精神革命論 序
インドに生きる人々の言葉・・私がインドを好きな理由
NHKスペシャル 「大沐浴―3000万人の祈り」2014.6.11放送から、インド人の語った言葉を綴る。
2014年1月24日インド、聖地アラハバードでの大沐浴会にきたインド人の人たち
①ルブワシスをする58歳の婦人の言葉
(カルブワシスとは1ヶ月、アラハバードで一日一度の食事、2回の沐浴で祈りを続けることを言う)
<森に入って神に祈りながら死を迎える。それがヒンズー教途の人生でした。せめて私は、1ヶ月だけでもここで祈りの生活を送りたい。
<マハトマ・ガンディーは言っています。「人間にとって大切なのは文化的な素養だ」と。卒業証書には何の価値もありません。ガンディーはこうも言っています。「まず行動しろ、さもなければ死ね」と。
<精一杯生きてそして死ねばいい。ただそれだけです。
<あなたの心が純粋ならば、ガンジス川まで行かなくても、一杯の器の水で沐浴はできます。
<神に文句を言ってはいけません。幸せは自分の心でつかむものです。
<私は欲しいものは何もない。神様はもうすでに全てをくれているんですから。
一緒にきた12歳の孫娘の言葉
<ここの生活で楽しいのは、おばあちゃんのお世話と神様へのお祈り、そして沐浴です。
・・・・・・・
②老人の言葉
<沐浴していると神様に抱かれているような気分になる。
<人生に意味なんか何もないんです。他人のことを大切にする。他人を困らせない。人が生きるために大切なのはただそれだけです。・・・・
③違う婦人の言葉
<人間は次に何に生まれ変わるかわかりません。他の動物に生まれ変わったら大変です。だからガンジス川で沐浴をして二度と生まれ変わらないように願います。例えば牛ならつながれて労働する、鳥ならば撃たれる、バラならば摘まれる。だから輪廻から逃れたいのです。
④ペナレスの医者の家族
ゴバルさん 42歳 奥さんは薬剤師38歳 長男20歳、次男19歳、3男16歳がいて、長男は神を信じないと公言している。ゴバルさんは貧しい人からは診察料をとらない。日曜日には無料診察を行っている。
⑴ゴバルさん
<個人個人が心の中で神に祈るのだから何千万人があつまっても関係ないんです。科学を学んでいる長男はまだ宗教の意味が分かっていないのです。
今、長男の気持ちは波立ってます。私だって若い頃はそうでした。歳をとるとともに長男にもすこしずつ宗教の意味がわかってくるでしょう。
<科学と宗教は全く違うものです。科学は宗教のかわりはできない。宗教も科学のかわりにならないのです。
<時には命の助けられない患者が来る時があります。そんな時は私も神に祈ります。そして患者にも祈るように言うのです。
⑵長男
<僕は神をしんじません。だから祈りません。病気は人間が自分たちで治すしかないのです。神が病気を治すとは思いません。自分が病気になっても祈りません。
<長男の詩
母 それは愛
母は子のためにすべてを捧げる
世間の荒波に沈まぬように
自らの胎内ではぐくんで
生まれるとサリーで災いを防ぐ
それでもひとはやがて
母の愛を忘れてしまう
母の腕から飛び立ったあと
なぜ人は母との絆を切ってしまうのか
母よ ガンジスの水のように永遠に
母のおかげで地球はまわっている
⑶母
<私は家族全員がいつまでも一緒にいられるように祈りたいと思います。
⑷叔母
<浴会に行くのは、自分の心が迷わないようにするためです。家族の平和と心の平安を願って沐浴します。
⑸叔父
<私が他人の心を傷つけないように神に見守ってもらうために行きます。
⑹父の友人
<若い人に言いたい。
私はいままで商売のことばかり考えて、他人をだましたり、酒を飲んだり、そうやって神を恐れることなく多くの人生の時を過ごしてきました。そして気がついてみると、もう人生はあと僅かになっています。たくさん勉強していい人生を送れば必ず神は見ていてくれます。若者たちよ、どうか私のような過ちを繰り返さないでください。
⑺父の友人が長男に語ったことば
<信仰は私たちの血に流れる一種の社会システムなんだ。インドには多様な文化が混在している。それでもインドは確実に進んでいる。そのインドをひとつにまとめあげているのが神なのさ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私がインド人に対してとても親近感を持つのは、彼らがもつ信仰心にある。
インドへは何度となく出かけていて、多くを見ているわけではないし、広いインドをくまなく歩いているわけでもない。
インド人の感性は、どちらかといえば欧米系に似ていると思う。こちらから接すれば、心を開いてくれる。ただあれだけの国なので、バングラディシュ人やネパール人なども結構いるので注意する。
どの社会でも階層がある。インおの場合カースト制度があることに目を向けられるが、そうではなくて知的レベルでの階層だ。少なくとも高校卒と大学卒、それ以外の人たちは、明確に土着のヒンディーとして暮らしている。カースト外の存在がいて、それらはかなり惨めな暮らしぶりと言える。乞食も多い。それでも私は、中国と比べたらインド人が好きです。私自身ヒンディーがわからない。英語もカタコトだが、英語の通じるインドと、通じないインド、とびきり上等なインドと多層なのだ。
でもその多層性はどこにもある。
私がインド人が好きなのは、その素朴とも言える宗教心においてだ。
自分の経験ではダージリンでであった衣料品のおじさん、マナリーで出会う生地屋のおじさん、友達はイスラムだけど仲良し、ダラムサラの焼き鳥屋のおじさん、デリーで出会ったシークのおじさんなど、みなすなおに神様はいるんだという。
日本人だって神様がいないなどと思っているひとは少ないと思う。ただ宗教が戦争に利用された経緯があるから、戦後宗教に対して引けているのは事実だろう。
今回このNHKスペシャル「大沐浴会」をみて、インドの人々の神観は、日本に近いのではないかとすら感じたし、日本の神道はインドのヒンディー教から来ているのではないかとすら考えさせられた。
インドの宗教は多神教であり、それぞれの神には物語がある。それでも祈る対象は「神」という抽象概念に集約されてしまう。日本も八百万の神がいるけれど、祈りの対象は「太陽」象徴される「抽象的神」であって、アラーやキリストではないし、ブッダでもない。八百万の神も、神になった人物も、全て<KAMI>に包含されてしまう。
インドも同じように、ガンジスで祈る<THE GOD>はシヴァ神とかその他の具象的な神ではなくて、抽象概念の<神>に包含されていて、その存在をすなおに信じるという態度だ。
このドキュメントにおいて、最初の58歳の女性の語った言葉が、インド人の根底にある言葉だと思えた。そして実に深い哲学的な要素に溢れている。
もう一度彼女の言葉を見てみよう。
①<森に入って神に祈りながら死を迎える。それがヒンズー教徒の人生でした。せめて私は、1ヶ月だけでもここで祈りの生活を送りたい。
ヒンディー教の基本の態度のテーマは<死>です。「神に祈りながら死を迎える」ことが理想とされ、それは輪廻から解放されることに繋がるわけだ。
だからヒンズー教の基本は「祈り」なんですよ。<祈ること>に本質があるようだ。だから⑤と⑥の言葉の背景になっているのだ。
②<マハトマ・ガンディーは言っています。「人間にとって大切なのは文化的な素養だ」と。卒業証書には何の価値もありません。ガンディーはこうも言っています。「まず行動しろ、さもなければ死ね」と。
ガンディーの言葉がこのような形でこの女性に染み混んでいるとは予想もしなかった。
<人間にとって大切なのは文化的な素養だ>という。それは宗教心をモツって暮らすということにつながるわけですね。
さらにガンディーはすごいことを行っているんですね。「行動しろ」さもなければ「死」だとね。これはつまり、彼女が発した次の言葉のもとになった考えだと思うのです。
③<精一杯生きてそして死ねばいい。ただそれだけです。
実はこの言葉に引っかかって、テレビから字幕の文字を拾ったのです。
<精一杯>生きることが前提だ。この<生>への謙虚な姿勢、そして精一杯生きることは、ガンディーの<まず行動しろ>という命題に応えているわけで、インド人にとって<精一杯生きる>ことが要求されているのだ。
その生き方が次の言葉に集約されていると思う。
④あなたの心が純粋ならば、ガンジス川まで行かなくても、一杯の器の水で沐浴はできます。
ここで彼女が言っていることは宗教の本質だと思う。<あなたの心が純粋ならば>つまり、汚れのない<心>であれば、器一杯の水で沐浴できると。つまり、ここで言う<沐浴>は「身を清める行為」であり、「禊」(みそぎ)にあたる行為だ。ガンジスは聖なる革とされその川に身を沈める行為は、滝に打たれて身を清めるのと同じ行為なのだ。
このような実践的な<心>を洗浄する作業は、ヒンディー教と日本の神道に共通するものだろう。さらに神に対する態度を彼女は言う。
⑤神に文句を言ってはいけません。幸せは自分の心でつかむものです。
⑥私は欲しいものは何もない。神様はもうすでに全てをくれているんですから。
自分の不幸を他者のせいにしてしまう生き方と、自らの内面において、自らの行為や思いを反省する態度はが、ここから生じてくる。
この⑤と⑥の言葉は、日本の神道にも通じるものであり、プロテスタントがこの世に神の国をもたらして神の栄光を称えるための道具となるという考え方の手前にあるように思う。神に感謝する。
他の婦人が述べた言葉に<自分の心が迷わないように>とか、おじさんが<他人の心を傷つけないように神に身も持ってもらう>という言葉に現れる<神>は、具体的なご利益を期待するものではなくて、内面の<心>に響く<神>なのだ。
このことはセルフコントロール、自分を<正しく>あらしめるための<良心の鏡>としての<神>ととらえることもできるでしょう。
神学的なことは専門家に任せるとして、このようなごく普通の人たちが、神様を身近に感じて生きているインドという国の人々に、私は未来を見るし、経済成長を自慢する価値観と異なる人間的な素養を感じている。
2014-09-11 19:08:51(アメーバーブログ)
インドに生きる人々の言葉・・私がインドを好きな理由
NHKスペシャル 「大沐浴―3000万人の祈り」2014.6.11放送から、インド人の語った言葉を綴る。
2014年1月24日インド、聖地アラハバードでの大沐浴会にきたインド人の人たち
①ルブワシスをする58歳の婦人の言葉
(カルブワシスとは1ヶ月、アラハバードで一日一度の食事、2回の沐浴で祈りを続けることを言う)
<森に入って神に祈りながら死を迎える。それがヒンズー教途の人生でした。せめて私は、1ヶ月だけでもここで祈りの生活を送りたい。
<マハトマ・ガンディーは言っています。「人間にとって大切なのは文化的な素養だ」と。卒業証書には何の価値もありません。ガンディーはこうも言っています。「まず行動しろ、さもなければ死ね」と。
<精一杯生きてそして死ねばいい。ただそれだけです。
<あなたの心が純粋ならば、ガンジス川まで行かなくても、一杯の器の水で沐浴はできます。
<神に文句を言ってはいけません。幸せは自分の心でつかむものです。
<私は欲しいものは何もない。神様はもうすでに全てをくれているんですから。
一緒にきた12歳の孫娘の言葉
<ここの生活で楽しいのは、おばあちゃんのお世話と神様へのお祈り、そして沐浴です。
・・・・・・・
②老人の言葉
<沐浴していると神様に抱かれているような気分になる。
<人生に意味なんか何もないんです。他人のことを大切にする。他人を困らせない。人が生きるために大切なのはただそれだけです。・・・・
③違う婦人の言葉
<人間は次に何に生まれ変わるかわかりません。他の動物に生まれ変わったら大変です。だからガンジス川で沐浴をして二度と生まれ変わらないように願います。例えば牛ならつながれて労働する、鳥ならば撃たれる、バラならば摘まれる。だから輪廻から逃れたいのです。
④ペナレスの医者の家族
ゴバルさん 42歳 奥さんは薬剤師38歳 長男20歳、次男19歳、3男16歳がいて、長男は神を信じないと公言している。ゴバルさんは貧しい人からは診察料をとらない。日曜日には無料診察を行っている。
⑴ゴバルさん
<個人個人が心の中で神に祈るのだから何千万人があつまっても関係ないんです。科学を学んでいる長男はまだ宗教の意味が分かっていないのです。
今、長男の気持ちは波立ってます。私だって若い頃はそうでした。歳をとるとともに長男にもすこしずつ宗教の意味がわかってくるでしょう。
<科学と宗教は全く違うものです。科学は宗教のかわりはできない。宗教も科学のかわりにならないのです。
<時には命の助けられない患者が来る時があります。そんな時は私も神に祈ります。そして患者にも祈るように言うのです。
⑵長男
<僕は神をしんじません。だから祈りません。病気は人間が自分たちで治すしかないのです。神が病気を治すとは思いません。自分が病気になっても祈りません。
<長男の詩
母 それは愛
母は子のためにすべてを捧げる
世間の荒波に沈まぬように
自らの胎内ではぐくんで
生まれるとサリーで災いを防ぐ
それでもひとはやがて
母の愛を忘れてしまう
母の腕から飛び立ったあと
なぜ人は母との絆を切ってしまうのか
母よ ガンジスの水のように永遠に
母のおかげで地球はまわっている
⑶母
<私は家族全員がいつまでも一緒にいられるように祈りたいと思います。
⑷叔母
<浴会に行くのは、自分の心が迷わないようにするためです。家族の平和と心の平安を願って沐浴します。
⑸叔父
<私が他人の心を傷つけないように神に見守ってもらうために行きます。
⑹父の友人
<若い人に言いたい。
私はいままで商売のことばかり考えて、他人をだましたり、酒を飲んだり、そうやって神を恐れることなく多くの人生の時を過ごしてきました。そして気がついてみると、もう人生はあと僅かになっています。たくさん勉強していい人生を送れば必ず神は見ていてくれます。若者たちよ、どうか私のような過ちを繰り返さないでください。
⑺父の友人が長男に語ったことば
<信仰は私たちの血に流れる一種の社会システムなんだ。インドには多様な文化が混在している。それでもインドは確実に進んでいる。そのインドをひとつにまとめあげているのが神なのさ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私がインド人に対してとても親近感を持つのは、彼らがもつ信仰心にある。
インドへは何度となく出かけていて、多くを見ているわけではないし、広いインドをくまなく歩いているわけでもない。
インド人の感性は、どちらかといえば欧米系に似ていると思う。こちらから接すれば、心を開いてくれる。ただあれだけの国なので、バングラディシュ人やネパール人なども結構いるので注意する。
どの社会でも階層がある。インおの場合カースト制度があることに目を向けられるが、そうではなくて知的レベルでの階層だ。少なくとも高校卒と大学卒、それ以外の人たちは、明確に土着のヒンディーとして暮らしている。カースト外の存在がいて、それらはかなり惨めな暮らしぶりと言える。乞食も多い。それでも私は、中国と比べたらインド人が好きです。私自身ヒンディーがわからない。英語もカタコトだが、英語の通じるインドと、通じないインド、とびきり上等なインドと多層なのだ。
でもその多層性はどこにもある。
私がインド人が好きなのは、その素朴とも言える宗教心においてだ。
自分の経験ではダージリンでであった衣料品のおじさん、マナリーで出会う生地屋のおじさん、友達はイスラムだけど仲良し、ダラムサラの焼き鳥屋のおじさん、デリーで出会ったシークのおじさんなど、みなすなおに神様はいるんだという。
日本人だって神様がいないなどと思っているひとは少ないと思う。ただ宗教が戦争に利用された経緯があるから、戦後宗教に対して引けているのは事実だろう。
今回このNHKスペシャル「大沐浴会」をみて、インドの人々の神観は、日本に近いのではないかとすら感じたし、日本の神道はインドのヒンディー教から来ているのではないかとすら考えさせられた。
インドの宗教は多神教であり、それぞれの神には物語がある。それでも祈る対象は「神」という抽象概念に集約されてしまう。日本も八百万の神がいるけれど、祈りの対象は「太陽」象徴される「抽象的神」であって、アラーやキリストではないし、ブッダでもない。八百万の神も、神になった人物も、全て<KAMI>に包含されてしまう。
インドも同じように、ガンジスで祈る<THE GOD>はシヴァ神とかその他の具象的な神ではなくて、抽象概念の<神>に包含されていて、その存在をすなおに信じるという態度だ。
このドキュメントにおいて、最初の58歳の女性の語った言葉が、インド人の根底にある言葉だと思えた。そして実に深い哲学的な要素に溢れている。
もう一度彼女の言葉を見てみよう。
①<森に入って神に祈りながら死を迎える。それがヒンズー教徒の人生でした。せめて私は、1ヶ月だけでもここで祈りの生活を送りたい。
ヒンディー教の基本の態度のテーマは<死>です。「神に祈りながら死を迎える」ことが理想とされ、それは輪廻から解放されることに繋がるわけだ。
だからヒンズー教の基本は「祈り」なんですよ。<祈ること>に本質があるようだ。だから⑤と⑥の言葉の背景になっているのだ。
②<マハトマ・ガンディーは言っています。「人間にとって大切なのは文化的な素養だ」と。卒業証書には何の価値もありません。ガンディーはこうも言っています。「まず行動しろ、さもなければ死ね」と。
ガンディーの言葉がこのような形でこの女性に染み混んでいるとは予想もしなかった。
<人間にとって大切なのは文化的な素養だ>という。それは宗教心をモツって暮らすということにつながるわけですね。
さらにガンディーはすごいことを行っているんですね。「行動しろ」さもなければ「死」だとね。これはつまり、彼女が発した次の言葉のもとになった考えだと思うのです。
③<精一杯生きてそして死ねばいい。ただそれだけです。
実はこの言葉に引っかかって、テレビから字幕の文字を拾ったのです。
<精一杯>生きることが前提だ。この<生>への謙虚な姿勢、そして精一杯生きることは、ガンディーの<まず行動しろ>という命題に応えているわけで、インド人にとって<精一杯生きる>ことが要求されているのだ。
その生き方が次の言葉に集約されていると思う。
④あなたの心が純粋ならば、ガンジス川まで行かなくても、一杯の器の水で沐浴はできます。
ここで彼女が言っていることは宗教の本質だと思う。<あなたの心が純粋ならば>つまり、汚れのない<心>であれば、器一杯の水で沐浴できると。つまり、ここで言う<沐浴>は「身を清める行為」であり、「禊」(みそぎ)にあたる行為だ。ガンジスは聖なる革とされその川に身を沈める行為は、滝に打たれて身を清めるのと同じ行為なのだ。
このような実践的な<心>を洗浄する作業は、ヒンディー教と日本の神道に共通するものだろう。さらに神に対する態度を彼女は言う。
⑤神に文句を言ってはいけません。幸せは自分の心でつかむものです。
⑥私は欲しいものは何もない。神様はもうすでに全てをくれているんですから。
自分の不幸を他者のせいにしてしまう生き方と、自らの内面において、自らの行為や思いを反省する態度はが、ここから生じてくる。
この⑤と⑥の言葉は、日本の神道にも通じるものであり、プロテスタントがこの世に神の国をもたらして神の栄光を称えるための道具となるという考え方の手前にあるように思う。神に感謝する。
他の婦人が述べた言葉に<自分の心が迷わないように>とか、おじさんが<他人の心を傷つけないように神に身も持ってもらう>という言葉に現れる<神>は、具体的なご利益を期待するものではなくて、内面の<心>に響く<神>なのだ。
このことはセルフコントロール、自分を<正しく>あらしめるための<良心の鏡>としての<神>ととらえることもできるでしょう。
神学的なことは専門家に任せるとして、このようなごく普通の人たちが、神様を身近に感じて生きているインドという国の人々に、私は未来を見るし、経済成長を自慢する価値観と異なる人間的な素養を感じている。
2014-09-11 19:08:51(アメーバーブログ)