最近は”左派”や”革新”と言わずに”リベラル”と呼ぶようですが、リベラルを自称する人達は、その思想信条を体現されているのか疑問を感じまして。
たとえば、安倍政権時代の経済政策は、本来はリベラル派が推進するような経済政策だったと言われています。
当時の日本は、保守政権がリベラル的経済政策を行う、世界的に珍しい国だったんです。
そうした”リベラル的経済政策を否定するリベラル派の人々”という存在自体が矛盾だと思うんですが、その辺りはどう考えられているのかなぁと。
己の正義に反するから、相手を否定する。
そういう事なんでしょうか。
そうなると、もう議論の余地はなくなってしまいますよね。
その人にとっては、その人の正義以外に答えがないんですから。
政治的な話しは置いときまして、思想的な話しをします。
左派(革新)は、弱者救済を根本とし、その正義を盾にそこから派生する権利を主張します。
そしてその思想を、活動として拡大して行く訳です。
その集団は思想を共有し、同じ方向を向いている・・・様に見えるのですが、所詮頭で考えることですので、実はどこまで行っても個人でしかありません。
心と心が繋がっている訳ではなく、思想と人が繋がっているので、組織内にも温度差があったりします。
昔、某労働組合が財政的な理由からアルバイトを解雇して、集団訴訟を起こされた事がありました。
やっていることが皮肉でしかないのですが、その時のアルバイトは組織外の存在として扱われたのでしょう。
実は若かりし頃、労働組合の書記を担ったことがあります。
左派系の研修も幾度となく受けましたし、その考え方が分からない訳ではないんです。
当時、足尾銅山鉱毒事件の演劇の事務局をやりまして、話自体は勉強になったし大切な事だと思うのですが、どうも私にはしっくり来ない。
今改めて考えてみると、共感することを”強要される”ことに、拒絶反応を起こしていたような気がします。
一方右派(保守)は、先日の記事でも感じたのですが、考えれば考えるほど心の世界に入って行きます。
先祖や先達からの縦の繋がり。
家族や地域といった横の繋がり。
そうした社会のあり方そのものを大切に思う心が、保守と言えます。
お墓参りで感謝を気持ちを抱ける人、地域活動に楽しんで参加できる人は、すなわち保守です。
そこに正義や権利はなく、あるのは互助や共助だったりします。
そういうのが大切だよなぁと思う私は、現在保守を自認している訳です。
【缶コレクション】 エメマン ブラック
底面の日付は2016年4月20日。
山のデザイン繋がりでのブラックにたどり着きました。
(。・ω・。)
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