☆☆☆
六条との再会、そして彼女の残していった言葉。
空想とも実感とも思える、不思議な風景が連れて来た、宵の一首。
吉野山 花吹雪具して 峯こゆる
嵐は雲と よそに見ゆらん
二日後。
約束の日の行き先は、無条件だった。
京都駅から二時間で到着した吉野駅。
前日に、ちょっとした山登りにも対応できる服と靴を用意した。
土地柄を考慮して、身支度だけは相応にせねばならないと思ったのだ。
地図も購入した。
初めての吉野ということで、ガイド本の類いも買っておくかどうか迷ったが、やめた。
観光に行くわけではないことを、すぐに思い出したからだ。
この旅は、直観だ。
余計な情報は迷いを生じさせるだけだと思ったのだ。
桐詠はこれまで、吉野の桜を素通りしてきたわけではない。
桜の生態というような生物学的な視点はまるでなかったが、日本人としてのDNAとでも言おうか、単純に吉野桜を、一度は目にしておきたいと思ってはいたのだ。
これまでは仕事柄という言い訳だけで、桜の時期に旅行をするなど叶わないことと、
勝手に蓋を閉めていたのである。
自分の時間を享受できるような年齢になってからの、つまり老後の楽しみにでも取っておこうといった、先送り案件の一つにしておいたのである。
そういうことなので、極めて大雑把だが、実際にはそのような名前の山は存在しない、吉野山と総称される一帯には、山裾から下千本、中千本、上千本、奥千本という順に、桜の群落が点在することくらいは知っていた。
その他にも知っていることは、いくつかあった。
桜と言えば吉野、というくらい桜の名所となった山一面を敷き詰める桜が、実は飛鳥奈良の昔から、延々人の手によって育まれてきたものという信じがたい事実。
そのような気の遠くなる作業が、苦も無く続けられてきた理由。
修験道の開祖役小角(えんのおずぬ)が、吉野の金峰山(きんぷさん)で、『金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)』を感得し、それを具現化するために、桜の木から本尊をこしらえたという伝承があること。
それ以来、桜が御神木となったことで、吉野を訪れた人たちはその苗木を植えていったこと。
その程度の知識は持ち合わせていた。
それは、日本人の特性が、そのまま体現されたような景色と言えるかもしれない。
八百万の神が祀られていると知れば、何の疑いも持たず、いつでも賽銭を供える日本人ならではの文化が、そのまま形になったような場所である。
そんな経緯で成り立ってきたと言われる吉野山の玄関口、その名もずばり吉野駅は、
絵に描いたように想像通りの駅だった。
すでにその天井に、葉桜の混じり始めている裾野の群落、下千本の中にその駅はあった。
一路中千本を目指して歩き出すと、すぐに『七曲り』という九十九折の坂が右手に現れた。
上るにつれて急坂になっていく道をくねくねと歩き、二十分ほどで尾根道へと出ると、前方にひときわ目を引く金峯山寺(きんぷせんじ)の仁王門と、その後ろに控える巨大な木造建築の蔵王堂(ざおおうどう)が、威圧するように聳(そびえ)え立っていた。
正統な吉野巡りであれば、旅の王道を尊重して、ここからスタートしたいところだが、今回の目的は物見遊山ではない。
立ち寄りたい気持ちを抑え、そのまま役小角所縁、修験道(しゅげんどう)の聖地を通り過ぎて尾根をたどる。
すると今度は義経所縁(ゆかり)、金峯山寺塔頭(きんぷせんじたっちゅう)の吉水院(きっすいいん)が、中千本の群落の中、左手に見えてくる。
その先に広がる上千本もさることながら、現在地を埋め尽くす、中千本の桜の絢爛に見惚れて歩を進める。
義経の次は、静御前(しずかごぜん)所縁の勝手神社(かつてじんじゃ)に差し掛かる。
これでもかこれでもかと、息をも吐かせぬ所縁の地オンパレードである。
目白押しである。
大盤振る舞いである。
その先で道は左右に別れる。
どちらを選んでも上千本へと通じるらしいが、桐詠は深く考えずに左のルートを選ぶことにした。
すでに下千本から中千本に差し掛かる頃には、すっかり目指す場所が、上千本より先にあるような予感がしていた。
とはいえ、勾配が牙を剥き始める気配と、普段の運動不足の影響が出始めたことで、ここらで一息入れておこうと、一軒の宿に立ち寄ることにした。
そこは尾根道から見る限りでは、単なる二階建てのように思えたのだが、近づいてみると、『吉野建て』といわれる独特の構造をしていることが分かった。
道の反対側に当たる向きは、崖にせり出すような地形になっていて、その立地を利用することで、入り口よりも低い階が存在していたのだ。
実際には四階建てだが、入り口が三階にあるという具合のつくりだったのだ。
すべての部屋からは崖下が見下ろせるようになっており、中千本から上千本までの桜を俯瞰できる。
やはり、壮観である。
均整のとれていない桜錦である。
グラデーションの規則性などは無縁の配色。
まだら模様の風情が自然を思わせるのに、それが人の手による気まぐれのもたらした産物だというから、おかしな感じがする。
結果論の自然、とでもいうのだろうか。
そして、ふと不安にもなる。
これから自分がしようとしていることを考えて、ふと我に帰ると不安にもなる。
藁山の中から針を探すかのごとく、至難の業のように思えてくるのである。
果たしてこれだけの桜の中から、一本の老桜を探し当てることができるのだろうかと。
その一方で、根拠のない自信も共存している。
論理では否定されるが、感情は肯定している。
妙な共存関係だ。
いや、根拠がないわけでもない。
これまでの直観の選択にしっかり結びついていた結果と、六条の言葉だ。
そうだ、六条だ。
桐詠の勘が狂っていなければ、この吉野山のどこかに、彼女もいるということなのだ。
そして彼女に会うことさえできれば、すべてがつながるはずなのだ。
一休みしたことで、なんとか体力は回復した。
それ以上に、頭と心の整理ができたことが収穫だったと思える景観だった。
未だ目的地も特定できておらず、今後さらに険しさも増すことになる尾根を前にしている、という前途多難な状況にもかかわらず、それは桐詠の足元を、遠足時の子供ように軽やかなものに変えた。
立ち寄り宿を後にして、岐路を左にとったあたりから尾根道は一変した。
容赦のない山間を思わせる道となったのだ。
急斜面な上、足場も悪くなる。
やはり、底にはっきりとした凹凸を従えた靴を履いてきたことは大正解だった。
靴のおかげということもないが、山登り初心者の桐詠は、歩くことには難儀したものの、まったく気重にはならなかった。
むしろ、初めて訪れた場所にもかかわらず、目を瞑ってでも歩けそうな気がするほどに、軽やかな心持ちだった。
どこに腰掛け岩があって、どこで清水が湧いていて、どの辺りに背もたれにもってこいの木が生えているかということさえ分かりそうなくらい、そこかしこの地形を把握できているように思えた。
その感覚は、一歩また一歩と足を進めるごとに、確固たるものに変わっていくような気さえした。
『吉野展望台』
それは、突如現れた。
誰の目にも止まる、くっきりと書かれた看板だった。
休憩を挟んですっかり息を吹き返していた桐詠は、そのまま誘い込まれるように、展望台へと続く小道を上って行った。
そこで待ち構えていた視界は、遠近法の失われた世界で見た、雲海に覆われた眺望とは異なるが、桜の衣を纏った地形は、まるでそのものだった。
さっきまでは遥か遠くにあったはずの上千本群落が、今では眼下となり、あまりに圧倒的な威風だった金峯山寺蔵王堂は、その先端で浮き上がっているように見える。
記憶と記録を思い返せば、細々と異なるところもある。
矢倉のようなプライベートスペースだったものは、現実世界では、自己主張の強い看板に見合うだけのパブリックスペースだったし、矢倉の横にあった枝垂れ桜も見当たらない。
されど大味に捉えれば、あの雲海のシーンがこの場所であることは、間違いなさそうである。
そして、気付けばこれはあまりにも有名なカットである。
これまでの人生で、何度か吉野桜の代名詞的写真として目にしたことがある一景である。
おそらく、日本人共通の吉野山原風景と言って良いだろう。
そんな代表地の中の代表地で、口々に吉野を賞賛する人々。
日本人としての誇りを実感する人々。
苦労してたどり着いたことに充実を覚える人々。
そのすべてを共有している人々。
争いなどとは、まったく無縁の穏やかな空間だ。
価値ということで言えば、文句なく一見の価値がある風景である。
しかし唯一人、別の感慨でこの風景を目にしていた。
その価値に浸ることよりも、今は先を急ぎたい気持ちが、六条を探し出したい気持ちが、桐詠の心をはやらせるのだ。
「吉野が舞台ということは、間違いない」
そう呟いて、六条へと続く道のりのチェックポイントを一つ攻略した桐詠は、奥千本へ向けて展望台を後にした。
(つづく)
六条との再会、そして彼女の残していった言葉。
空想とも実感とも思える、不思議な風景が連れて来た、宵の一首。
吉野山 花吹雪具して 峯こゆる
嵐は雲と よそに見ゆらん
二日後。
約束の日の行き先は、無条件だった。
京都駅から二時間で到着した吉野駅。
前日に、ちょっとした山登りにも対応できる服と靴を用意した。
土地柄を考慮して、身支度だけは相応にせねばならないと思ったのだ。
地図も購入した。
初めての吉野ということで、ガイド本の類いも買っておくかどうか迷ったが、やめた。
観光に行くわけではないことを、すぐに思い出したからだ。
この旅は、直観だ。
余計な情報は迷いを生じさせるだけだと思ったのだ。
桐詠はこれまで、吉野の桜を素通りしてきたわけではない。
桜の生態というような生物学的な視点はまるでなかったが、日本人としてのDNAとでも言おうか、単純に吉野桜を、一度は目にしておきたいと思ってはいたのだ。
これまでは仕事柄という言い訳だけで、桜の時期に旅行をするなど叶わないことと、
勝手に蓋を閉めていたのである。
自分の時間を享受できるような年齢になってからの、つまり老後の楽しみにでも取っておこうといった、先送り案件の一つにしておいたのである。
そういうことなので、極めて大雑把だが、実際にはそのような名前の山は存在しない、吉野山と総称される一帯には、山裾から下千本、中千本、上千本、奥千本という順に、桜の群落が点在することくらいは知っていた。
その他にも知っていることは、いくつかあった。
桜と言えば吉野、というくらい桜の名所となった山一面を敷き詰める桜が、実は飛鳥奈良の昔から、延々人の手によって育まれてきたものという信じがたい事実。
そのような気の遠くなる作業が、苦も無く続けられてきた理由。
修験道の開祖役小角(えんのおずぬ)が、吉野の金峰山(きんぷさん)で、『金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)』を感得し、それを具現化するために、桜の木から本尊をこしらえたという伝承があること。
それ以来、桜が御神木となったことで、吉野を訪れた人たちはその苗木を植えていったこと。
その程度の知識は持ち合わせていた。
それは、日本人の特性が、そのまま体現されたような景色と言えるかもしれない。
八百万の神が祀られていると知れば、何の疑いも持たず、いつでも賽銭を供える日本人ならではの文化が、そのまま形になったような場所である。
そんな経緯で成り立ってきたと言われる吉野山の玄関口、その名もずばり吉野駅は、
絵に描いたように想像通りの駅だった。
すでにその天井に、葉桜の混じり始めている裾野の群落、下千本の中にその駅はあった。
一路中千本を目指して歩き出すと、すぐに『七曲り』という九十九折の坂が右手に現れた。
上るにつれて急坂になっていく道をくねくねと歩き、二十分ほどで尾根道へと出ると、前方にひときわ目を引く金峯山寺(きんぷせんじ)の仁王門と、その後ろに控える巨大な木造建築の蔵王堂(ざおおうどう)が、威圧するように聳(そびえ)え立っていた。
正統な吉野巡りであれば、旅の王道を尊重して、ここからスタートしたいところだが、今回の目的は物見遊山ではない。
立ち寄りたい気持ちを抑え、そのまま役小角所縁、修験道(しゅげんどう)の聖地を通り過ぎて尾根をたどる。
すると今度は義経所縁(ゆかり)、金峯山寺塔頭(きんぷせんじたっちゅう)の吉水院(きっすいいん)が、中千本の群落の中、左手に見えてくる。
その先に広がる上千本もさることながら、現在地を埋め尽くす、中千本の桜の絢爛に見惚れて歩を進める。
義経の次は、静御前(しずかごぜん)所縁の勝手神社(かつてじんじゃ)に差し掛かる。
これでもかこれでもかと、息をも吐かせぬ所縁の地オンパレードである。
目白押しである。
大盤振る舞いである。
その先で道は左右に別れる。
どちらを選んでも上千本へと通じるらしいが、桐詠は深く考えずに左のルートを選ぶことにした。
すでに下千本から中千本に差し掛かる頃には、すっかり目指す場所が、上千本より先にあるような予感がしていた。
とはいえ、勾配が牙を剥き始める気配と、普段の運動不足の影響が出始めたことで、ここらで一息入れておこうと、一軒の宿に立ち寄ることにした。
そこは尾根道から見る限りでは、単なる二階建てのように思えたのだが、近づいてみると、『吉野建て』といわれる独特の構造をしていることが分かった。
道の反対側に当たる向きは、崖にせり出すような地形になっていて、その立地を利用することで、入り口よりも低い階が存在していたのだ。
実際には四階建てだが、入り口が三階にあるという具合のつくりだったのだ。
すべての部屋からは崖下が見下ろせるようになっており、中千本から上千本までの桜を俯瞰できる。
やはり、壮観である。
均整のとれていない桜錦である。
グラデーションの規則性などは無縁の配色。
まだら模様の風情が自然を思わせるのに、それが人の手による気まぐれのもたらした産物だというから、おかしな感じがする。
結果論の自然、とでもいうのだろうか。
そして、ふと不安にもなる。
これから自分がしようとしていることを考えて、ふと我に帰ると不安にもなる。
藁山の中から針を探すかのごとく、至難の業のように思えてくるのである。
果たしてこれだけの桜の中から、一本の老桜を探し当てることができるのだろうかと。
その一方で、根拠のない自信も共存している。
論理では否定されるが、感情は肯定している。
妙な共存関係だ。
いや、根拠がないわけでもない。
これまでの直観の選択にしっかり結びついていた結果と、六条の言葉だ。
そうだ、六条だ。
桐詠の勘が狂っていなければ、この吉野山のどこかに、彼女もいるということなのだ。
そして彼女に会うことさえできれば、すべてがつながるはずなのだ。
一休みしたことで、なんとか体力は回復した。
それ以上に、頭と心の整理ができたことが収穫だったと思える景観だった。
未だ目的地も特定できておらず、今後さらに険しさも増すことになる尾根を前にしている、という前途多難な状況にもかかわらず、それは桐詠の足元を、遠足時の子供ように軽やかなものに変えた。
立ち寄り宿を後にして、岐路を左にとったあたりから尾根道は一変した。
容赦のない山間を思わせる道となったのだ。
急斜面な上、足場も悪くなる。
やはり、底にはっきりとした凹凸を従えた靴を履いてきたことは大正解だった。
靴のおかげということもないが、山登り初心者の桐詠は、歩くことには難儀したものの、まったく気重にはならなかった。
むしろ、初めて訪れた場所にもかかわらず、目を瞑ってでも歩けそうな気がするほどに、軽やかな心持ちだった。
どこに腰掛け岩があって、どこで清水が湧いていて、どの辺りに背もたれにもってこいの木が生えているかということさえ分かりそうなくらい、そこかしこの地形を把握できているように思えた。
その感覚は、一歩また一歩と足を進めるごとに、確固たるものに変わっていくような気さえした。
『吉野展望台』
それは、突如現れた。
誰の目にも止まる、くっきりと書かれた看板だった。
休憩を挟んですっかり息を吹き返していた桐詠は、そのまま誘い込まれるように、展望台へと続く小道を上って行った。
そこで待ち構えていた視界は、遠近法の失われた世界で見た、雲海に覆われた眺望とは異なるが、桜の衣を纏った地形は、まるでそのものだった。
さっきまでは遥か遠くにあったはずの上千本群落が、今では眼下となり、あまりに圧倒的な威風だった金峯山寺蔵王堂は、その先端で浮き上がっているように見える。
記憶と記録を思い返せば、細々と異なるところもある。
矢倉のようなプライベートスペースだったものは、現実世界では、自己主張の強い看板に見合うだけのパブリックスペースだったし、矢倉の横にあった枝垂れ桜も見当たらない。
されど大味に捉えれば、あの雲海のシーンがこの場所であることは、間違いなさそうである。
そして、気付けばこれはあまりにも有名なカットである。
これまでの人生で、何度か吉野桜の代名詞的写真として目にしたことがある一景である。
おそらく、日本人共通の吉野山原風景と言って良いだろう。
そんな代表地の中の代表地で、口々に吉野を賞賛する人々。
日本人としての誇りを実感する人々。
苦労してたどり着いたことに充実を覚える人々。
そのすべてを共有している人々。
争いなどとは、まったく無縁の穏やかな空間だ。
価値ということで言えば、文句なく一見の価値がある風景である。
しかし唯一人、別の感慨でこの風景を目にしていた。
その価値に浸ることよりも、今は先を急ぎたい気持ちが、六条を探し出したい気持ちが、桐詠の心をはやらせるのだ。
「吉野が舞台ということは、間違いない」
そう呟いて、六条へと続く道のりのチェックポイントを一つ攻略した桐詠は、奥千本へ向けて展望台を後にした。
(つづく)
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