それでは、初めてお会いした時の心象風景の一致の話から始めてみます。
あの時、二つの曲、それぞれからイメージできる風景について、こう会話しました。
あなたから話し始めています。
「私は、この『Loving Life』という曲を聴くと、夏を連想するのです。とても青空が鮮やかな夏が想像できるのです」
「わたくしの心象風景では、夏の折り返しになるずっと前の、まさにこれから夏本番に向かっていく、夏に一歩足を踏み入れた段階にあたります」
「私も、そういうイメージです」
「その時間は、まだ太陽は最高点に到達する前、朝という時間帯が終わったあとのように思えます。そして、このサビの部分の幅のあるバイオリンの音色と、ここから転調してその広い音のまま響き上がってラストに向かうところで、果てしなく続いていく青空へ突き抜けていく、一直線の白がイメージできるのです」
このようなやりとりでした。
次の『エトピリカ』という曲の時は、あなたが一曲目の心象風景で感じた感覚の一致を、より確かなものにしたいと思いながら、こう口にしました。
「この曲、とても有名な曲なのですけれど、私の一番のお気に入りなのです」
「わたくしには、夏の風景です」
「でも、『Loving Life』とは、少し違う風景です」
「午前中という印象は同じなのですが、もっともっと早い時間です。そして、もう少し早い段階の夏です」
「初夏で。朝で。ものすごく世界が拓ける感じがします。それは宇宙の拡がりという感じではなくて、目の前に広がる草原、その向こうに空が広がっていて、壮大という言葉が浮かびます。そして、扇状に広がっていく世界は安心するほど広大で、
まだまだこれから始まる、まだ自分は大丈夫だと思えるのです」
「世界が拓ける。それは宇宙の拡がりではなく、地上に立っている自分が前提となっていて、身の丈の高さという日常の視点から見える目の前には、ただただ草原が凪いでいて、その上に半球状の、青よりも水色に近い空。夏の始まりの頃の、爽やかで、でもほんの少し水気を含んだ空気に包まれた朝。すべてがそこから生まれてくるような世界。壮大に一斉に、でもとても静かにゆっくりと、何かが始まるという光景です」
なにも、記憶力自慢をしているわけではありません。
これだけでは、ただその時の事実の回顧でしかありません。
これくらいのことであれば、小型マイクでも仕掛けておけばできることです。
わたくしがお伝えしたいことは、ここでのやりとりの再現などではなく、この時の驚異的な感覚の一致が、偶然ではなかったということなのです。
つまり、あなたとわたくしの感覚の一致は、すべて必然のものだったということ、
あなたが描いていた心象風景を、わたくしはすでに知っていたということなのです。
ご自宅の庵で桜を見上げながら、数え切れないほどのあなた独自の風景を、気ままで、勝手で、塵ひとつない純粋な空想の景色を、心の引き出しいっぱいに詰めてきたことを、わたくしは知っていました。
その風景を、『ふたばノート』というものに書き記していたことも知っています。
そこにはもちろん、『Loving Life』『エトピリカ』の散文も書かれています。
わたくしの話した内容は、この『ふたばノート』に書かれているものと、ほとんど一致しているはずです。
その他にもたくさんの風景が書かれています。
たとえばドビュッシーの『月の光』では、こう書かれていると思います。
月の光のなかの風景
それほど大きくもなく小さすぎもしないくらいの湖の湖畔
波打ち際まで五メートルもないくらいの狭い砂浜の奥に建つ
こじんまりとした少し古くなった木造の平屋建て
正方形を四分割したような窓を真ん中から外に開く
ほとんど波の立っていない水面
わずかに横にぶれている月がゆらゆらと落ちている水面
夜の色と白に近い黄色の光だけの世界
そう、夏でも冬でもなく秋の終わりの始まりのころの空気
『澄ん(すん)』とした空気
(つづく)
あの時、二つの曲、それぞれからイメージできる風景について、こう会話しました。
あなたから話し始めています。
「私は、この『Loving Life』という曲を聴くと、夏を連想するのです。とても青空が鮮やかな夏が想像できるのです」
「わたくしの心象風景では、夏の折り返しになるずっと前の、まさにこれから夏本番に向かっていく、夏に一歩足を踏み入れた段階にあたります」
「私も、そういうイメージです」
「その時間は、まだ太陽は最高点に到達する前、朝という時間帯が終わったあとのように思えます。そして、このサビの部分の幅のあるバイオリンの音色と、ここから転調してその広い音のまま響き上がってラストに向かうところで、果てしなく続いていく青空へ突き抜けていく、一直線の白がイメージできるのです」
このようなやりとりでした。
次の『エトピリカ』という曲の時は、あなたが一曲目の心象風景で感じた感覚の一致を、より確かなものにしたいと思いながら、こう口にしました。
「この曲、とても有名な曲なのですけれど、私の一番のお気に入りなのです」
「わたくしには、夏の風景です」
「でも、『Loving Life』とは、少し違う風景です」
「午前中という印象は同じなのですが、もっともっと早い時間です。そして、もう少し早い段階の夏です」
「初夏で。朝で。ものすごく世界が拓ける感じがします。それは宇宙の拡がりという感じではなくて、目の前に広がる草原、その向こうに空が広がっていて、壮大という言葉が浮かびます。そして、扇状に広がっていく世界は安心するほど広大で、
まだまだこれから始まる、まだ自分は大丈夫だと思えるのです」
「世界が拓ける。それは宇宙の拡がりではなく、地上に立っている自分が前提となっていて、身の丈の高さという日常の視点から見える目の前には、ただただ草原が凪いでいて、その上に半球状の、青よりも水色に近い空。夏の始まりの頃の、爽やかで、でもほんの少し水気を含んだ空気に包まれた朝。すべてがそこから生まれてくるような世界。壮大に一斉に、でもとても静かにゆっくりと、何かが始まるという光景です」
なにも、記憶力自慢をしているわけではありません。
これだけでは、ただその時の事実の回顧でしかありません。
これくらいのことであれば、小型マイクでも仕掛けておけばできることです。
わたくしがお伝えしたいことは、ここでのやりとりの再現などではなく、この時の驚異的な感覚の一致が、偶然ではなかったということなのです。
つまり、あなたとわたくしの感覚の一致は、すべて必然のものだったということ、
あなたが描いていた心象風景を、わたくしはすでに知っていたということなのです。
ご自宅の庵で桜を見上げながら、数え切れないほどのあなた独自の風景を、気ままで、勝手で、塵ひとつない純粋な空想の景色を、心の引き出しいっぱいに詰めてきたことを、わたくしは知っていました。
その風景を、『ふたばノート』というものに書き記していたことも知っています。
そこにはもちろん、『Loving Life』『エトピリカ』の散文も書かれています。
わたくしの話した内容は、この『ふたばノート』に書かれているものと、ほとんど一致しているはずです。
その他にもたくさんの風景が書かれています。
たとえばドビュッシーの『月の光』では、こう書かれていると思います。
月の光のなかの風景
それほど大きくもなく小さすぎもしないくらいの湖の湖畔
波打ち際まで五メートルもないくらいの狭い砂浜の奥に建つ
こじんまりとした少し古くなった木造の平屋建て
正方形を四分割したような窓を真ん中から外に開く
ほとんど波の立っていない水面
わずかに横にぶれている月がゆらゆらと落ちている水面
夜の色と白に近い黄色の光だけの世界
そう、夏でも冬でもなく秋の終わりの始まりのころの空気
『澄ん(すん)』とした空気
(つづく)
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