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「事実論」とは

先日の記事の続きになりますが、何を以て「陰謀論」と評されているのかというのは、何となく分かってます。
「事実」ではない=「陰謀論」です。
「事実」として明らかになっていない単なる憶測なんだから、それは「陰謀論」でしょうと。
今回は、逆に「事実」とは何だろうというのを考えてみたいと思います。


ここで、1つの命題を挙げてみます。

「明らかにされていない事実は、事実なのか?」

例えば、機密文書が何十年後かに公開され、新事実が明らかになることがあります。
さて、その新事実は、j実行された時点で「事実」だったのでしょうか?
それとも、公開され、社会的に認知されることで「事実」になるのでしょうか?


今回の米大統領選挙で、トランプ氏側を「陰謀論」と評している人は、おそらく後者を「事実」とするスタンスなのでしょう。
不正が実証されていないから、「事実」ではない。
裁判所で棄却されているから、「事実」ではない。
この場合の「事実」とは、将来の変更も有り得る、現時点の社会的共通認識というものとなります。

システムの不正が、科学的に実証され始める。
裁判所の審理により、投票無効の意見が出し始める。
時間とともに新たな「事実」が出てくれば、これまでの事実は塗り替えられていきます。
当時はソレが事実だったけど、今はコレが事実と判明していると。
「事実」に即すれば当然そうなるのであり、人によってはそれが”意見の変節”に見えるという認識は、全く持たない様に感じます。
そういった意味で「事実論」は、経過がどうであれ、常に社会的に正しい側に立とうとする考え方だと言えます。


後者を「事実」とする場合、の2つ目。
「情報」が「事実」とされる為には、権威付けが必要となります。
裁判所の判決とか、政府の公式発表とか、大手メディアの報道とか、そうした社会的信用に足る情報となって初めて「事実」として社会的に認識される訳です。
個人から出される情報は、単に個人的見解であって、内容の是非に関わらず、社会的「事実」にはなり得ないのです。
逆に言うと、「事実」を語る者は、社会的に保証された「事実」が出されるのを待たざるを得ず、基本的に”観察者”の立ち位置となります。


最後に、思考はその人の常識を越えられないというお話。
以前の記事で、米大統領選挙における選挙工作として、中国系アメリカ人による集団郵便投票の可能性を書きました。
日本で言えば、オウム真理教信者が上九一色村に住民票を移し、村ごと乗っ取ろうとした感じですかね。
あくまで合法的に、ソレを行うだろうと思っていたのが、私の思考の限界だったと言えます。
ある州では、投票数が、名簿登録者数を20万人程超えているとの事ですが、そんな状況があるとは想像もしませんでした。
(日本の選挙制度では、投票行為が厳格に管理されており、基本的に投票数>名簿登録者数となる事は有り得ません。)

こうした意味で、思考の範囲はその人の常識に囚われていると言えます。
陰謀論を自称する私ですらそうですから、「事実」という社会的常識に縛られた思考が、どれほどの範囲を考察できるのかは疑問です。
なぜなら、社会的常識から外れた時点で、それは「陰謀論」と呼ばれるものになるというジレンマに陥るのですから。
逆にそのジレンマから逃れるために、“観察者”として、材料が揃った後に事後考察を行なってうのかもしれませんが。


今回の米大統領選挙は、そういう事を気付かされ、考えさせられる特異な出来事だと思ってます。
・「事実論」は、現時点での社会的共通認識であり、将来的な変更も当然にありえる。
・「事実論」は、社会的信用の担保を必要とし、事後論となる。
・「事実論」は、社会的常識の範囲を越えられないものとなる。



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