はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(47)

2019-11-17 19:44:10 | 【桜の下にて、面影を】
☆☆☆

白桜は、巨大な満月から一直線に光を浴びて、静っと立っていた。
まるで桐詠と六条を待ちわびていたかのように、あっけないほどそこに立っていた。
金峯神社から尾根をたどり、ほどなく行った二股を右に折れ、杉木立ちを進んだ、苔清水が遠慮がちに湧き出たところに、それは待っていた。
夢に見たのと同じ、こじんまりとした空間。
足元には、浮き上がった根がいくつも這っている。
静かな白桜とのコントラストを効かせたような場所だった。
そのことに違和感はなかった。
別の違和感。
その正体に、桐詠はすぐに気が付いた。
桜を前にしていたはずの庵が見当たらないのだ。
それは、単に夢の中にあったはずのものがないという違和感ではなく、あるべきものがないといった方が近かった。
――ここには、庵があった。間違いなく。
初めて来た場所にもかかわらず、決定的に強烈な違和感だった。
その様子に六条は気づいているようだ。
しかし何かを口にする気配はない。
――きっと、これにも理由があるのだろう。彼女が口にすることのできない理由が。
「その時を待ちましょう」
これ以上のことは、もう聞く必要のないことだと思わせてくれる一言を呟き、彼女は月を仰いだ。
桐詠は彼女の横顔に小さく頷くと、すべてを受け入れたように、形のない庵を背に桜の並びに立った。
月の明かり、一つとして同じ光のない星、老いた白桜。
桜、楓、杉、木立。
幻のような輪郭の六条。
律令の時代から、流罪が重刑とされていたことが理解できる。
夜になるたび、人々は想像を絶する孤独に襲われたことだろう。
にわかに広大に打ち仰がれる漆黒の空には、銀河に掬われた、星という星の光が森然として冴え散らばり、一つだけ比すことのできない月が、白光を冷たく注ぐ世界。
冬、暗夜の深山には動物の鳴き声さえなくなり、さながら天井のない宇宙に唯一人と錯覚したことだろう。
持て余すほどの懊悩と対峙するため、俗世を捨て自然に身を投じ、天涯の孤独に向き合うことを選んだ出家者の気持ちが、今なら分かるような気がする。
そんな非日常の空間は、混線していた桐詠の頭を深く煎じ詰めていきながら、どんどん純化させていく。
六条の使命でもあった、この旅の終着点。
四年前の予告から、たどり着くことが約束されていた終着駅。
桐詠は、漏らさず丁寧にすべてを整理し始めた。
始まりは、数李の喪失からだった。
今日と同じ日が、明日も明後日もあたりまえのようにやってくることに、何の疑いも持っていなかった。
生涯の友であり、その背中を追い続けた憧れの存在。
彼のいる一日が、何の不安もなくやってくるものと信じていた。
しかし、昨日という日を断絶したように突然喪った。
森羅万象、すべてが無常ということを思い知らされた。
数李の喪失が連れてきた、太刀打ちのできない鉛のような無常観だった。
それに押し出されるように、揺るぎない説得力を持った餞別として届いてきた、『君の進むべき道を進みなさい』というメッセージが緒となり、あの日、無常を憂う一首が詠まれた。

  年月を いかで我が身に 送りけむ
  昨日見し人 今日はなき世に

そして、無常とそぞろなる心を併存させ、そのまま西へと向かった。
二十年ぶりに訪れた法金剛院で、あの時と変わらぬ姿の桜が迎えてくれた。
生涯初めて流れ出た一首は、滝のような枝垂れ桜の下だった。
家族全員が静寂を打つ。
自らの内側は妙に冷静で、深いところに棲む存在が、突然姿を現した感覚。
しかし数李の導きを欺くかのごとく、あの時よりも視界が近づいた枝垂れを再び仰ぎ見ても、万事万端には程遠い感覚が残った。
そうして、未だ不首尾なままの一首が詠まれた。

  尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし
  花と散りにし 君が行へを

二十年前、法金剛院での出来事の余波冷めやらぬ間に生まれた二首目は、
夕方の松の上だった。
その老松に腰掛ける少年が、もう一人の存在を、確然と内部に感じた瞬間。
静かに出番を待つかのように内在している老成した自分。
そして二日前、時間と空間を超えて出会った双子の松。
原風景のDNA伝承か、昔日の既視感か、渋川の松に呼び起こされた一首が詠まれた。

  昔見し 松は老木に なりにけり
  わが年経たる 程も知られて

腰折れ松が引き合わせてくれたような、もう一つの出会い。
無類の相性を、三十一文字の応酬で確かめ合うようにして、新たな一首が詠まれた。

  この世にて また逢ふまじき 悲しさに
  勧めし人ぞ 心乱れし

届けられない想いに苦しんでいた六条。
最も届けたい想いが、最も口にしてはいけない言葉。
「声に出したら、この世で廃る」
そして、四年後の選択を予告した高校三年生。
それが事実だったことを証明するかのように、四年の時を経て突然現れた。
誰かを導くことを使命とした人生。
それを果たすべく桜の前へと誘う。
相似枝垂れの下、最後の暗示のように法金剛院での対を思わせる返歌が詠まれた。

  吹く風の 行へしらする ものならば
  花と散るにも おくれざらまし

いざ超常月に照らされんとするこの時、老木とは思えぬほどに狂い咲く桜の脇に立つ。
瞬きをしない望月。満々と花を着付けた桜。
「声に出さねば、永遠での結び」
ぽとりと落ちて来そうな洋洋とした明月が、凛とした背中を一条で貫き、自ら呟いた最後の手鉤が呪文となる。
いきおい結晶の声が、桐詠の口から流れ出た。
重々しい蓋を軽々と弾き飛ばし、最奥から封印の解かれた歌が世に流れ出た。
月、桜、そして声。
揃うべきもので満たされた後ろ姿が、形のないはずの庵から見守られる。
声にされなかった歌が生まれ、届けられなかった耳に、いま響く。

(つづく)

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