私の大学時代の恩師、ウェーバー研究者の内田芳明先生の著作は、集めてはいたけれど読むこともなく現在に至っていました。90年代に書かれた「風景論」を手に取って改めて拾い読みしてみて改めて内田先生が何を研究されていたのかがわかってきたように思えた。
実際に内田先生はこの2年前に91歳でなくなられた。
内田 芳明(うちだ よしあき、1923年 - 2014年7月8日)[1]は社会思想研究者。大塚久雄と親しく、マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』の翻訳・研究により1999年にレッシングドイツ連邦政府翻訳賞受賞。元比較法文化学会会長、日本景観学会名誉会員。
恩師の本を拾い読みとは申し訳ない言い方だが、じっくり本を読むことができなくなっているのも事実で、困ったものなのだ。
朝日選書の「風景と発見」(2001年)のあとがきで、諏訪中央病院の院長の鎌田先生が、あいさつで「醫」と言う漢字を分解すると医は、矢で技術を意味し、殳(しゅ)は「役」で「奉仕」を意味し、酉(ゆう)は「酒」で「祈り」を表すという。つまり、古い漢字の「醫」は「技術」と「奉仕」と「祈り」が統一されたものだと院長さんは話されたという。医学の「医」と簡略にしてはいけないのだと言われたそうです。
内田先生はそのお話からヒントを得られて、17世紀にオランダで生まれた「風景画」は、「こころ」と「倫理」と「あたま」の統一的に認識されたものと言う。
上の鎌田先生の言葉を私流に読み解くと、「医」は技術=職業。「役」は奉仕=倫理、「酒」で祈り=「こころ」と読みます。
この三位一体を、ウェーバーの「資本主義の精神」論に当てはめた時に、16、7世紀の文化史的に重要な個体の出現を知ることができるという。
内田先生は、近代の経済文化の発展、つまり独特の近代資本主義の発展について、「制度の側面ではなく、その発展の心的な側面」を『倫理』論文で考察したのだと言います。
その論文でヴューパーが描き出したのが「宗教改革の運動、特にビュウリタニズムの運動の中から生み出されてきた近代的人間類型」であり、その人たちのエートスでした。
その近代的人間類型の本性的な構造的特質は、《「こころ」と「倫理」と「職業」(経済生活)と、この三者が「巨大な内的緊張と葛藤」を保ちながら、「まさに空前絶後の状態において三の特有のバランス」を維持していた>ことにあったとヴューバーが言い、この「心」と「倫理」と「あたま」の三者の統一、ヴューバーの言葉で言えば<「こころ」と「倫理」と「職業」の三者の稀にみる統→)ということが、近代の一時期に1つの文化史的に大規模な出来事として出現していた》と言うのです。
《「こころ」「倫理」「職業」の三位一体が日常の経済生活において一人の人間において実践される》と言うことを内田先生がここで言っているのです。つまり近代的人間類型の「本姓的な構造特質」は、この三位一体を実践する「エートス」を持ち続ける「人」であり、それが歴史の一時期に「集団として」現れたのが、近代資本主義の出現につながったとみるわけです。ただここで言われる《倫理》は《現世内禁欲的倫理》です。
言い換えれば、この三位一体から《倫理》を除いて、《営利》とすれば、大方の世界の国々に通用する三位一体の人々の群れになるだろう。この場合の営利とは、《禁欲的》なものが失せて《世俗的》倫理となったものが現れる。
内田先生が、この近代的人間類型の出現を、永続的なものではなくて、ウェーバーもその一時の現象が消滅していくと述べていると明らかに指摘したことです。
《.しかも、ついでにもう一つ――この点も一般に理解されず、看過されてしまっているので――特につけ加えて述べておきますが、このように、内に空前の緊張をはらんだ近代的人間本性の出現というのは、16世紀の短い時期(すなわち宗教改革時代)における歴史上唯一の一回限りの出来事なのであって、やがて18世紀啓蒙の世紀には変貌し、19世紀以後に消滅してしまった》ということです。
18世紀19世紀には《禁欲的倫理》が消滅して、《世俗的倫理》に変化していく。
それで、この《歴史上「全く新しい緊張」の中での三者の統一の実現とその消滅と、この発展の流れを学問的に追求して認識すること》が《「第一級の文化問題」》になるとヴューバーは語り、内田はその跡を追うのだ。
この意味を私流にいわせてもらえば、資本主義が「文化」になったのは、一時期の一回限りの文化で、それが「近代文化」となり、その文化が「現代文化」に変質しているのが、今だということになるでしょう。
もうすでにそういう美しい時代は過去になってしまった。近代「資本主義の精神」は、<過去>のものとなっている。そして現在さまよっているのはその亡霊だ。
今、私たちが目にしている資本主義的文化と言われそうな形態は、「近代資本主義」とは区別される「現代資本主義」と内田が言う区分するタイプの資本主義だ。
内田が言う《現代資本主義》は「こころ」と「あたま」=職業は同じでも、「倫理」が変質しているとみる。
内田は、「この重要な、そして、興味深い問題」を、『ヴューバー 歴史の意味をめぐる闘争』(岩波書店2000年)という本で扱うのだ。
今ここまで述べてきたことは、「心」「倫理」「頭」の三位一で、近代資本主義文化が、一時期のものとして現れた。ウェーバーはそれが「鉄の檻」になると述べている。
それは内田が『歴史の意味』で取り組んでいる内容となるだろう。
その前に、ウェーバー史学の資本主義会社の中で、共通認識として「近代資本主義」が生まれてきた全世界に共通で、時代的には普遍的に存在する今一つの資本主義を説明します。
『ヴューバー 歴史の意味をめぐる闘争』(岩波書店2000年)から、見ていきます。
正直言いまして私の先生が何を書いていたのか、大学を出て以来、生きることに追われて、この歳になってやっと読んでいるわけで、実に先生には申し訳ないのですが、またこの歳になって、私がブログなどで書いていることの土台を、先生が書かれていることにびっくりしたわけです。ウェーバーを研究されている人にはわかるかもしれませんが、幾分私なりの解説を加えて、読み解きたいと思うのです。
《資本主義》というもう一つの世界史的に普遍的な資本主義の説明。
人間と文化の根本悪の宗教社会学的解釈としての資本主義の概念(p200~208)
ヴェーバーが分析の対象とした古代から20世紀の歴史の中で、貨幣経済があったところ、「人類史と共に古い経済生活」、すなわち「資本主義的営利追求の生活」は、文化のあらゆる方面を支配しつつ自己実現を貫徹していく勢力として存在した。そしてこの勢力は人間の「倫理性」と「心」を滅ぼしていく勢力なのです。
ヴューバーが単に「資本主義」の概念と言うときは、(『倫理』論文でヴェーバーが、宗教倫理(プロテスタンティズムの禁欲的倫理)によって新たに形成された近代初期の合理的経済倫理の刻印を帯びた)「近代」資本主義ではないのです。
「近代」資本主義は、初期近代(十六・十七世紀)の精神革命の基礎の上に人類史上全く新しい「特殊近代的な資本主義」――《倫理と心と職業(経済生活)との三つが、いわば三位一体として空前の緊張関係において統一され結合していた《初期近代資本主義》のことです。
また、別の概念として、現代資本主義(ヴューバーの眼前にある二十世紀初頭の資本主義!)がありますが、それは、三位一体の結合の、倫理的拘束が消えて世俗的倫理になったものを言います。
ヴューバーは、「特殊近代の」などと限定して用いている「近代資本主義」と、それ以外の人類史上あらゆる時代、あらゆる場所で存在していた「資本主義」とを区別しています。*一九〇九年の『古代農業事情』という古代資本主義を究明した論文の中で初めてこの両概念の区別が現われるのですが、その中で後者の概念は、「純経済的」に次のように規定されております。すなわちこの「資本主義」とは、《取引の対象としての所有物が私人によって流通経済的営利の目的のために利用される所ではいたるところで適用される》概念なのです。この資本主義をヴューバーは経済倫理の問題視角から「賎民資本主義」と名づけているのです。
この「賎民資本主義」の問題を正面から取り扱ってこれを解明し、この概念を確定させたのは、ヴューバーの『古代ユダヤ教』です。
*この論文は実に計り知れないほどの重大な問題提起をいくつもしている論文なのです。例えばその一つ、永遠回帰や循環思想 ―― すなわち歴史離れ、歴史抹殺の思想 ―― が原古代的普遍的に、アジア的諸世界はもとより地球上古代から現代までいたるところに広く流布しているのに対して、パレスティナの古代ユダヤ教の形成の過程において、まさに世界史上唯一例外的現象として、「歴史」 の発見が生じ、「歴史」意識と「歴史」思想が深化・展開されたのでした。そして「餞民資本主義」もこの『古代ユダヤ教』 によって鮮明な概念に到達したのだと言えるでしょう。
実は、古代ユダヤ教の世界史的意義についてですが、古代ユダヤ教の中から、一方でこの典型的ユダヤ的「餞民資本主義」が生じた方面と並んで、その正反対に、その中から「合理的日常倫理」が生まれ、これが西洋の古代・中世へと受けつがれていった流れがあり、この流れの中から、かの宗教改革が起こって、禁欲的合理的日常倫理が作り出され、これが、まさに右の賎民資本主義を内面から変革して近代資本主義の倫理的基礎になった、という事情があるのです。ただし古代ユダヤ教の中からこの方面の影響の流れが出てくるためには、パウロの回心と、パウロの宣教がユダヤ教の中核にあったその二重倫理の救済論を破り捨てる、そして他方でユダヤ教の中にあった合理的日常倫理を救い出す、という重大な働きをしたことが必要だったのです。
ヴューバーは『古代ユダヤ教』の中で、ユダヤ民族を「賎民民族」と規定するところから始めます。ユダヤ民族の社会的存在形態が、あの有名な「ゲットー」(ユダヤ人町)にみられるように、環境世界から遮断された客人・寄生存在である、というところに着目して、ヴューバーはこれを「賎民民族」)と名づけたのです。
*この一つの概念の発見とこの問題提起の下で、一方ではモーセ以来の古代ユダヤ民族・ユダヤ教の全発展とユダヤ教成立の歴史が総括されたばかりでなく、他方で、それ以後の二千数百年の世界史におけるユダヤ民族の運命とユダヤ教の文化史的社会学的意義もまた総括されたのです。
その賎民民族の特徴は、共同体(ユダヤ教)の内と外とにおいて道徳を使い分ける道徳の二元主義にあり、そしてこの二重道徳の原理の上に彼らの経済生活における二重倫理、すなわち経済倫理の二元主義が生まれます。
共同体の外はいわば倫理的空洞となります。そこでは営利追求はどんな反倫理的手段によっても反倫理的行為によっても行われるわけです。従ってこのような資本主義経済行為が、餞民資本主義として行われる所においては、必然的に倫理崩壊が伴い進行することになります。
これをわかりやすく言えば、内と外の認識です。日本では江戸時代以前、黒沢映画の「七人の侍」に見る農民の行動は、ある意味、内と外の行動を見せますが、日本では早くからそのような区別は消えています。
以前に中国や後発国に行くと、外国人値段と国民の値段が違うなどと言うのもこの類ですし、定価を持たない「商売」もこの類の小さな例です。
ウェーバーは古代農業事情で、古代資本主義を理論的に分析して、ここで言われる「民族」と「資本主義」を発見したのです。
そして資本主義は倫理的拘束からは全くの自由であり、営利獲得そのものに価値を置くのです。その資本主義としてウェーバーが歴史的に表れているものとして、戦争資本主義、略奪資本主義、冒険資本主義、投機資本主義、植民地資本主義、独占資本主義、政治寄生資本主義、国家事業請負資本主義、高利貸資本主義、そしてヴェーバーじしんすでに使用していた概念ですがバブル資本主義、等々があります。
金融バブルの担い手はまさにこれらの勢力です。グローバリズムの勢力もこれに加担するものです。
近代初頭のビュウリタン的中産階級(初期近代資本主義形成の担い手たち)に対するこの敵対者を、具体的にウェーバーは表現しています。
《商業的膨脹あるいは植民地拡大のあらゆる時代にいつも繰り返し現われる大特許業者や独占業者たちなどの経済的「超人」》。
《イタリア、ドイツ、イギリス、オランダ、そして海外の、大金融業者が代表しているすべてのタイプは、総じて我々がおよそ歴史を知る限りにおいて存在していた一つの類型である》。
《例えばオランダにおける周知の「営利欲に満ちた」商人の類型、「たとえ帆が少々焼け落ちても利益のためなら地獄へでも乗り出すだろう」商人の類型》。
《そして、なおもう一度繰り返し述べることにするが、――我々の時代でと同じように、はるかな古代においても、今までに大資本主義的発展をみたところではどこでも、イタリアの海外諸都市の略奪植民地やフィレンツェの「金貸し」の世界に張りめぐらされた投機においてと同じくローマの属州の搾取において、また、アメリカの鉄道敷設やはるか東方の大君主の策略あるいはロンドン旧市商業地区(the City)の「帝国主義者たち」のいずれにせよ、世界をまたにかけた投機において、あの厚顔無恥の蓄財家の類型が当然自明だが力を発揮したのだった》。
《国家事業の受託、租税賃貸借、戦争資金の調達、植民地とくに植民農場への融資、仲介取引業、高利貸付など、これらは実に幾千年来ほとんど全世界で、資本主義的な財産活用の形態として、たえず繰り返し行われてきた》。(M.Weber「宗教社会学」創文社p308)
資本主義の営利追求の活動が、《幾千年来ほとんど全世界で、資本主義的財産活用の形態として、絶えず繰り返し行われてきた》ものとして、その実態と相貌をヴェーバーは、全著作のいたるところで説明してきたのです。
*この実態と相貌は、今日われわれの眼前で、バブル資本主義とその崩壊というまさに史上空前の大規模な事件の進行として、宇沢弘文も批判追求していますように、その反倫理性・反社会性の本質を露呈させてきているわけです。日本でも一九八〇年代における史上空前のバブル資本主義の発展にさいして、大銀行を中心にほとんどすべての金融機関が、住専(住宅金融専門会社)やその他のノンバンクを利用して、土地・株式を対象とする反社会的・反倫理的な投機的融資に熱狂し、暴力団や悪質不動産業者を使って全国の大都市の地上げを強行して都市と都市市民生活を破壊しました。
そしてさらに八七年の竹下内閣が作った恐るべき悪法「リゾート法」(総合保養地整備法)によってゴルフ場、リゾート開発が狂乱の如くに全国の山林・自然環境を破壊するという事態の進行となったのでした。しかし、このバブル資本主義はたったの十年であっけなく崩壊するのです。住専問題は東京協和、各種信用組合や銀行の経営破綻にはじまる金融制度全般の崩壊現象の中で生じたわけですが、このように日本の全金融機関が大量の不良債権をかかえこんで空前の大規模な倫理・信用破壊現象を起こしたのです。かつて簿記会計はビュウリタンの商人や企業家にとって、彼らの営利活動がいかに良心と信用と道徳的厳正とに基づいて行われたか、ということを神の前に客観的に証明する場所であり手段でした。しかるに現代のバブル資本主義においては、この制度は不正と悪をごまかし隠蔽する手段(粉飾決算⊥にさえなったのです。これら一連のバブル経済の進展と崩壊の現象は、もともと企業と癒着した官僚の歪んだ金融行政(護送船団方式と呼ばれる大銀行のための金融行政)の産物でありました。ところが、その反社会性、反倫理性のバブル資本主義の破綻という結末に対しまして、さらに政府は六十兆円もの公的資金を投入して救済しょうということになりました。つまり、資本主義的国家体制それ自体が、バブル資本主義とその反倫理性・反社会性のすべてを今や公然と擁護し支持し保護する、ということが行われているわけなのです。
内田先生が現代の事象について、このように激しく論じていたとはつゆ知らず、恥ずかしい限りですが、社会的現象を眺める視点は内田先生とまったく同じものであることに、私も驚きます。
旧約の預言者たちも倫理的な違反行為に対して憤りを見せたのであり、現代が何と戦わなければならないかが見てとれる。
<ヴェーバーの具体的論述を読んでみれば、ヴューバーが人類と共に古い「資本主義」を「賎民資本主義」として定義し、その現象形態を、右に記したような戦争・略奪・投機・冒険・国家事業請負・独占・高利貸等の資本主義として表現したもので何を言いたかったのか、何を追求し何を認識したのか、が分かるでしょう。それは資本主義が倫理・道徳の秩序を掘り崩していく活動として、国家権力を含むあらゆる権力やあらゆる機会を利用して、戦争や暴力や略奪や殺我や犯罪や悪事などを直接間接に生み出していく、従って社会的・経済的・精神的に大衆的レベルでの悲惨と苦悩とカオスとを歴史上繰りかえし生み出していく、ということを究明した>のだと内田は言います。
さらに、人類の歴史における資本主義的営利追求とその自己実現・自己貫徹というものが、不可避的に倫理崩壊と悪とカオスを生み出していくと、ウェーバーが社会科学の探究を通して認識させたのだと内田は言います。
資本主義的営利追求の営みのなかには、人間の歴史における「悪の出現の必然性」と「悪の根源性とを認識したことになるのです。古代は神を発見し、この神への信仰の立場から悪に満ちている人類史に対して堕罪-原罪性という問題提起を行なって初めて大規模な人類史の総括を行なったのですが、これに対して神を失い神なき時代に突入してきた現代世界においてヴェーバーは、――ここでも私の洞察、私の読み込みとして語るわけですが ――そのような根源的罪悪性という古代の宗教的問題提起に対して、これをもっぱら人間史に内在する問題として、社会経済的過程における「経済と倫理」の構造的問題として、解答したのだ、と言えるでしょう。・・・・
今は亡き我が師の著作に久しぶりに触れて、自分が先生の抱いた疑問の上を同じようによろよろと歩いていることを知ります。
先生とはなくなる2年前にゼミのメンバートお会いしたのが最後なりました。もしお元気であれば中国の今日と、これからの時代を語っていたかもしれません。私が「古代農業事情」の第一部「古代資本主義」を悪戦苦闘して読んでいた時代が懐かしいです。その時から世界が違って見えてきましたし、マルクス主義をそのまま「信仰」する態度はとれなくなりました。時代は学園紛争・反戦運動の時代でしたが、ウェーバー研究は、私の一生を支えてくれるものになっています。
この歳になって書かれていることが読めるようになったというのも恥ずかしい話です。先生には実に申し訳ないと思っています。
・・・・古代人が宗教の立場で神学的に原罪性の概念において対決し説明した問題を、ヴエーバーは経済社会学の方法視角から世界史に内在する資本主義の歴史的現象形態として解明してみせたのだと言えます。
さて、以上の私の論述によりまして、ヴェーバーが『倫理』論文の結語で語っていたところのネガティヴな方面について、それが人類史の文化発展のネガティヴな総括として何が語られているかについて、つきとめてきたわけです。もちろん、このネガティヴな帰結だけを意味するのでしたら、人間史は一切虚無以外のものではなくなります。そこでもう一つの方面、「結語」の文章の中に「それともOder」でヴューバーが問いかけていたところの、そこに隠されていたポジティヴな方面が問われることになるわけです。そこに「歴史の意味」発見の契機をヴェーバーがどのように追求していたのか、が問題になります。その間題に対してヴューバーは晩年の大研究『世界諸宗教の経済倫理』において解答したのでした。それが「経済と倫理」の世界史における格闘をテーマにしているのは、もとより偶然ではなかったのです。世界諸宗教は、人類史の最初の倫理問題を中心に置いた一大文化総括であり、その後の諸文化発展の流れを方向づけるのに決定的に作用し続けた思想であったわけですから、ヴェーバーが、その間題関心から、世界諸宗教をその後の人類史的射程において全力でこれと対決したのは当然であったと言えるでしょう。・・・
実際に内田先生はこの2年前に91歳でなくなられた。
内田 芳明(うちだ よしあき、1923年 - 2014年7月8日)[1]は社会思想研究者。大塚久雄と親しく、マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』の翻訳・研究により1999年にレッシングドイツ連邦政府翻訳賞受賞。元比較法文化学会会長、日本景観学会名誉会員。
恩師の本を拾い読みとは申し訳ない言い方だが、じっくり本を読むことができなくなっているのも事実で、困ったものなのだ。
朝日選書の「風景と発見」(2001年)のあとがきで、諏訪中央病院の院長の鎌田先生が、あいさつで「醫」と言う漢字を分解すると医は、矢で技術を意味し、殳(しゅ)は「役」で「奉仕」を意味し、酉(ゆう)は「酒」で「祈り」を表すという。つまり、古い漢字の「醫」は「技術」と「奉仕」と「祈り」が統一されたものだと院長さんは話されたという。医学の「医」と簡略にしてはいけないのだと言われたそうです。
内田先生はそのお話からヒントを得られて、17世紀にオランダで生まれた「風景画」は、「こころ」と「倫理」と「あたま」の統一的に認識されたものと言う。
上の鎌田先生の言葉を私流に読み解くと、「医」は技術=職業。「役」は奉仕=倫理、「酒」で祈り=「こころ」と読みます。
この三位一体を、ウェーバーの「資本主義の精神」論に当てはめた時に、16、7世紀の文化史的に重要な個体の出現を知ることができるという。
内田先生は、近代の経済文化の発展、つまり独特の近代資本主義の発展について、「制度の側面ではなく、その発展の心的な側面」を『倫理』論文で考察したのだと言います。
その論文でヴューパーが描き出したのが「宗教改革の運動、特にビュウリタニズムの運動の中から生み出されてきた近代的人間類型」であり、その人たちのエートスでした。
その近代的人間類型の本性的な構造的特質は、《「こころ」と「倫理」と「職業」(経済生活)と、この三者が「巨大な内的緊張と葛藤」を保ちながら、「まさに空前絶後の状態において三の特有のバランス」を維持していた>ことにあったとヴューバーが言い、この「心」と「倫理」と「あたま」の三者の統一、ヴューバーの言葉で言えば<「こころ」と「倫理」と「職業」の三者の稀にみる統→)ということが、近代の一時期に1つの文化史的に大規模な出来事として出現していた》と言うのです。
《「こころ」「倫理」「職業」の三位一体が日常の経済生活において一人の人間において実践される》と言うことを内田先生がここで言っているのです。つまり近代的人間類型の「本姓的な構造特質」は、この三位一体を実践する「エートス」を持ち続ける「人」であり、それが歴史の一時期に「集団として」現れたのが、近代資本主義の出現につながったとみるわけです。ただここで言われる《倫理》は《現世内禁欲的倫理》です。
言い換えれば、この三位一体から《倫理》を除いて、《営利》とすれば、大方の世界の国々に通用する三位一体の人々の群れになるだろう。この場合の営利とは、《禁欲的》なものが失せて《世俗的》倫理となったものが現れる。
内田先生が、この近代的人間類型の出現を、永続的なものではなくて、ウェーバーもその一時の現象が消滅していくと述べていると明らかに指摘したことです。
《.しかも、ついでにもう一つ――この点も一般に理解されず、看過されてしまっているので――特につけ加えて述べておきますが、このように、内に空前の緊張をはらんだ近代的人間本性の出現というのは、16世紀の短い時期(すなわち宗教改革時代)における歴史上唯一の一回限りの出来事なのであって、やがて18世紀啓蒙の世紀には変貌し、19世紀以後に消滅してしまった》ということです。
18世紀19世紀には《禁欲的倫理》が消滅して、《世俗的倫理》に変化していく。
それで、この《歴史上「全く新しい緊張」の中での三者の統一の実現とその消滅と、この発展の流れを学問的に追求して認識すること》が《「第一級の文化問題」》になるとヴューバーは語り、内田はその跡を追うのだ。
この意味を私流にいわせてもらえば、資本主義が「文化」になったのは、一時期の一回限りの文化で、それが「近代文化」となり、その文化が「現代文化」に変質しているのが、今だということになるでしょう。
もうすでにそういう美しい時代は過去になってしまった。近代「資本主義の精神」は、<過去>のものとなっている。そして現在さまよっているのはその亡霊だ。
今、私たちが目にしている資本主義的文化と言われそうな形態は、「近代資本主義」とは区別される「現代資本主義」と内田が言う区分するタイプの資本主義だ。
内田が言う《現代資本主義》は「こころ」と「あたま」=職業は同じでも、「倫理」が変質しているとみる。
内田は、「この重要な、そして、興味深い問題」を、『ヴューバー 歴史の意味をめぐる闘争』(岩波書店2000年)という本で扱うのだ。
今ここまで述べてきたことは、「心」「倫理」「頭」の三位一で、近代資本主義文化が、一時期のものとして現れた。ウェーバーはそれが「鉄の檻」になると述べている。
それは内田が『歴史の意味』で取り組んでいる内容となるだろう。
その前に、ウェーバー史学の資本主義会社の中で、共通認識として「近代資本主義」が生まれてきた全世界に共通で、時代的には普遍的に存在する今一つの資本主義を説明します。
『ヴューバー 歴史の意味をめぐる闘争』(岩波書店2000年)から、見ていきます。
正直言いまして私の先生が何を書いていたのか、大学を出て以来、生きることに追われて、この歳になってやっと読んでいるわけで、実に先生には申し訳ないのですが、またこの歳になって、私がブログなどで書いていることの土台を、先生が書かれていることにびっくりしたわけです。ウェーバーを研究されている人にはわかるかもしれませんが、幾分私なりの解説を加えて、読み解きたいと思うのです。
《資本主義》というもう一つの世界史的に普遍的な資本主義の説明。
人間と文化の根本悪の宗教社会学的解釈としての資本主義の概念(p200~208)
ヴェーバーが分析の対象とした古代から20世紀の歴史の中で、貨幣経済があったところ、「人類史と共に古い経済生活」、すなわち「資本主義的営利追求の生活」は、文化のあらゆる方面を支配しつつ自己実現を貫徹していく勢力として存在した。そしてこの勢力は人間の「倫理性」と「心」を滅ぼしていく勢力なのです。
ヴューバーが単に「資本主義」の概念と言うときは、(『倫理』論文でヴェーバーが、宗教倫理(プロテスタンティズムの禁欲的倫理)によって新たに形成された近代初期の合理的経済倫理の刻印を帯びた)「近代」資本主義ではないのです。
「近代」資本主義は、初期近代(十六・十七世紀)の精神革命の基礎の上に人類史上全く新しい「特殊近代的な資本主義」――《倫理と心と職業(経済生活)との三つが、いわば三位一体として空前の緊張関係において統一され結合していた《初期近代資本主義》のことです。
また、別の概念として、現代資本主義(ヴューバーの眼前にある二十世紀初頭の資本主義!)がありますが、それは、三位一体の結合の、倫理的拘束が消えて世俗的倫理になったものを言います。
ヴューバーは、「特殊近代の」などと限定して用いている「近代資本主義」と、それ以外の人類史上あらゆる時代、あらゆる場所で存在していた「資本主義」とを区別しています。*一九〇九年の『古代農業事情』という古代資本主義を究明した論文の中で初めてこの両概念の区別が現われるのですが、その中で後者の概念は、「純経済的」に次のように規定されております。すなわちこの「資本主義」とは、《取引の対象としての所有物が私人によって流通経済的営利の目的のために利用される所ではいたるところで適用される》概念なのです。この資本主義をヴューバーは経済倫理の問題視角から「賎民資本主義」と名づけているのです。
この「賎民資本主義」の問題を正面から取り扱ってこれを解明し、この概念を確定させたのは、ヴューバーの『古代ユダヤ教』です。
*この論文は実に計り知れないほどの重大な問題提起をいくつもしている論文なのです。例えばその一つ、永遠回帰や循環思想 ―― すなわち歴史離れ、歴史抹殺の思想 ―― が原古代的普遍的に、アジア的諸世界はもとより地球上古代から現代までいたるところに広く流布しているのに対して、パレスティナの古代ユダヤ教の形成の過程において、まさに世界史上唯一例外的現象として、「歴史」 の発見が生じ、「歴史」意識と「歴史」思想が深化・展開されたのでした。そして「餞民資本主義」もこの『古代ユダヤ教』 によって鮮明な概念に到達したのだと言えるでしょう。
実は、古代ユダヤ教の世界史的意義についてですが、古代ユダヤ教の中から、一方でこの典型的ユダヤ的「餞民資本主義」が生じた方面と並んで、その正反対に、その中から「合理的日常倫理」が生まれ、これが西洋の古代・中世へと受けつがれていった流れがあり、この流れの中から、かの宗教改革が起こって、禁欲的合理的日常倫理が作り出され、これが、まさに右の賎民資本主義を内面から変革して近代資本主義の倫理的基礎になった、という事情があるのです。ただし古代ユダヤ教の中からこの方面の影響の流れが出てくるためには、パウロの回心と、パウロの宣教がユダヤ教の中核にあったその二重倫理の救済論を破り捨てる、そして他方でユダヤ教の中にあった合理的日常倫理を救い出す、という重大な働きをしたことが必要だったのです。
ヴューバーは『古代ユダヤ教』の中で、ユダヤ民族を「賎民民族」と規定するところから始めます。ユダヤ民族の社会的存在形態が、あの有名な「ゲットー」(ユダヤ人町)にみられるように、環境世界から遮断された客人・寄生存在である、というところに着目して、ヴューバーはこれを「賎民民族」)と名づけたのです。
*この一つの概念の発見とこの問題提起の下で、一方ではモーセ以来の古代ユダヤ民族・ユダヤ教の全発展とユダヤ教成立の歴史が総括されたばかりでなく、他方で、それ以後の二千数百年の世界史におけるユダヤ民族の運命とユダヤ教の文化史的社会学的意義もまた総括されたのです。
その賎民民族の特徴は、共同体(ユダヤ教)の内と外とにおいて道徳を使い分ける道徳の二元主義にあり、そしてこの二重道徳の原理の上に彼らの経済生活における二重倫理、すなわち経済倫理の二元主義が生まれます。
共同体の外はいわば倫理的空洞となります。そこでは営利追求はどんな反倫理的手段によっても反倫理的行為によっても行われるわけです。従ってこのような資本主義経済行為が、餞民資本主義として行われる所においては、必然的に倫理崩壊が伴い進行することになります。
これをわかりやすく言えば、内と外の認識です。日本では江戸時代以前、黒沢映画の「七人の侍」に見る農民の行動は、ある意味、内と外の行動を見せますが、日本では早くからそのような区別は消えています。
以前に中国や後発国に行くと、外国人値段と国民の値段が違うなどと言うのもこの類ですし、定価を持たない「商売」もこの類の小さな例です。
ウェーバーは古代農業事情で、古代資本主義を理論的に分析して、ここで言われる「民族」と「資本主義」を発見したのです。
そして資本主義は倫理的拘束からは全くの自由であり、営利獲得そのものに価値を置くのです。その資本主義としてウェーバーが歴史的に表れているものとして、戦争資本主義、略奪資本主義、冒険資本主義、投機資本主義、植民地資本主義、独占資本主義、政治寄生資本主義、国家事業請負資本主義、高利貸資本主義、そしてヴェーバーじしんすでに使用していた概念ですがバブル資本主義、等々があります。
金融バブルの担い手はまさにこれらの勢力です。グローバリズムの勢力もこれに加担するものです。
近代初頭のビュウリタン的中産階級(初期近代資本主義形成の担い手たち)に対するこの敵対者を、具体的にウェーバーは表現しています。
《商業的膨脹あるいは植民地拡大のあらゆる時代にいつも繰り返し現われる大特許業者や独占業者たちなどの経済的「超人」》。
《イタリア、ドイツ、イギリス、オランダ、そして海外の、大金融業者が代表しているすべてのタイプは、総じて我々がおよそ歴史を知る限りにおいて存在していた一つの類型である》。
《例えばオランダにおける周知の「営利欲に満ちた」商人の類型、「たとえ帆が少々焼け落ちても利益のためなら地獄へでも乗り出すだろう」商人の類型》。
《そして、なおもう一度繰り返し述べることにするが、――我々の時代でと同じように、はるかな古代においても、今までに大資本主義的発展をみたところではどこでも、イタリアの海外諸都市の略奪植民地やフィレンツェの「金貸し」の世界に張りめぐらされた投機においてと同じくローマの属州の搾取において、また、アメリカの鉄道敷設やはるか東方の大君主の策略あるいはロンドン旧市商業地区(the City)の「帝国主義者たち」のいずれにせよ、世界をまたにかけた投機において、あの厚顔無恥の蓄財家の類型が当然自明だが力を発揮したのだった》。
《国家事業の受託、租税賃貸借、戦争資金の調達、植民地とくに植民農場への融資、仲介取引業、高利貸付など、これらは実に幾千年来ほとんど全世界で、資本主義的な財産活用の形態として、たえず繰り返し行われてきた》。(M.Weber「宗教社会学」創文社p308)
資本主義の営利追求の活動が、《幾千年来ほとんど全世界で、資本主義的財産活用の形態として、絶えず繰り返し行われてきた》ものとして、その実態と相貌をヴェーバーは、全著作のいたるところで説明してきたのです。
*この実態と相貌は、今日われわれの眼前で、バブル資本主義とその崩壊というまさに史上空前の大規模な事件の進行として、宇沢弘文も批判追求していますように、その反倫理性・反社会性の本質を露呈させてきているわけです。日本でも一九八〇年代における史上空前のバブル資本主義の発展にさいして、大銀行を中心にほとんどすべての金融機関が、住専(住宅金融専門会社)やその他のノンバンクを利用して、土地・株式を対象とする反社会的・反倫理的な投機的融資に熱狂し、暴力団や悪質不動産業者を使って全国の大都市の地上げを強行して都市と都市市民生活を破壊しました。
そしてさらに八七年の竹下内閣が作った恐るべき悪法「リゾート法」(総合保養地整備法)によってゴルフ場、リゾート開発が狂乱の如くに全国の山林・自然環境を破壊するという事態の進行となったのでした。しかし、このバブル資本主義はたったの十年であっけなく崩壊するのです。住専問題は東京協和、各種信用組合や銀行の経営破綻にはじまる金融制度全般の崩壊現象の中で生じたわけですが、このように日本の全金融機関が大量の不良債権をかかえこんで空前の大規模な倫理・信用破壊現象を起こしたのです。かつて簿記会計はビュウリタンの商人や企業家にとって、彼らの営利活動がいかに良心と信用と道徳的厳正とに基づいて行われたか、ということを神の前に客観的に証明する場所であり手段でした。しかるに現代のバブル資本主義においては、この制度は不正と悪をごまかし隠蔽する手段(粉飾決算⊥にさえなったのです。これら一連のバブル経済の進展と崩壊の現象は、もともと企業と癒着した官僚の歪んだ金融行政(護送船団方式と呼ばれる大銀行のための金融行政)の産物でありました。ところが、その反社会性、反倫理性のバブル資本主義の破綻という結末に対しまして、さらに政府は六十兆円もの公的資金を投入して救済しょうということになりました。つまり、資本主義的国家体制それ自体が、バブル資本主義とその反倫理性・反社会性のすべてを今や公然と擁護し支持し保護する、ということが行われているわけなのです。
内田先生が現代の事象について、このように激しく論じていたとはつゆ知らず、恥ずかしい限りですが、社会的現象を眺める視点は内田先生とまったく同じものであることに、私も驚きます。
旧約の預言者たちも倫理的な違反行為に対して憤りを見せたのであり、現代が何と戦わなければならないかが見てとれる。
<ヴェーバーの具体的論述を読んでみれば、ヴューバーが人類と共に古い「資本主義」を「賎民資本主義」として定義し、その現象形態を、右に記したような戦争・略奪・投機・冒険・国家事業請負・独占・高利貸等の資本主義として表現したもので何を言いたかったのか、何を追求し何を認識したのか、が分かるでしょう。それは資本主義が倫理・道徳の秩序を掘り崩していく活動として、国家権力を含むあらゆる権力やあらゆる機会を利用して、戦争や暴力や略奪や殺我や犯罪や悪事などを直接間接に生み出していく、従って社会的・経済的・精神的に大衆的レベルでの悲惨と苦悩とカオスとを歴史上繰りかえし生み出していく、ということを究明した>のだと内田は言います。
さらに、人類の歴史における資本主義的営利追求とその自己実現・自己貫徹というものが、不可避的に倫理崩壊と悪とカオスを生み出していくと、ウェーバーが社会科学の探究を通して認識させたのだと内田は言います。
資本主義的営利追求の営みのなかには、人間の歴史における「悪の出現の必然性」と「悪の根源性とを認識したことになるのです。古代は神を発見し、この神への信仰の立場から悪に満ちている人類史に対して堕罪-原罪性という問題提起を行なって初めて大規模な人類史の総括を行なったのですが、これに対して神を失い神なき時代に突入してきた現代世界においてヴェーバーは、――ここでも私の洞察、私の読み込みとして語るわけですが ――そのような根源的罪悪性という古代の宗教的問題提起に対して、これをもっぱら人間史に内在する問題として、社会経済的過程における「経済と倫理」の構造的問題として、解答したのだ、と言えるでしょう。・・・・
今は亡き我が師の著作に久しぶりに触れて、自分が先生の抱いた疑問の上を同じようによろよろと歩いていることを知ります。
先生とはなくなる2年前にゼミのメンバートお会いしたのが最後なりました。もしお元気であれば中国の今日と、これからの時代を語っていたかもしれません。私が「古代農業事情」の第一部「古代資本主義」を悪戦苦闘して読んでいた時代が懐かしいです。その時から世界が違って見えてきましたし、マルクス主義をそのまま「信仰」する態度はとれなくなりました。時代は学園紛争・反戦運動の時代でしたが、ウェーバー研究は、私の一生を支えてくれるものになっています。
この歳になって書かれていることが読めるようになったというのも恥ずかしい話です。先生には実に申し訳ないと思っています。
・・・・古代人が宗教の立場で神学的に原罪性の概念において対決し説明した問題を、ヴエーバーは経済社会学の方法視角から世界史に内在する資本主義の歴史的現象形態として解明してみせたのだと言えます。
さて、以上の私の論述によりまして、ヴェーバーが『倫理』論文の結語で語っていたところのネガティヴな方面について、それが人類史の文化発展のネガティヴな総括として何が語られているかについて、つきとめてきたわけです。もちろん、このネガティヴな帰結だけを意味するのでしたら、人間史は一切虚無以外のものではなくなります。そこでもう一つの方面、「結語」の文章の中に「それともOder」でヴューバーが問いかけていたところの、そこに隠されていたポジティヴな方面が問われることになるわけです。そこに「歴史の意味」発見の契機をヴェーバーがどのように追求していたのか、が問題になります。その間題に対してヴューバーは晩年の大研究『世界諸宗教の経済倫理』において解答したのでした。それが「経済と倫理」の世界史における格闘をテーマにしているのは、もとより偶然ではなかったのです。世界諸宗教は、人類史の最初の倫理問題を中心に置いた一大文化総括であり、その後の諸文化発展の流れを方向づけるのに決定的に作用し続けた思想であったわけですから、ヴェーバーが、その間題関心から、世界諸宗教をその後の人類史的射程において全力でこれと対決したのは当然であったと言えるでしょう。・・・