半次郎の“だんごんがん”

要するに、居酒屋での会話ですね。
ただし、半次郎風のフレーバーがかかっています。
≪安心ブログ≫

あの日から丸5年

2016年03月11日 12時18分20秒 | よもやま話

こんにちは、半次郎です。

平成23年(2011年)3月11日、そう5年前の今日、14時46分18秒に発生した大地震。
奇しくも同じ金曜日のことでした。

半次郎は職場でかなり大きなプロジェクトにアサインされ、3月末の納期に向けて遅れている開発作業をドライブする立場でした。
ちょうどその時間は、毎週開催しているシステム開発業者7社を集めての進捗会議の真っ最中でした。

最初は直ぐに収まるだろうと室内で、念のためにと入口のドアを開けて待機していましたが、一向に収まる気配がなかったため、会議を中断し様子を見ようと表に出ました。
表には既に多くの人が出て様子を窺っていました。
まだ揺れは続いていました。
会議は終了間際だったこともあり、直ぐに解散しました。

ほどなく電車が止まり、街には車が溢れ、バスやタクシーは思うように進めない状態になっていました。
通信ネットワークだけは無事で、インターネットが使えたのは不幸中の幸いでした。

電車はJRも東京メトロも、全てが運休してしまいました。

帰る足を失ってしまった訳です。
それでも、夜遅く、東京メトロ東西線が一部の区間で運行を開始したとの情報がネットに流れたため、もしかしたら帰れるのではないかと淡い期待を抱いて駅に向かいました。

丁度、到着した電車に乗って西船橋を目指してみたものの、電車は2つ手前の妙典駅までしか行けず、そこから折り返し運転とのことでした。

復旧の見込みはないとのこと。
やむなく妙典駅で降りると、辺りには座り込んで迎えを待つ人や食べ物や飲み物を求めて移動する人の群れで、ごった返していました。
携帯がつながらず、公衆電話の長い列に並んで順番を待ち家に電話をしました。
娘に車で迎えに来てくれるよう頼んだのです。

しかし・・・、1時間経っても、2時間経っても全く現れません。

その時点で、夜中の1時を過ぎていたように記憶しています。
娘はどうやら渋滞がひどく、千葉から出られない状態だとのこと。
半次郎は諦めて職場に戻ることにしました。
東西線は復旧していないまでも、夜を徹して折り返し運転を続けてくれたため、職場に戻ることが出来ました。
今でも、その英断をしてくれた東京メトロの職員には感謝しています。

会社に戻って夜を明かしましたが、コンビニのカップ麺やパンは既に売り切れていましたので、配給された非常食の乾パンと水を抱えてなんとか空腹を鎮め、電車が動くまで仕事を続けました。
確か、土曜日の昼ごろには復旧したように記憶しています。

職場にいる間に、インターネットのニュース速報で、津波によるおびただしい数の犠牲者が浜辺に打ち上げられていることを知りました。
その記事を見た時の背筋の震えは、今もはっきりと覚えています。
二度と経験したくない惨劇ですね。

後日談になりますが、この時のプロジェクトは、3月末が納期だったのですが、発注した側の受入態勢が取れないとのことで、2ヶ月ほど延期になりました。
奇跡的に、開発の遅れが救われた形になりました。

さて、この10年間で起きた世界中の大地震の2割は、日本で起きたものだそうです。
日本列島周辺では地球の表面を覆う4つのプレートが接していますから、地震が発生しやすい訳で、『地震は宿命』と考えるしかありません。

天災は避けることができません。
しかし、人災は避けられるのです。

多くの人々のふるさとを奪った東京電力福島第1原発事故のような人災と思われる災害は、人間が驕り高ぶらず謙虚になることで事故を防ぎ、事故に遭わないための“知恵”が生まれることと思います。

あれから5年。
今日のこの日に、改めて“安全な暮らし”というものを見つめ直していきたいものですね。

最後に、この震災で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

From 半次郎



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