阿児の松原            (   fu~   )

    阿児の松原さよしぐれ
     降るとも通う人は濡らさじ

2011年10月05日 | 日記
遠く母の思い出は何時も忙しく働きまわっている姿でした。
ある秋の日、突然の大雨に畔に干した稲の束をしまいに行くのについて行った時、
後にくっつく私に濡れるから大きな松の木陰に居る様にと叱られ根元で丸まって、
雷と稲光におびえながら「おとしよ~おとしよ~」と泣いていました。おとしよ~ ←こわいよ~
(今では雷様の方が恐れるくらいたくましく育って・・・)


そんな頃でした大雨の日余程疲れていたのか横になってる母を見つけ、そ~っと添い寝をしました、
温かい母の背中、あのぬくもりは今も私の背中に残っています。
そして私が目覚めた時には母は納屋で藁仕事をしていました・・・

やっとのんびりできる時が来たのに病に倒れわずかばかりの闘病で帰らぬ人となりました。

母が亡くなる前の日娘から
「ばぁちゃんは自分のせいやとお母さんの事が心配で向こうへ行かれないんやに、安心させてやって」と言われ
夕方入院先へ連れて行ってもらい
「大丈夫よ、私の事は心配しないで」と母の身体をさすった時、子供の頃の添い寝の温かさが蘇りました。
次の日の宵まだ明けぬ闇の中母は旅立って行きました。

母が思いつめた自分のせい・・・
おとしよ~と泣いていた田んぼの片隅に湧水の出る所がありました、
近くで野良仕事をする人達は昼時にはそこの水をすくって沸かしてお茶にして飲んでいました。
母は忙しがって生水のまま飲んでいたそうです。
私が病に伏している時に親戚縁者に先祖さんの代々この様な人はいなかったか尋ねていたそうです、
その時に「忙しいとあそこの田んぼの生水を飲んだからあの子がああなった」と言われたそうです。
それ以来母はその責任を一切身に背負い20年・・・
手術室に入った私に「出来る事なら代わってやりたい」と涙していたという。
どんなに辛いことだったでしょう、母となり婆となり可愛い孫に恵まれて何不自由なく毎日を送れる有り難さ、
でも子供達が孫達が体調を崩していると聞くだけでとても心痛むのに
私の母は・・・枕元に来て顔を望み込み「ど~やつらいんか」と・・・「大丈夫よ」と言って安心させてやりたかったのに・・・
それに免疫異常、ストレスと原因の解明も進み、新薬も使えるようになり今の私は元気。
母に一目見て欲しかった・・・
手術室へ入って行く私の後で「代われるものなら・・・」と涙していたと聞きました。
五体満足で産んでもらったのに傷だらけの身体にしてしまい詫びる日々です。
今は「一病息災」今日と言う日を大事に生きて行こうと思います。
そして思い当たる諸々はぶつけてみたけれど聞く耳有りませんでした。


・・・・・いわぬをも~いうよりまさるとしりながら・・・








助産師の資格を取った頃の母です。




母の嫁入り箪笥
4男4女(末っ子さんは幼くして・・・)
3姉妹が同じ箪笥を用意してもらったそうです、
堅くてとても使いずらいのですが母の形見としてもらいました。



秋の雨の日、母が恋しくなりました。