25.9.28(土)
秋らしくなってきた。今日から西条へ巡礼。
西条は本日中に巡る予定で9:30に出発。
60番札所横峰寺へ向かう。石鎚山の中腹にあるらしい。
歩きや自転車にとっては難所だろうと思っていたが、実際に走ってみると車でもたいへんであった。標高745mの位置にあり、傾斜のきつい狭路を登っていく。途中から大型バスは入れず、マイクロバスがピストン運行している。
あと数㎞というところで、なぜか「もうすぐ料金所です」とナビがアナウンスする。高速の入口と誤認しているのかと思っていたら、本当に料金所が現れた。残り6㎞の狭路に、往復1,800円の通行料をいしづち森林組合へ支払う。終点に駐車場があり、そこから500mほどを歩いて行く。
標高が高いだけあって、少し冷える。
駐車場から森の中を下っていく。荘厳で神秘的な雰囲気が漂っている。
第60番札所横峰寺
<横峰寺>
西日本の最高峰石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰と修験道の霊地として知られる。山の上に石鎚神社頂上社があり、境内はその真北中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であり、伊予の関所寺にもなっている。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。
寺は石鎚神社の別当寺として信仰を集めた。開いたのは修験道の祖、役行者である。役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782~806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781~806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806~810)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。
さわは鐘を撞くのを楽しみにしている。
駐車場までの帰りは登りになる。
第61番札所香園寺
<香園寺>
香園寺は聖徳太子(574~622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。
聖徳太子の父、用明天皇(在位585~587)の病気平癒を祈願して、太子が霊夢に導かれこの地を訪れ、堂宇を建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金衣白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729~749)には行基(668~749)が訪ねている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806~810)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。
鐘を見つけると走り出していく。
いつものお寺とは違う造り。聖徳太子が創建した歴史ある寺。
第62番札所宝寿寺
<宝寿寺>
天平の頃、聖武天皇(在位724~749)の勅願により各地に一の宮が造営された。その際、伊予国一の宮別当寺として創建されたとする。このとき天皇は「金光明最勝王経」を奉納し、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~810)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されている。
第63番札所吉祥寺
<吉祥寺>
弘仁年間に、この地方を巡教した弘法大師が、光放つ檜を見つけ、一帯に霊威を感得した。大師はこの木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。
大阪からきたお遍路さんに、アンパンマンのお菓子をもらった。御利益?
次へ向かう途中、すべてアンパンマン編成のJRに出会う。さわはアンパンマンラッシュに「ご利益やねー」とご満悦だった。
第64番札所前神寺
<前神寺>
前神寺は、山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つ、国定公園・石鎚山(標高1982mの麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。
修験道の祖、役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673~686)の頃とされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。
以来、歴代天皇の帰依が厚く、仏像や経巻がしばしば奉納され、諸堂の修復や増築にも寄与されている。また、江戸時代には西条藩主・松平家の祈願所になるなど、寺運は隆盛を極めた。しかし、明治新政府の神仏分離令により寺領を没収され、廃寺を余儀なくされた。その間、石鎚神社が建立されたりしたが、明治22年に霊場として復興した。
背伸びをしながらついた鐘は思いのほか大きな音を鳴らし、霊峰に木霊(こだま)しながら、参拝にきたことを阿弥陀如来に告げた。
石鎚山修行の総本山である。毎年7月1日の「お山開き」には数万人にのぼる白衣姿の信者が集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和しているという。
次回は四国中央市を経て香川へ入る。
第7回四国八十八か所巡礼……第60番札所横峰寺、第61番札所香園寺、第62番札所宝寿寺、第63番札所吉祥寺、第64番札所前神寺。