。
彼は「貧困と飢餓」で1998年にノーベル賞を受けている。彼には「経済学と倫理学」と言う講義集もある。さらにA・V・バナジーと言うインド人学者とE・デュフロと言うフランスの学者の共著で「貧乏人の経済学」と言うのがある。
佐伯氏の経済学は先進国の経済学です。
かつて鄧小平が「富める者から富む」と言った様に、世界はこの数百年をかけて「富める国」を作り出してきた。しかし世界には「貧しい国」がたくさんあるわけで、「不平等」を生んでいる。世界の人々がある程度の文化を教諭できるようにするためには、先進国の富の分配が必要なのだ。
今私たちは「近代資本主義」が作り出した富を享受しているけど、それにあずかれない人々もまだ多く存在する。
チャイナの富める人たちが、貧困な人たちを救えるか、そういう「平等」な夜会を築けるかが今後の課題であるように、それは同時に世界の課題でもあるのです。
もはや先進国が経験したような高度成長は、貧困を救い、格差のない世界を作り出すためには、成長を止めなければなりませんし、おそらく続かないでしょう。
「近代」という競いあって「豊かになる」時代は終わるのです。そうではなくて、格差をなくす社会の実現に向けて行動をしなければならないのです。
佐伯氏の言うことは間違えていませんが、その前に大きな前提があると思います。文化的イマジネーションは「倫理・道徳」なくしては生まれないのです。
日本と言う国は、高度成長を歴史上3度経験しています。1600年代の江戸幕府の時代と明治維新後と戦後の時代です。歴史的に参考になるのは江戸幕府の250年でしょう。戦国時代を終わらせて治安回復して高度経済成長がなされて人口が2倍になった。1500万が3000万になった。それを言えば明治維新後も4000万から8000万になったし、戦後は1億2700万人にまでなった。豊かな社会を日本は3度つくりあげる経験を持ち、軍国主義で孤立することで富を失った。だが底力が戦後を支えた。バブルは「欲望」の独走と「資本主義の暴走」の時代でした。
それらを広く眺めながら、精神革命論を論じたいと思うのです。(つづく)
2017-08-12 07:16:39(アメーバーブログ)


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