最初の錬成は、エド6歳。ウィンリィへのプレゼント。
だけど錬成過程の気味悪さにウィンリィが泣き出してしまい、軽く両家の家族会議へ発展しちゃってます。
あ、このころ既にエドよりアルの方が身長が高くなってる(エドのコンプレックスは結構年期が入ってたわけですねー)。
そしてエドが10歳で、おかあさんが死んじゃうんだよね。
どうやら持病を隠していた様子ですが、どうも自分の死期を悟っていたふうな態度でした。
母の墓前で「かあさんを、元に戻そう」と静かな決意をアルに聞かせるエド。
ためらいがちなアルと比べ、エドが父への反抗心も手伝って禁忌へと突き進む様が、先を考えるとなんとも、暗澹とさせられます…。
つくづく突進体質なんですよねえ、エドって。
「理論は間違っていなかった、間違ってたのは俺たちだ…」
取り返しがつかない痛みへの悔恨。ここでも、朴さんの声が実に真に迫ってます…。
オートメイルを装着するために神経をつなぐ手術の痛みを耐えながら、
「こんな痛み、あいつに比べたら…」と歯をくいしばるエド、扉のそばでうずくまるアルが、二人とも痛々しい。
そしてリハビリ後、アルと久しぶりに組み手をしながら話す場面。
エドの足音、ちゃんと生身の右と機械の左では変えてあるんです。こだわりだなあ!
ここでのアルは、兄がまだ母を生き返らせようとしているのではないかと案じていて、つまりは、時ここに至るまで、そこまで立ち入った会話ができてなかったのだとわかります。
エドが母の錬成をあきらめるまでに、もうちょっと葛藤はないのかな、とも思いますが、腕と脚を失うという激痛と、弟の身体を失ったという悔恨と、弟の全てを失っていたかもしれないのだという恐怖を知って、死の不可逆性を認める気になった、と捉えるべきなんでしょう。
それはエドの「おまえまで失いたくない」という言葉でうかがえます。
そしてアルも、「二度と離れ離れになりたくない」と、兄について旅立つわけですね。
兄は、弟の体を元に戻す、と言い、弟は、兄の腕と脚を取り戻す、と言い、互いを大切に思いながらも微妙なベクトルの違いを既に内包した兄弟は、亡き母の思い出のつまった家に火を放って、セントラルへ旅立ちます。
ここは音楽が胸が痛くなるほど美しいのですが、ことさらに表情を消したエドと、表情というもののないアルは、何を考えていたんでしょうか…。
一見した時には、右腕と左脚をもぎとられた幼い体、血まみれの包帯、軍の狗になってでも「やらなきゃならないこと」へ向かっていくんだと決意するエドにばかり目を奪われていましたが、アルの描写がここでは随分抑えられているんだと、二度目に見たときには思いました。
表情の見えない鎧の奥で、アルが何を考えているのか、感じているのか、わからないんです。
いきなり自分の意識が、自分の体以外の器へ移されてしまったのにもかかわらず、それをどう思っているのか、描かれない。
これってどういうことなんだろう、と思いました。
もしかしてエドワードの視点なのかな。
エドワードには、アルの表情や気持ちが見えない、だから視聴者にもあえて示されない、ということ。
考えてみると、アニメも原作も、鎧になって以降のアルは、幼いころの回想シーンを除けば、まったく表情は描かれないわけで。
これって結構ストイックな演出だと思うんですよ。
最近のロボットアニメなら、パイロットの表情がカットインする形で描写されることが多いし、特撮でも「変身後」のヒーローに生身の表情をオーバーラップさせた演出もあります。
でも、アルはそういう描かれ方は一切ない。
描かれないことによる効果(そしてそこに乗る釘宮ボイス)、その効果が最も鮮やかにわかるのが23話「鋼のこころ」でした……。
だけど錬成過程の気味悪さにウィンリィが泣き出してしまい、軽く両家の家族会議へ発展しちゃってます。
あ、このころ既にエドよりアルの方が身長が高くなってる(エドのコンプレックスは結構年期が入ってたわけですねー)。
そしてエドが10歳で、おかあさんが死んじゃうんだよね。
どうやら持病を隠していた様子ですが、どうも自分の死期を悟っていたふうな態度でした。
母の墓前で「かあさんを、元に戻そう」と静かな決意をアルに聞かせるエド。
ためらいがちなアルと比べ、エドが父への反抗心も手伝って禁忌へと突き進む様が、先を考えるとなんとも、暗澹とさせられます…。
つくづく突進体質なんですよねえ、エドって。
「理論は間違っていなかった、間違ってたのは俺たちだ…」
取り返しがつかない痛みへの悔恨。ここでも、朴さんの声が実に真に迫ってます…。
オートメイルを装着するために神経をつなぐ手術の痛みを耐えながら、
「こんな痛み、あいつに比べたら…」と歯をくいしばるエド、扉のそばでうずくまるアルが、二人とも痛々しい。
そしてリハビリ後、アルと久しぶりに組み手をしながら話す場面。
エドの足音、ちゃんと生身の右と機械の左では変えてあるんです。こだわりだなあ!
ここでのアルは、兄がまだ母を生き返らせようとしているのではないかと案じていて、つまりは、時ここに至るまで、そこまで立ち入った会話ができてなかったのだとわかります。
エドが母の錬成をあきらめるまでに、もうちょっと葛藤はないのかな、とも思いますが、腕と脚を失うという激痛と、弟の身体を失ったという悔恨と、弟の全てを失っていたかもしれないのだという恐怖を知って、死の不可逆性を認める気になった、と捉えるべきなんでしょう。
それはエドの「おまえまで失いたくない」という言葉でうかがえます。
そしてアルも、「二度と離れ離れになりたくない」と、兄について旅立つわけですね。
兄は、弟の体を元に戻す、と言い、弟は、兄の腕と脚を取り戻す、と言い、互いを大切に思いながらも微妙なベクトルの違いを既に内包した兄弟は、亡き母の思い出のつまった家に火を放って、セントラルへ旅立ちます。
ここは音楽が胸が痛くなるほど美しいのですが、ことさらに表情を消したエドと、表情というもののないアルは、何を考えていたんでしょうか…。
一見した時には、右腕と左脚をもぎとられた幼い体、血まみれの包帯、軍の狗になってでも「やらなきゃならないこと」へ向かっていくんだと決意するエドにばかり目を奪われていましたが、アルの描写がここでは随分抑えられているんだと、二度目に見たときには思いました。
表情の見えない鎧の奥で、アルが何を考えているのか、感じているのか、わからないんです。
いきなり自分の意識が、自分の体以外の器へ移されてしまったのにもかかわらず、それをどう思っているのか、描かれない。
これってどういうことなんだろう、と思いました。
もしかしてエドワードの視点なのかな。
エドワードには、アルの表情や気持ちが見えない、だから視聴者にもあえて示されない、ということ。
考えてみると、アニメも原作も、鎧になって以降のアルは、幼いころの回想シーンを除けば、まったく表情は描かれないわけで。
これって結構ストイックな演出だと思うんですよ。
最近のロボットアニメなら、パイロットの表情がカットインする形で描写されることが多いし、特撮でも「変身後」のヒーローに生身の表情をオーバーラップさせた演出もあります。
でも、アルはそういう描かれ方は一切ない。
描かれないことによる効果(そしてそこに乗る釘宮ボイス)、その効果が最も鮮やかにわかるのが23話「鋼のこころ」でした……。
>鎧になって以降のアルは、幼いころの回想シーンを除けば、まったく表情は描かれないわけで
そう!その通りなんですよ!!
私、これに気付いた時、目からウロコがボロボロ落ちた気がしました。
劇場版で生身アルも普通になってしまいましたが、去年10月のアニメ最終回まで、生身アルって「存在しなかった」。
それは原作で描かれないから。
アルはロボットでなく、人間。しかも2番目の主要人物。
なのに、漫画は、どんな感情も鎧だけで描く。
色も動きも効果音も無いのに。
これってすごい挑戦。
鎧だけど感情豊かなアル。あの甲冑の横に生身の少年の顔がオーバーラップして描いてあったら、ずっと分かりやすい。優しい笑顔も、深い悲しみも。
でも、しない。
仰角、伏角、握る拳、背景、陰のつけ方、台詞。そういうのだけで、えがく。
少年漫画なのにだよ?!
原作でアルの生身の姿が出るのは、キャラ紹介話としての1,2話、ロックベル家の写真、5-6巻の過去話、真理の記憶のシーン、だけ。
いっぱいケンカしたよな、オレ達。の場面とかでも、いくらでも子供時代のアルを出せる。けど、そうしない。
アルの生身の姿を出さない、特に10歳以降は決して出さない。
それは、物語りの主題が「身体を取り戻す」だから。
エドはタイトルロール「鋼の錬金術師」だ。
ではどうしてエドは鋼の錬金術師であるのか。
身体を、取り戻すため。
だから、アルは鎧。それは、物語の象徴。
だと、私は思うのですよ!あああすみません。熱く語ってしまいました・・・;
連続コメント失礼致します。
あの、鋼に関するリンクなどを集めた記事を書きましたので、トラックバックさせていただきました。
春花様や、春花様の記事を訪れる方に、少しでも楽しんでいただけましたらと・・・。ずうずうしい物言いですが。
どうぞ宜しくお願い致します。
私も目からウロコが落ちました。
家を焼くシーンでのエドの無表情とアルの鎧の顔。
悲しい場面で、逆に悲しい描写を抑えることによって更に悲しみが増すっていうお手本のような演出です。
このアニメ、細かい演出が本当に上手いですね。
私がこの回を見て涙が流れたのが、エドの「たぶん母さんの魂と等価交換できるものなんてこの世にはないんだ。」と「お前まで失いたくない。」という台詞なんです。
春花さんのおっしゃるとおりアルは兄がまだ母親の錬成を諦めていないんじゃないかと思っていますが、エドはアルの身体を失った時点ですでに母親の錬成は諦めていたんじゃないでしょうか。
母さんの魂は自分の足とアルの身体という大きな代償を持ってしても錬成することは出来なかったけど、アルの魂は錬成できた。
母さんは死んでしまっているけど、アルはまだ生きている。
だから今度こそそれを失いたくないというエドの思いが切なくてとても悲しかった。
で、またこのシーンの画面が明るくて美しいんですよね~。
二人の台詞に重なって写るリゼンブールの青い空とか山とか・・・。
1話からずっと暗い画面が続いてきた中、ここで一気に画面が明るくなる。
これも「逆効果」の演出でしょうか(笑)。
そしてバックに流れる「ブラーチャ」。
私、この曲を聴いて、サウンド・トラックというものがいかに効果的で大切かと言うことを思い知りました。
鋼はサウンド・トラックもとても贅沢に作られていますよね。
特に「ブラーチャ」は名曲です。
この曲を聴いて、ロシア語ってこんなに美しい響きを持っているんだと言うことに気が付きました。
>歌猫さま
トラックバックからブログを拝見して参りました。
すごい情報の数々。
とても嬉しいです。
情報ありがとうございます!
私自身は、映画のDVDを見るその日まで、まだしばらくネタバレ自粛を続ける所存なので(笑)、楽しみを先にとっておきたいと思います。
いや、しかし、誘惑に負けたい~~
>SHOKOさま
アニメで、しかも51話の長丁場で、指先まで神経の行き届いた演出ってのがどんなに大変だったか、想像するにあまりあるわけですが、徹頭徹尾、手を抜かない仕事で、視聴者としては最高の悦楽です。
リゼンブールの自然と、燃える家と、美しい旋律、あれはほんとに名場面ですよね~~
語らないことによる演出、というと、私はクウガ19話の「喪失」を思い出します。五代くんの死を伝える電話を、パトカーの中で受ける一条さんの長回しのカット。無音の演出、あれもいい演出でした。
「言ひおほせて何かある」、つまり言い尽くさずに表現を抑制するからこその余情、日本文化の粋だと思います~
ちなみに19話は「霊石」、20話が「笑顔」でしたね。
このキノコ三部作、大好きなのです。
電話を受ける一条さん側は、パトカーのサイレンがけたたましくなり、人が右往左往していて一条さんの声は一切聞こえない。
逆に五代くんの死を伝える椿医師の側は、電話で話す本人の話し声以外は物音一つしない静寂。
この「対比」の演出は見事でしたよね。
そう言えば、クウガも放送当時は日曜の朝に放送する番組なのに暴力シーンや流血シーンが多すぎる・・みたいな批判がありましたよね。
でも、人を傷つければ血も流れるし、痛みも伴うんだということをちゃんと逃げずに描いていた作品でした。
ああ、クウガが無性に見たくなってきた(笑)。
クウガでは五代くんが、痛そうなのに、痛いところを見せようとしないのが、萌えでした。一条さんもアバラ折れてても止まらないし。20話でうれしそうに笑っている一条さん、、、週末にちょっとDVD見よっと!
わかりました!劇場版DVD発売は1月25日。春花様の感想を楽しみにしています!
・・・でも「電太!」は、劇場版ネタバレも無いですしお勧めです~。(しつこくて御免なさい; もし、よろしければ)
SHOKO様、コメントありがとうございます!
そう、すごい情報量なんですよ。メジャー作品のパワーだわ、って思います。
歌猫さま、私のような末端の者にまでお気遣いをいただいて
本当にありがとうございます。
そのお気持ちと、鋼への愛情と、実際にこんな風に紹介してくださる歌猫さまのお手間が、本当に嬉しいです
時間のある時にじっくり(うふふ。)ネット三昧させていただきます。
歌猫さまのブログにも遊びに行かせてください。
こんな人様のご好意を受けられるのも、春花さんのおかげです
>扉のそばでうずくまるアル
同意です、このシーン大好きなんですよ。
鎧に反響するアルの声、音楽、左右で違う足音、エドの体を染める血の色、家が燃える炎のゆらめき・・・
アニメだから出来ること!の美しさですよね。
「電太!」ですね?
ぜひ訪問してみます。「しつこい」なんてことは微塵も思ってませんから、今後ともぜひよろしく
花散里さん、ご一緒に楽しみましょ~
まことに歌猫さんのような先達からの親切はありがたいことです。