TEAM HAYASAKA

四国八十八か所巡礼お遍路の旅 第6回 そして八幡山登山

25.9.23(月)
昨日に続き、今治に巡礼へ。
10時発。

お墓参りしたので、今治へは昼前に到着。まず昼ごはん。
昔の八勝亭のチケット1,500円分が車の中に眠っていたので、使えるかどうかやっこが聞きに行った。まだ使えますとのこと。

<八勝亭ビビンバ2~3人前>と<メンチカツ定食>を注文。




お腹いっぱいになった。

第57番札所栄福寺
<栄福寺>
瀬戸内海沿岸の今治沿岸は、海難事故が絶えなかった。特に日本三大急潮のひとつでもある来島海峡は瀬戸内でも有数の難所だ。
栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。
嵯峨天皇の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法した。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。



本堂

大師堂

参拝の後、どんぐり拾いに八幡山に登る。栄福寺は八幡山の麓にあり、頂上には石清水八幡神社がある。
幕末の神仏分離令まで山頂で共に祀られていたそうだ。


元気よく登っていく。

標高65mの山で、10分程で到着。
石清水八幡神社

山頂から今治市内を見渡す。


さわはヤッホーを連発していた。

どんぐりはまだ早いようで、残念ながらまだ落ちていなかった。結果的には、蚊に刺されに登ったようなものだ。

第58番札所仙遊寺
<仙遊寺>
創建は天智天皇(在位668~671)の勅願により、伊予の国主、越智守興が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。
さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。
弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法したとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。


子安観音


弘法大師


本堂

宿坊があった。

宿坊から見た風景。


第59番札所国分寺
<国分寺>
天平時代に聖武天皇の勅願で各地に置かれた国分寺は、官道沿いの国府近くの一等地に建てられた。当時の国府は越智郡と呼ばれた今治にあり、都から官道(南海道)が、淡路、阿波、讃岐と抜け、ここまで伸びていた。国府の場所は比定されていないが、国分寺近くにあったと考えられる。ちなみに松山にある道後は官道の後ろという意味になる。
往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724~749)の勅願により行基が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、「法華経」の一部を書写して納めている。
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著「四國禮霊場記」には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。


本堂

大師堂

弘法大師と握手。


その後、かみとくの湯に入って帰った。

第6回四国八十八か所巡礼……第57番札所栄福寺、第58番札所仙遊寺、第59番札所国分寺。


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