父と戦争の話しをしていた二十歳ぐらいのときですが・・・
どうにも敵とはいえ引き金が引けないと言うと父は・・・驚いていた。
否、実は私の心は最後まで戦うだろうと覚悟はあるのだが。
照準が合ってあとはトリガー(引き金)を軽く引くだけで今まで動いていた、戦っていた兵が若者が倒れるのです。
ウクライナへ侵攻した露軍兵士に、私が二十歳代に感じたものを持っている兵がかなりいるのではないかと思う。
考えてみるがいい、同じファッションで同じロックミュージックに酔いしれているのだから。自らに引き金を引くようなものだと感じている兵は多いと信じる。
そして親もいる恋人もいるだろう相手を撃てるだろうか。
以前にも書いたが父は満州でかなり広い範囲で独立守備隊の中隊長だった。
かなり豪放磊落な隊長であったと平成の御世に、戦地での思い出かな?をまとめた冊子が出されてことがあり下士官であった人たちなどからかなり慕われ、ヤマモト隊長の下では死んでもいいとかのコメントが載っていたが・・・
守備隊の陣地は満州の小さな街というか村というか、近い場所に構えていたそうで。
父は酒が好きというか吞まずにいられないのが正解だろう。独りで乗馬して村の酒場というか飯店に行っていたそうで、部下は「隊長、どうか独りで行くのは止めてください」と止めたが、酒料理をたのしんだそうだ。
私が、武器は持って行ったか?と言いますと、腰のピストルだけだったそうだ。
スパイなんかも居るらしいので殺されることもあったかもしれんと話してました。
飯店の中国人は、人そのものは悪くないとか話してました。
終戦になって郭沫若の兄さんがその地方にいたのだそうで、父に中国に残って国づくりというか共産軍に加わってくれと請われたが、部下を日本へ返す責任があると断ったとか・・・
終戦後に進駐軍が闊歩するのがたまらなく悔しかったのでしょう、博多の中州の橋から米兵を投げ飛ばしたとか・・・坊主頭(50代まで)の父をからかったようです。私まだ幼かったので良く知りませんでしたが(笑)
抽斗にピストルの実弾がありました見てます!・・・私が数歳のころに警察に届けたようです。
満州の話しの中に、敵とかなり近い距離で対峙していた、たぶん1キロ以内ぐらい。
それで突撃の命令を出すのですが・・・これには出せんかったと言ってましたね。
わが軍の兵にいくらかの犠牲が出るのが分かっているので出せんかったそうです。
一晩、角瓶(サントリー)をほぼ1本空けて決心して突撃命令をとなるのですが、相手の塹壕はもぬけの空、夜のうちに引き上げたそうで。相手も怖いからなと笑って話してましたが・・・はてさて父もかなりしびれたんでは?
ウクライナの兵士同志はどうなんでしょうか?
露大統領の心はどうなんでしょう。かなり揺れているでしょうか。
互いに静かに退くことが一番いいのですが。無条件で侵攻の前に戻ると・・・
その為の条件は・・・難しいのか。