とくに弾きたいので絃を変えたのではない。
ケースに入れっぱなしは放りっぱなしと同じ。
すこし外の空気に触れさせるために絃を買ったのかもしれない。
低音のEから一本ずつ外しては新しくしていく。
6絃すべて済ませて粗い調弦をして、音階を数回弾いてみた。
新しいナイロン弦はどんどん伸びるので、糸巻をクルックルッと巻きながら。
以上は昨夜の作業で今夜も手に取って調弦する・・・
音階を少し弾いて、曲をと・・・雨だれ、途中で指が動かなくなった、忘れていますね。ワーグナーによる変奏曲も少しは思い出したが、全く駄目だ。
もう弾けないという諦めは数年前にしている。
ギターに対して済まないという気はいつも持っていた。
いつか音を鳴らしてやるからとケースをときどき見ていた。
調弦していると絃が新しいのでいい音がするが、それは単音であって曲の流れの響きの連続ではない。
でも頑張って弾いていたことが浮かんできたことは嬉しい。
楽譜をひっぱり出してあの曲をなどとは思わない。
楽譜には先生の書き込みと、それを忠実に弾いていた自分がいる。
だから諦められる。
馴染むという表現ではなく、体の一部として音の響きを感じながら弾き込んだものは身から抜け落ちないと思う。
調弦しながらそんなことを思っていた。
昨日の秋月の入り口に木蓮が残っていた、樹下には花びらがいっぱい落ちていた。
歳時記第三版を開いてみたら・・・
木蓮や母の声音の若さ憂し 草間時彦
もくれんやははのこわねのわかさうし
数日してギターはケースに納めるかもしれないが、ときどきは音を楽しむのもいいかと思う。