Hors-d'ouvre(オードブル)
「何かさぁ・・面白いことやりたいんだよね」
ヒョンジェはタバコに火をつけてため息のように煙を吐いた。
首からハッセルブラッドを下げ、子供のように椅子をクルクルと回しながらつぶやく彼は若干33歳にして一流ファッション誌Harper's Bazaarと専属契約を結んだ韓国で今一番注目されているファッションフォトグラファーである。
「こんなむさ苦しい俺の家なんかに遊びに来るし。お前、仕事面白くないの?」
鉛筆をくわえ鉢巻を巻いたイマドキに似合わない格好のボンスは頭をかきながら面倒くさそうに聞いた。
「汚ねえなぁ・・」
その姿を見てヒョンジェは苦笑いをする。
「ここは落ち着くんだ。何かわかんないけど。仕事は・・・別につまらないわけじゃない。好きな写真とって好きなことさせてもらって楽しいけどさ・・」
カメラをいじりながら答えるヒョンジェ。
「俺から見たらお前は贅沢だよ。金は腐るほどもらえるし、名声も手に入れた。あんな可愛い奥さんまでいるくせに」
ボンスはそう言いながら手元にある原稿をペラペラとめくった。
「ここにはお前がいかに幸せかが書いてある。書いていると自分がいかに不幸かを呪いたくなるね。」
「何それ」
ヒョンジェは身を乗り出してボンスの原稿を覗いた。
「え?お前がこの間酔っ払って話してくれた奥さんとの馴れ初めが面白かったからさ、小説にでもしようと思って」
「は?お前は人の人生で飯食おうっていうのかよ」
そう吠えたヒョンジェはボンスから原稿を奪い取った。
「まだ、途中だし、これから修正いれるんだよ。返せよ」
「ちょっと読ませろよ」
ヒョンジェはボンスから取り上げた原稿を読み始めた。
仮題「Wedding Day 」
「ふ~ん。知的な女性のためのファッションね。」
ヨンウは来月号の「クオリティー」のためし刷りをペラペラとめくりながらつぶやく。
「そう。次は日頃おしゃれに関心がない堅物の頭でっかちな女性がふと手にとりたくなるような、ちょっと自分を知的に見せたいと思っている女性が興味を持つような特集にしようと思ってるの」
編集長のミンヒは机に腰掛けてそう熱く語った。
「今までの読者層とずいぶん開きがあるんじゃない?」
彼がニヤッと笑う。
彼が手に持っている来月号の表紙には
「今年の春は絶対にピンク!流行のピンクを着こなす」
派手なピンクの紙面が踊っている。
「すべての流行を世に送り出すのが「クオリティー」の使命なんだから読者層を固定するなんてナンセンスだわ。」
語気を荒げてそう吠えるミンヒ。
「なるほどね。」
ヨンウはそういうとくるっと椅子を回し、タバコに火をつけた。
そしてふぅ~っと煙をはく。
「編集長がそうおっしゃるんでしたら僕はベストな写真を撮るまでだから。ご期待に副えるよう頑張りましょう。」
彼はそういうと上着をヒョイッと肩にかけ、後ろに向いてタバコを持った手を振りながら彼女のデスクを後にした。
「ミンヒ・・・言いたかないけどさ・・・もっと知的に見えるモデルはいないのかよ。」
ヨンウは愛用のハッセルブラッドのファインダーを覗きながら気乗りのしない様子でそう言った。
「あなたの腕で何とかしてよ。」
「何とかするのにもほどがある。」
呆れてそうつぶやく彼の視線の向こうには化粧ののりにしか興味がなさそうにひたすら鏡を覗いているモデルが立っていた。
「そうだ・・・あの・・なんていったっけ。ソウル大学出の才媛」
「ああ・・ソヨン?」
「そうそう。彼女は?」
「知的過ぎて政治活動で捕まって今、留置場にいる」
ミンヒは渋い顔でそう答えた。
「塀の中まで撮りに行くわけにいかないか・・」
苦笑いしてヨンウはため息をついた。
「じゃあ、せめてもう少し寂れた感じのところで撮影してみるか・・・」
「例えば・・・古本屋とか?」
ミンヒが自慢げに提案する。
「いいね~。仁寺洞あたり行こうか。さあ、皆ロケに行くぞ」
ヨンウはカメラを持って先頭を切ってスタジオを飛び出した。
仁寺洞の骨董街。
このあたりにはアンティークショップや古書店、ギャラリーが軒を連ねている。
機材を積んでヨンウたちを乗せたバンは一軒の古びた古書店に目をつけ、停まった。
「いいねぇ~。何だか知的な匂いがする」
ヨンウは店構えを眺めながらカメラ片手に目を輝かせて車から降りた。
晴れているのに薄暗い店内に入る。
「うん。いけそうね。すいません。どなたかいらっしゃいませんか。」
満足そうに頷きながらミンヒが声をかける。
ヨンウは店内を眺めながら後ろにあった高い本棚を整理するための可動ハシゴにもたれかかった。
ヨンウの体重で可動ハシゴが勢いよく動く。
「きゃぁ~」
上の方から悲鳴が聞こえた。
驚いて見上げるスタッフの前にひとりの女性がハシゴから恐る恐る降りてきた。
「ごめん、大丈夫かい?まさか人が乗ってるなんて気がつかなくて」
中途半端な長さのフレアスカート。
厚い黒タイツ。
もう春も間近だというのに黒いハイネックのセーターを野暮ったく着こんでいる彼女は謝るヨンウに軽く会釈した後、その場に不似合いな撮影スタッフ達を見回した。
「一体・・・何でしょうか。何か御用ですか?」
怪訝そうに訊ねる。
「店主さんはいらっしゃるかしら。この店をちょっと撮影に貸していただきたいと思って。」
ミンヒは満足そうに店内を見回した。
「店主は古書の仕入れのために海外へ出張中です。店主のいない間は私が責任者ですが・・一体なんの撮影ですか?」
「ファッション誌さ。『クオリティー』って雑誌読んだことない?」
ヨンウがカメラのファインダー越しにあちこち覗きながら答える。
「興味ないので。店主はファッションが嫌いですから必ずお断りすると思います。流行とは自己欺瞞以外の何物でもありません。そのようなものの撮影にお力はお貸しできませんので、お引取り下さい。」
彼女が話し終わる前にスタッフたちは機材のセッテイングを始めていた。
「何の権利があってこんな勝手なこと・・個人の権利の侵害行為です。こんなこと許されません。」
慌ててスタッフの準備を辞めさせようとする彼女を捕まえて
「お願いだから。ね。生活がかかってるのよ。ね、相身互いってことで。ちょっと目をつぶってて」
ミンヒは泣き落としにかかる。
「そんなことを言われても・・」
困惑する彼女を尻目に作業は進んでいく。
「もっと乱雑な方がいいかしら。ちょっと棚から本出してここに積んでみようか」
「ちょっと待って。そこは唯物論、そこは経験主義哲学の棚です。勝手に動かさないで。後で整理が大変になっちゃう。ねえ、彼女に何とか言ってください。」
横でニヤニヤ笑って見ているヨンウに彼女がすがりつくように言う。
「君、名前は?」
「え?ボラです。シム・ボラ」
彼女はごちゃごちゃにされていく棚を困り果てて見つめながら気のない返事をした。
「あ、そう。僕はキム・ヨンウ。よろしく。期待に副えなくて申し訳ない。僕はお抱えカメラマンだから。編集長の決めたことには逆らえないんだ。悪いね。」
あっけらかんと答えるヨンウ。
彼は首から下げていたカメラを被写体に向けて構えた。
「さあ、そろそろ始めようか」
「ねえ、この子も使ったら」
ミンヒはおろおろと店内で立っていたボラの腕を掴む。
「えぇ?」
有無を言わさずモデルの脇に立たされた彼女は大きな本を数冊持たされた。
「彼女にこの本の内容を説明して」
「は?彼女にですか?」
ボラの横にはバッチリとグラビア用の化粧をして派手な衣装を纏い、カメラに向かって変なポーズを取り続けるモデルが立っている。
「こんな理想主義に加担するのは私の主義に反します」
「いいから。本の説明を、終わったらすぐに帰るから」とミンヒ。
彼女は仕方なさそうに持っていた本についての説明を始めた。
「これは付随現象主義について書かれた本です。付随現象主義というのは意識は生理的プロセスに付随するものに過ぎずその有無は重要ではないという説で・・・一体あなた何しているの?」
変なポーズを取り続けているモデルの女性に向かって彼女は呆れたようにつぶやいた。
「はい、OK」
「衣装代え、急いで」
ヨンウの指示の元、スタッフが動き回る。
「もう・・いい加減にしてください。
あなたたちのしていることは私有財産権の不法侵害だわ。私にはあなたたちを訴える権利があるのよ。これが最後通告だから・・出て行ってください。」
たまりかねたボラはスタッフに向かってそう叫んだ。
「わかったから。ね。でもお願いだからもうちょっとお外で待っててもらえるかしら」
「え?何するの?」
慌てる彼女をミンヒはあっという間に店の外に締め出していた。
寂れた店の扉にもたれかかりボラは途方に暮れていた。
何でファッション雑誌の撮影などに協力をしなければならないのか・・。
あまりに自分の主義主張からかけ離れすぎていて全く理解不能だった。
しかもあの一方的で横暴な態度はどうしたものか。
怒りが収まらない。
少しだけ店内が覗き見える窓の隙間からそっと覗く。
悲惨な店内の状況に彼女は大きなため息をついた。
まもなく。
撮影スタッフがドヤドヤと店から出てきた。
「ありがとう。おかげ様で知的な写真が撮れたわ。撮影協力でお店の名前宣伝しておくから。」
一番後ろにいたミンヒはそういい残すと返事も聞かず慌しく車に乗り込みその場を立ち去った。
「冗談じゃないわ」
ボラは吐き捨てるように言うと慌てて店内に入った。
「信じられない・・・めちゃくちゃじゃないの・・・」
本の散乱する店内を呆然と見つめる彼女。
「申し訳ない。思ったより散らかすことになっちゃって・・本の整理・・・手伝うよ。これ・・唯物論はどこの棚?」
本棚の片隅でヨンウがすまなそうに唯物論の文献を数冊抱えて立っていた。
「貸してください」
ボラは彼から本を奪い取るように受け取った。
そして周りの本を拾いながらつぶやいた。
「恥ずかしいと思わないんですか?」
「ごめん・・・いつもはこんなことしないんだけど・・ちょっと焦ってて。強引だったね。」
「そのことじゃなくて。あんな写真撮って」
「あんな写真?」
彼女の言葉を聞き、ヨンウは聞き返す。
「ええ。あんな作り物の写真。才能を無駄に浪費していると思わないんですか?
あんなくだらない女性のくだらないドレスなんか撮って」
「世間じゃ美しい女性の美しいドレスって言われるんだけど」
ヨンウは困ったように頭をかいた。
「まやかしの美しさよ・・そんなの。木の方がずっと美しいわ。どうして木を撮らないんです?」
ボラは本を片付けながらそう訊ねる。
「生活がかかってるんでね。需要にしたがって供給している。木の写真は君が驚くほど需要が少ないんだ。この仕事は楽しいし。収入は抜群。人の金で世界どこにでも行ける。」
「パリにも?」
「ああもちろん。・・パリは好きかい?」
「ええ。お金があったら是非行ってみたい。そこは羨ましいわ。」
そういうボラの表情は夢を見るような美しさがあった。
ヨンウは野暮ったいまだ子供のようなこの女性に少しドキッとした自分に驚く。
「パリは最高さ。毎晩パーティーに行って、シャンパンを浴びるほど飲んで、一時間おきに新しい恋が芽生える」
彼は楽しそうにそういうとケラケラと笑った。
「私はパーティーには興味はないわ。私がパリに行きたいのはフロストル教授の講義を聴きたいから。」
「それは変わっているな」
「フロストル教授は偉大な哲学者で「共感主義の父」なんです。」
「共感主義・・聞いたことないな。」
「心の平和と真の相互理解に近づく哲学です。つまり共感することです。」
「何だか凄そうな学問だね」
ヨンウはちょっとからかったように言う。
「共感の正しい意味知ってます?」
ばかにされてちょっとむっとした表情のボラはそう訊ねた。
「その辺の知識には疎いんだが・・同情みたいなものかな。」
「同情をはるかに超えたものなんです。同情は単に相手の気持ちを理解するだけですけど共感は想像力を働かせて、他人が感じていることを自分も感じるために他人の立場に自分がたってみることなんです。わかってもらえるかしら?」
ヨンウはふと隣で共感について熱く嬉しそうに語る彼女がとても魅力的に思えた。
彼女の乗っている可動ハシゴを引き寄せる。
そしてそっと彼女にキスをした。
「・・どうしてキスなんか・・」戸惑う彼女。
「共感さ。君がキスして欲しいって思ってる気がしたから」
ヨンウはそんな思い付きの出まかせを言った。
「勘違いです。私・・キスなんて貴方からも誰からもされたくありません。」
自分の胸がドキドキと音を立てている・・・そう答えながらボラは自分の初めての胸のときめきに気づき戸惑っていた。
「そうかな。誰だってキスはされたいと思うよ。哲学者でも。」
ヨンウは悪びれた様子もなくそう答えた。
二人の間に沈黙が流れる。
「・・・・お探しの本はここにはございません。お役に立てなくて。他を探してください。」
ボラはそういうと彼から視線をそむけ、本を片付けることに夢中になったふりをした。
「そう・・残念だな。わかりました。じゃ、失礼します。」
ヨンウはそうあっけらかんと答えると脱いだジャケットとカメラを抱え店を後にした。
「何かさぁ・・面白いことやりたいんだよね」
ヒョンジェはタバコに火をつけてため息のように煙を吐いた。
首からハッセルブラッドを下げ、子供のように椅子をクルクルと回しながらつぶやく彼は若干33歳にして一流ファッション誌Harper's Bazaarと専属契約を結んだ韓国で今一番注目されているファッションフォトグラファーである。
「こんなむさ苦しい俺の家なんかに遊びに来るし。お前、仕事面白くないの?」
鉛筆をくわえ鉢巻を巻いたイマドキに似合わない格好のボンスは頭をかきながら面倒くさそうに聞いた。
「汚ねえなぁ・・」
その姿を見てヒョンジェは苦笑いをする。
「ここは落ち着くんだ。何かわかんないけど。仕事は・・・別につまらないわけじゃない。好きな写真とって好きなことさせてもらって楽しいけどさ・・」
カメラをいじりながら答えるヒョンジェ。
「俺から見たらお前は贅沢だよ。金は腐るほどもらえるし、名声も手に入れた。あんな可愛い奥さんまでいるくせに」
ボンスはそう言いながら手元にある原稿をペラペラとめくった。
「ここにはお前がいかに幸せかが書いてある。書いていると自分がいかに不幸かを呪いたくなるね。」
「何それ」
ヒョンジェは身を乗り出してボンスの原稿を覗いた。
「え?お前がこの間酔っ払って話してくれた奥さんとの馴れ初めが面白かったからさ、小説にでもしようと思って」
「は?お前は人の人生で飯食おうっていうのかよ」
そう吠えたヒョンジェはボンスから原稿を奪い取った。
「まだ、途中だし、これから修正いれるんだよ。返せよ」
「ちょっと読ませろよ」
ヒョンジェはボンスから取り上げた原稿を読み始めた。
仮題「Wedding Day 」
「ふ~ん。知的な女性のためのファッションね。」
ヨンウは来月号の「クオリティー」のためし刷りをペラペラとめくりながらつぶやく。
「そう。次は日頃おしゃれに関心がない堅物の頭でっかちな女性がふと手にとりたくなるような、ちょっと自分を知的に見せたいと思っている女性が興味を持つような特集にしようと思ってるの」
編集長のミンヒは机に腰掛けてそう熱く語った。
「今までの読者層とずいぶん開きがあるんじゃない?」
彼がニヤッと笑う。
彼が手に持っている来月号の表紙には
「今年の春は絶対にピンク!流行のピンクを着こなす」
派手なピンクの紙面が踊っている。
「すべての流行を世に送り出すのが「クオリティー」の使命なんだから読者層を固定するなんてナンセンスだわ。」
語気を荒げてそう吠えるミンヒ。
「なるほどね。」
ヨンウはそういうとくるっと椅子を回し、タバコに火をつけた。
そしてふぅ~っと煙をはく。
「編集長がそうおっしゃるんでしたら僕はベストな写真を撮るまでだから。ご期待に副えるよう頑張りましょう。」
彼はそういうと上着をヒョイッと肩にかけ、後ろに向いてタバコを持った手を振りながら彼女のデスクを後にした。
「ミンヒ・・・言いたかないけどさ・・・もっと知的に見えるモデルはいないのかよ。」
ヨンウは愛用のハッセルブラッドのファインダーを覗きながら気乗りのしない様子でそう言った。
「あなたの腕で何とかしてよ。」
「何とかするのにもほどがある。」
呆れてそうつぶやく彼の視線の向こうには化粧ののりにしか興味がなさそうにひたすら鏡を覗いているモデルが立っていた。
「そうだ・・・あの・・なんていったっけ。ソウル大学出の才媛」
「ああ・・ソヨン?」
「そうそう。彼女は?」
「知的過ぎて政治活動で捕まって今、留置場にいる」
ミンヒは渋い顔でそう答えた。
「塀の中まで撮りに行くわけにいかないか・・」
苦笑いしてヨンウはため息をついた。
「じゃあ、せめてもう少し寂れた感じのところで撮影してみるか・・・」
「例えば・・・古本屋とか?」
ミンヒが自慢げに提案する。
「いいね~。仁寺洞あたり行こうか。さあ、皆ロケに行くぞ」
ヨンウはカメラを持って先頭を切ってスタジオを飛び出した。
仁寺洞の骨董街。
このあたりにはアンティークショップや古書店、ギャラリーが軒を連ねている。
機材を積んでヨンウたちを乗せたバンは一軒の古びた古書店に目をつけ、停まった。
「いいねぇ~。何だか知的な匂いがする」
ヨンウは店構えを眺めながらカメラ片手に目を輝かせて車から降りた。
晴れているのに薄暗い店内に入る。
「うん。いけそうね。すいません。どなたかいらっしゃいませんか。」
満足そうに頷きながらミンヒが声をかける。
ヨンウは店内を眺めながら後ろにあった高い本棚を整理するための可動ハシゴにもたれかかった。
ヨンウの体重で可動ハシゴが勢いよく動く。
「きゃぁ~」
上の方から悲鳴が聞こえた。
驚いて見上げるスタッフの前にひとりの女性がハシゴから恐る恐る降りてきた。
「ごめん、大丈夫かい?まさか人が乗ってるなんて気がつかなくて」
中途半端な長さのフレアスカート。
厚い黒タイツ。
もう春も間近だというのに黒いハイネックのセーターを野暮ったく着こんでいる彼女は謝るヨンウに軽く会釈した後、その場に不似合いな撮影スタッフ達を見回した。
「一体・・・何でしょうか。何か御用ですか?」
怪訝そうに訊ねる。
「店主さんはいらっしゃるかしら。この店をちょっと撮影に貸していただきたいと思って。」
ミンヒは満足そうに店内を見回した。
「店主は古書の仕入れのために海外へ出張中です。店主のいない間は私が責任者ですが・・一体なんの撮影ですか?」
「ファッション誌さ。『クオリティー』って雑誌読んだことない?」
ヨンウがカメラのファインダー越しにあちこち覗きながら答える。
「興味ないので。店主はファッションが嫌いですから必ずお断りすると思います。流行とは自己欺瞞以外の何物でもありません。そのようなものの撮影にお力はお貸しできませんので、お引取り下さい。」
彼女が話し終わる前にスタッフたちは機材のセッテイングを始めていた。
「何の権利があってこんな勝手なこと・・個人の権利の侵害行為です。こんなこと許されません。」
慌ててスタッフの準備を辞めさせようとする彼女を捕まえて
「お願いだから。ね。生活がかかってるのよ。ね、相身互いってことで。ちょっと目をつぶってて」
ミンヒは泣き落としにかかる。
「そんなことを言われても・・」
困惑する彼女を尻目に作業は進んでいく。
「もっと乱雑な方がいいかしら。ちょっと棚から本出してここに積んでみようか」
「ちょっと待って。そこは唯物論、そこは経験主義哲学の棚です。勝手に動かさないで。後で整理が大変になっちゃう。ねえ、彼女に何とか言ってください。」
横でニヤニヤ笑って見ているヨンウに彼女がすがりつくように言う。
「君、名前は?」
「え?ボラです。シム・ボラ」
彼女はごちゃごちゃにされていく棚を困り果てて見つめながら気のない返事をした。
「あ、そう。僕はキム・ヨンウ。よろしく。期待に副えなくて申し訳ない。僕はお抱えカメラマンだから。編集長の決めたことには逆らえないんだ。悪いね。」
あっけらかんと答えるヨンウ。
彼は首から下げていたカメラを被写体に向けて構えた。
「さあ、そろそろ始めようか」
「ねえ、この子も使ったら」
ミンヒはおろおろと店内で立っていたボラの腕を掴む。
「えぇ?」
有無を言わさずモデルの脇に立たされた彼女は大きな本を数冊持たされた。
「彼女にこの本の内容を説明して」
「は?彼女にですか?」
ボラの横にはバッチリとグラビア用の化粧をして派手な衣装を纏い、カメラに向かって変なポーズを取り続けるモデルが立っている。
「こんな理想主義に加担するのは私の主義に反します」
「いいから。本の説明を、終わったらすぐに帰るから」とミンヒ。
彼女は仕方なさそうに持っていた本についての説明を始めた。
「これは付随現象主義について書かれた本です。付随現象主義というのは意識は生理的プロセスに付随するものに過ぎずその有無は重要ではないという説で・・・一体あなた何しているの?」
変なポーズを取り続けているモデルの女性に向かって彼女は呆れたようにつぶやいた。
「はい、OK」
「衣装代え、急いで」
ヨンウの指示の元、スタッフが動き回る。
「もう・・いい加減にしてください。
あなたたちのしていることは私有財産権の不法侵害だわ。私にはあなたたちを訴える権利があるのよ。これが最後通告だから・・出て行ってください。」
たまりかねたボラはスタッフに向かってそう叫んだ。
「わかったから。ね。でもお願いだからもうちょっとお外で待っててもらえるかしら」
「え?何するの?」
慌てる彼女をミンヒはあっという間に店の外に締め出していた。
寂れた店の扉にもたれかかりボラは途方に暮れていた。
何でファッション雑誌の撮影などに協力をしなければならないのか・・。
あまりに自分の主義主張からかけ離れすぎていて全く理解不能だった。
しかもあの一方的で横暴な態度はどうしたものか。
怒りが収まらない。
少しだけ店内が覗き見える窓の隙間からそっと覗く。
悲惨な店内の状況に彼女は大きなため息をついた。
まもなく。
撮影スタッフがドヤドヤと店から出てきた。
「ありがとう。おかげ様で知的な写真が撮れたわ。撮影協力でお店の名前宣伝しておくから。」
一番後ろにいたミンヒはそういい残すと返事も聞かず慌しく車に乗り込みその場を立ち去った。
「冗談じゃないわ」
ボラは吐き捨てるように言うと慌てて店内に入った。
「信じられない・・・めちゃくちゃじゃないの・・・」
本の散乱する店内を呆然と見つめる彼女。
「申し訳ない。思ったより散らかすことになっちゃって・・本の整理・・・手伝うよ。これ・・唯物論はどこの棚?」
本棚の片隅でヨンウがすまなそうに唯物論の文献を数冊抱えて立っていた。
「貸してください」
ボラは彼から本を奪い取るように受け取った。
そして周りの本を拾いながらつぶやいた。
「恥ずかしいと思わないんですか?」
「ごめん・・・いつもはこんなことしないんだけど・・ちょっと焦ってて。強引だったね。」
「そのことじゃなくて。あんな写真撮って」
「あんな写真?」
彼女の言葉を聞き、ヨンウは聞き返す。
「ええ。あんな作り物の写真。才能を無駄に浪費していると思わないんですか?
あんなくだらない女性のくだらないドレスなんか撮って」
「世間じゃ美しい女性の美しいドレスって言われるんだけど」
ヨンウは困ったように頭をかいた。
「まやかしの美しさよ・・そんなの。木の方がずっと美しいわ。どうして木を撮らないんです?」
ボラは本を片付けながらそう訊ねる。
「生活がかかってるんでね。需要にしたがって供給している。木の写真は君が驚くほど需要が少ないんだ。この仕事は楽しいし。収入は抜群。人の金で世界どこにでも行ける。」
「パリにも?」
「ああもちろん。・・パリは好きかい?」
「ええ。お金があったら是非行ってみたい。そこは羨ましいわ。」
そういうボラの表情は夢を見るような美しさがあった。
ヨンウは野暮ったいまだ子供のようなこの女性に少しドキッとした自分に驚く。
「パリは最高さ。毎晩パーティーに行って、シャンパンを浴びるほど飲んで、一時間おきに新しい恋が芽生える」
彼は楽しそうにそういうとケラケラと笑った。
「私はパーティーには興味はないわ。私がパリに行きたいのはフロストル教授の講義を聴きたいから。」
「それは変わっているな」
「フロストル教授は偉大な哲学者で「共感主義の父」なんです。」
「共感主義・・聞いたことないな。」
「心の平和と真の相互理解に近づく哲学です。つまり共感することです。」
「何だか凄そうな学問だね」
ヨンウはちょっとからかったように言う。
「共感の正しい意味知ってます?」
ばかにされてちょっとむっとした表情のボラはそう訊ねた。
「その辺の知識には疎いんだが・・同情みたいなものかな。」
「同情をはるかに超えたものなんです。同情は単に相手の気持ちを理解するだけですけど共感は想像力を働かせて、他人が感じていることを自分も感じるために他人の立場に自分がたってみることなんです。わかってもらえるかしら?」
ヨンウはふと隣で共感について熱く嬉しそうに語る彼女がとても魅力的に思えた。
彼女の乗っている可動ハシゴを引き寄せる。
そしてそっと彼女にキスをした。
「・・どうしてキスなんか・・」戸惑う彼女。
「共感さ。君がキスして欲しいって思ってる気がしたから」
ヨンウはそんな思い付きの出まかせを言った。
「勘違いです。私・・キスなんて貴方からも誰からもされたくありません。」
自分の胸がドキドキと音を立てている・・・そう答えながらボラは自分の初めての胸のときめきに気づき戸惑っていた。
「そうかな。誰だってキスはされたいと思うよ。哲学者でも。」
ヨンウは悪びれた様子もなくそう答えた。
二人の間に沈黙が流れる。
「・・・・お探しの本はここにはございません。お役に立てなくて。他を探してください。」
ボラはそういうと彼から視線をそむけ、本を片付けることに夢中になったふりをした。
「そう・・残念だな。わかりました。じゃ、失礼します。」
ヨンウはそうあっけらかんと答えると脱いだジャケットとカメラを抱え店を後にした。