☆☆☆
今まさに満月は頂点に差し掛かる。
月光と影だけの世界。
風の音さえ聞こえない真空のような静寂。
見事にすべてが静止した世界に映る。
桐詠は、そのあまりの深閑(しんかん)から、いつしか自らを確認するように白桜を撫でていた。
すべてを見て来たかのような老成した幹を愛でることで、これから起ころうとしている邂逅のすべてを受け入れる構えとしていた。
老桜を挟んで立つ六条は、あたかも月に呼び戻されんとする姫のように見えた。
「刻限です」
静かな一言で幕は下ろされ、それきり二人の間に言葉は絶した。
途端、桜の下に積み重なる花びらが一斉に舞い上がり、あの時のように彼の全身は、繭の中へと飲み込まれた。
一気に白光が世界を包む。
二つの満月が寸分違わず合わさったかのごとく、光は無限小の粒子の束となり拡がった。
あまりの光源に、桐詠の目は眩んだ。
「――義清(のりきよ)」
視界が少しずつ輪郭を取り戻す。
そこが、見慣れた垣根に覆われた屋敷の前ということが分かる。
佐藤憲康(のりやす)の屋敷だ。
超常月の世界、景色は一変していた。
桐詠は、そろりそろり四辺(あたり)を見回す。
「義清。三度、会うことができました」
今方、六条のいたそこに、平然として佇む佐藤憲康は、高校で数学を教える人気教師の面様だった。
「憲康。どうして、何の前触れもなく、一人逝かれてしまったのです。鳥羽殿へ共に参ろうと約束をして別れた翌朝から、私はあなたに何も言えずのままでした」
方向のない真っ白の世界。
輪郭の露わになった屋敷の前で、伝えることができずにいた後悔が口を吐いた。
「あなたの霊に、無常という呪縛を残してしまいました」
憲康はずっと秘めていた言葉で贖罪を表した。
「そうです。あの突然すぎる別れによって、私は無常を知ったのです」
「誠に辛い思いをさせました。すべて分かっています。さらばといって勝手な言い草ですが、無二の友の喪失という契機は、その後の義清の人生には必要なことでした。義清としての人生においても、西行としての人生においても、必要なことでした。何よりこの世界で成就するための宿命でした。そして、漸う(ようよう)完結するのです」
「本当に、永かった。されど、今こうしてあなたに会えたことで、ずっと言いたかったことが伝えられます。そして、あなたへの思いが報われます。この時のために生まれてきた歌だったのだと感得しました。これまで聞かせることのできなかった、あなたに詠ませてもらえた歌」
年月を いかで我が身に 送りけむ
昨日見し人 今日はなき世に
憲康は目を閉じて、初めて耳にするその歌を聞いた。
二人の間を永遠にするために生まれてきた歌を、静かな感慨とともに聞いた。
そうして微笑みを含んだ温顔を向けると、悲哀の色を帯びない背中のまま、屋敷の中へと消えていった。
(つづく)
今まさに満月は頂点に差し掛かる。
月光と影だけの世界。
風の音さえ聞こえない真空のような静寂。
見事にすべてが静止した世界に映る。
桐詠は、そのあまりの深閑(しんかん)から、いつしか自らを確認するように白桜を撫でていた。
すべてを見て来たかのような老成した幹を愛でることで、これから起ころうとしている邂逅のすべてを受け入れる構えとしていた。
老桜を挟んで立つ六条は、あたかも月に呼び戻されんとする姫のように見えた。
「刻限です」
静かな一言で幕は下ろされ、それきり二人の間に言葉は絶した。
途端、桜の下に積み重なる花びらが一斉に舞い上がり、あの時のように彼の全身は、繭の中へと飲み込まれた。
一気に白光が世界を包む。
二つの満月が寸分違わず合わさったかのごとく、光は無限小の粒子の束となり拡がった。
あまりの光源に、桐詠の目は眩んだ。
「――義清(のりきよ)」
視界が少しずつ輪郭を取り戻す。
そこが、見慣れた垣根に覆われた屋敷の前ということが分かる。
佐藤憲康(のりやす)の屋敷だ。
超常月の世界、景色は一変していた。
桐詠は、そろりそろり四辺(あたり)を見回す。
「義清。三度、会うことができました」
今方、六条のいたそこに、平然として佇む佐藤憲康は、高校で数学を教える人気教師の面様だった。
「憲康。どうして、何の前触れもなく、一人逝かれてしまったのです。鳥羽殿へ共に参ろうと約束をして別れた翌朝から、私はあなたに何も言えずのままでした」
方向のない真っ白の世界。
輪郭の露わになった屋敷の前で、伝えることができずにいた後悔が口を吐いた。
「あなたの霊に、無常という呪縛を残してしまいました」
憲康はずっと秘めていた言葉で贖罪を表した。
「そうです。あの突然すぎる別れによって、私は無常を知ったのです」
「誠に辛い思いをさせました。すべて分かっています。さらばといって勝手な言い草ですが、無二の友の喪失という契機は、その後の義清の人生には必要なことでした。義清としての人生においても、西行としての人生においても、必要なことでした。何よりこの世界で成就するための宿命でした。そして、漸う(ようよう)完結するのです」
「本当に、永かった。されど、今こうしてあなたに会えたことで、ずっと言いたかったことが伝えられます。そして、あなたへの思いが報われます。この時のために生まれてきた歌だったのだと感得しました。これまで聞かせることのできなかった、あなたに詠ませてもらえた歌」
年月を いかで我が身に 送りけむ
昨日見し人 今日はなき世に
憲康は目を閉じて、初めて耳にするその歌を聞いた。
二人の間を永遠にするために生まれてきた歌を、静かな感慨とともに聞いた。
そうして微笑みを含んだ温顔を向けると、悲哀の色を帯びない背中のまま、屋敷の中へと消えていった。
(つづく)
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