父が亡くなって今年の10月11日で10年になります。
父が残してくれた不思議な体験の話。
息子としては非常に愛おしくとても大事なものですが、母の許可も得ていますので、
ここにも上げておきたいと思います。
※あえて改行をしておりません。私を含めた兄弟の実名だけカットしています。
~~~~~以下、私の父が生前に綴った臨死体験です~~~~~
「三途の川」紀行
一度死んだ時の話
菜の花や黄泉の川辺を歩みおり
二〇〇〇年二月二七日(日)、数日前から顕れるようになった「心不全」の症状(胸苦しくなる─当時かなりの量のタバコを吸っていたので、煙にむせるような痛みに思えた─)のために、家内との上京予定を急遽変更して、家内の留守のあいだ私だけが残って地元の高北病院に念の為に入院することにした。院長の了解も得てその日の朝には病院にゆき、当直医の診察も受け入室の部屋もきめて、入院準備のための帰宅をした。その時の当直医は内科の先生であったが心電図を撮りますので「ちょっと冷たいけど我慢して下さい」といって、裸にした私の胸部に電子コードの端末を貼付し心電図測定器を首から吊るすようなかたちで私の体に取り付けて帰してくれた。
「このままで、ごく普通の生活をして下さい、今晩、入院の時に心電図の状態をみせてもらいますから」とのことであった。私と家内は近くの馴染みの喫茶店に立ち寄って、コーヒーを飲みながら、店にきていた電気店の親父さん(小学校PTA会長)やマスターなどと日本の政治や教育問題など雑談して帰った。
家では、家内は葬式のための上京の準備、私は五月発行の高知平和美術会機関誌6号の編集など三つ程の仕事を抱えて忙しくしていた。私にとっては原稿書きとか、雑誌の編集などはごく普通の生活なので、べつに自分のからだに負担をかけているとは思ってもみなかったが、後の後悔先に立たず─で心不全に対する認識がどうも甘かったようである。
その日の午後四時過ぎごろのことである。私はアトリエで四月の「佐川環境展」のポスターを眺めたり、机の上に乱雑におかれている書きかけの「巻頭言」とか前年度から書き進めてきた論文「小砂丘忠義と宮沢賢治」の原稿などを整理しながら一服していたら、急に胸が苦しくなり、しかも、前日、隣の個人医からもらったニトロをなめても治まらず、救急車を呼ぶか、どうするかの羽目に陥ってしまった。結局、家内の車で病院まで送ってもらった。病院の玄関には看護婦さんが、車椅子を用意して待っていてくれた。私はすぐ三階の病室に運ばれて、朝取り付けた心電図測定器具を医者にとりはずしてもらいながらの診察をうけた。そうこうしている内に、私はからだが震えるほどの急激な寒さに襲われた。
私の記憶はこの当たりで終っている。医者は私の心臓も呼吸も止まった時点で家内に告げ、たいへん危険な状態だから、ごく身近な身内の方には通知しておいて下さい、といった。つまり、一九二八年五月十三日以来働きつづけてきた私の心臓の脈拍も肺臓の呼吸活動もこの年、二〇〇〇年の二月二十七日の午後・夕刻の四時四十分前後に終ったのである。つまり私はその時、死んだわけだ。「死人に目無し口無し」といわれている。
一度死んだ私がどう生き返ったかは、死んだ私には解らない。そのことは家族の者に聞いてみるしかない。次に、私が聞いた起死回生の概略を述べてみる。
生き返った話
私が寒い寒いというものだから、看護婦は布団をかついで来てきせ掛けてくれたり、医者も患者の容体の激変に慌てて、下着を切り裂いてかまわないか、とか言いながら心電図測定器具を取りはずして心電図のテープを病室に山になるほど引っ張りだして調べはじめ、急に不機嫌な顔つきに変わって無口になってしまった。
この病院の慌ただしい緊張感のなかで医者はつぶやくように言った。「心筋梗塞がおきている!、これは大変!、当院には循環器の専門医がいない!専門医のいる病院へ移すのでその処置をする」と一言って、私をベットごとすぐさま一階の集中治療室に移動させた。この転院の用意を始めた途端に私は意識不明に陥ったのである。
集中治療室では家族の者は治療室には入れてもらえず、廊下で待たされることになった。この間に家内は埼玉県に住む長男、東京都に住む長女や次男に連絡の電話をいれた。先ほど立ち寄った喫茶店にも状況報告だけはしておいた。この喫茶店のご夫妻は心筋梗塞を患った家族を入院させた経験があり、すぐ近くで、しかも今日の午後はお店もお休みだということで、二人で駆けつけて下さった。心細い思いをしていただけに心づよかったとのことであった。
暫くして、集中治療室から出てきた医者が転院の準備をしてきたが、止まった心臓も呼吸も戻らないので転院しても無理かもしれない。どうしますか、と家族の意見を求められた。「はいそうですか」と死亡の事実を認める気にはなれない家内はあくまでも転院してより専門的な治療の続行を希望した。では、何処の病院にするかということで三っの候補があげられたが、そのうちの一っを選んで手配してもらった。
幸い佐川町には高知県に十二台しかない救命救急車(EMS)が常駐していて、その日は日曜日の夕方にもかかわらず、救急救命士もいてくれて搬送が可能となり、当直医も付き添ってくれて高知市の市民病院へ私は運ばれた。勿論、家内も、喫茶店のママも同乗してくれていた。
佐川町から高知市までは国道33号線を車で四五分から五〇分の距離であるが、救命救急車で移動するその三〇分の間に心臓が動きだした。車中でつづけられていた救急救命士による救命活動の成果がでたのだ。
市民病院の担当主治医は新進気鋭の山本先生であった。先生は家内に「かなり難しい状態なので助かっても、植物状態になることもあるので覚悟してくれ」と言われた。
明け方には東京から車を飛ばしてきた三人の子どもたちも到着した。
私の心臓も肺臓もはじめは極めて不安定であったが二日目くらいから安定するようになり、三日目には意識も戻った。但し、大量のモルヒネを投与された為か意識は正常では無かったらしい。そのトンチンカンぶりを家族は今でも思い出しては大笑いをする。例えば、熱を下げる為に両脇の下に氷を入れた袋を置いていたがそれを手に持ってこれで隣の部屋で一杯やろうとベッドの上に立ち上がったり、天井から誰かがこっちを見ていると怖がったり、とか。例はいくらでもある。一週間くらいで集中治療室から個室に移され、どうやら人間らしくなってきた。人間らしい言葉もでるようになって子どもの名前もちゃんと呼べるようになったし、どうやら植物人間にはならずにすんだようだ、と四人の家族は皆よろこんでくれた。
三途の川の汚染報告
私の心肺活動が停止して、それに伴って意識活動も停止して意識不明に陥ったわけではあるが、一つだけ鮮明に記憶に残ったことがある。
私の心肺活動の蘇生のために力を尽くして下さった多くの方々の努力とか私の危篤状態になった時に駆けつけて下さった沢山の方々については、申しわけないが何一つ、誰一人として記憶にない。
入院後三日目で意識は回復した。しかし、意識が回復したとされる数日間についても何一つ覚えていない。意識回復の数日間の私の思考と発言は支離滅裂、荒唐無稽であってまわりの人々には思考活動や理論活動が活発になり意識回復が進んだようにみえて、病気回復を喜ばしく思わせたようではあるが、本人には何一つ記憶に残ってはいない。
例えば、私の意識回復に役立つようにと私の版画作品(沖縄・摩文仁の丘)をアトリエから持参して集中治療室の壁に掛けてくれたという。すると看護婦さんをつかまえて、沖縄や摩文仁の丘のことを、まるで演説をぶつように戦争のことや版画の技術などを含めて語り聞かせたという。そんな事など覚えていないと私がいうと「えつ〃お父さん、あれだけ得々と喋っていたのに覚えていないの!」と子どもたちは呆れかえるくらいであった。
にもかかわらず、この間おとずれた三途の川の風景だけは鮮明に覚えている。
巻頭の俳句がそれである。
よ み
菜の花や 黄泉の川辺を歩みおり
河口近くの四万十川の川辺にも菜の花畑はあるが、それよりもっと広い川原の菜の花の中を私は歩いていた。桜も咲き桃の花も咲いていた。その野原のあまりの静かさに驚かされた。まるで海の底のように静まり返っているが暗くはない。明るくて乾いているが風はない。この静寂をどこかで経験したような気がした。
それは二十年ほど前、数人の友人とイタリアを旅をした。ローマからフィレンツェまでの高速道路を車でとばした時、広い平原の丘の上にあった素朴な教会の庭で、そこの尼さんに頼んで弁当を食べさせてもらったことがあったが、そこでの物音一つしない静寂さには驚かされた。その時とおなじ静かさであった。
ところが、ここで出会う日本の青年たちの髪の毛がいずれも明度の高い茶髪であったのにも驚かされた。
聞いてみると、それは染めたのではなく水の汚染のために色素が変質したのだとのことであった。よく見るとカラスまで黄色くなっていて黒いカラスは一羽もみられなかった。
青年もカラスも茶髪 黄泉の春
水汚染 常世の国まで及びおり
この春は 黄泉の渡しも川止めとぞ
花吹雪 環境研究会の意気ぞよし
満開のサクラの木の下では茶髪の青年たちが車座になって環境問題研究会を開催していた。黄泉の国の青年も頼もしいものだ、と感動して私も研究会の輪に加えさせてもらった。そこでは、私の地元・佐川町の三年前に立ち上げた環境問題研究会がこの春予定している環境展の報告などが拍手で歓迎された。
ところで、あんたは佐川から何処へ行くのか、と聞くから、いまから三途の川を渡るところだ、と答えると、みんな一斉に私の顔を見ながら首を横に振った。そして、今、三途の川を渡るのは危険だ!と言う。なぜだ、と聞いてみると水の汚染がひどくて舟で渡ることは禁止されている、とのことであった。
そんなわけで私は追い返されてこの原稿を書くはめになっている。
平成十四年九月十日発行
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