prototype
「もうホンに会えない…あなたの子供が産めないの…」
湯の中で泣き続ける揺を彼は優しく抱き締めた。
「揺…女性として辛い気持ちはわかるけど…
俺にとっては…お前が一番大切だから…
その問題は…
特別大変なこととは思わないんだ…
うまく言えないけど…
そりゃあホンに会えないのは寂しいけど…
仕方ないことだよ。
ホンだってきっとわかってくれるさ。
アイツは俺の息子だから。
揺は揺だから。
子供を授からなくても何も変わらないよ。
ホンのことは俺たちが忘れないでずっと大切に思い続けてやろう。
それでいいじゃないか。
大丈夫…アイツならわかってくれるさ。
全く。
そんなことでずっと悩んでたのか…
もっと早く話して楽になれば良かったのに。
何でもひとりで考えこむのはお前の悪いところだ」
ビョンホンは優しく微笑みながら揺のおでこを指でつついた。
彼の腕の中はとても温かくて居心地が良かった。
揺は彼さえそばにいてくれたら、どんなことでも頑張れる気がした。
どんなに辛いことがあっても何とかなるような気がした。
目一杯仕事して
目一杯愛し合って
たとえホンに会えなくても
彼がいてくれたら大丈夫だ。
温かい湯の中で彼の温かい胸に抱かれ揺は心からそう思っていた。
「今日は撮影が立て込んでるから遅くなるよ。先に休んでて」
ジャケットの袖に腕を通しながら彼は揺に言った。
「うん。仕事頑張ってね」
揺は彼に軽くキスをした。
「ああ。じゃ行ってくるよ」
いつものように彼を送り出す。
そして辺りはいつものような静けさに包まれていた。
結婚してから数カ月が経っていた。
揺はソウルで暮らしている。
彼はドラマの撮影で忙しい毎日を送っていた。
早朝に出かけると深夜遅くまで帰って来ない。
「揺ちゃん、私、今日お友達と出掛けるけど…」
朝食の片付けをしながらオモニが声をかけた。
「楽しそうですね。どちらにお出かけですか?」
「え?ちょっとお買い物にね…たまには一緒に行く?」
「ありがとうございます。でも…片付けたいこともありますし…
また今度。ゆっくり楽しんできて下さい」
揺はにっこりと微笑んだ。
真っ青な空の下、大きく真っ白なシーツを庭に干す。
立派な乾燥機はあるけれど
揺はこの作業が大好きだった。
まだ春になったばかりで風は冷たかったが、
ひらひらと風になびくシーツを眺めながら揺は深く息を吸い込んだ。
穏やかな幸せ…を噛み締める。
「さて…本でも読もうかな」
誰も散らかす人のいない家の掃除はあっというまに終わった。
広い家なのに
床を磨いて窓を拭いてもそう時間はかからない。
朝のうちに家事を終えると揺は読みかけの本を手にした。
「揺…仕事は?俺に気を使わなくていいからどんどん好きな仕事しろよ」
「うん。今ちょうどやりたいのがなくて…」
そんな会話をずっと繰り返していた。
結婚後
ゆっくり休んでいた揺はこの年の初め、
久しぶりに東京の小此木のもとを訪れた。
「いやぁ…久しぶりだな。つちのこ。
しかしもったいない気もするけどよく決めたよな…。
ま、お前の幸せのためなら仕方ない。
まあ、あいつはいい男だし…。
後のことは後進に任せてソウルで幸せに暮らせ。
で、今日は挨拶まわりか?」
「…まあそんなところです。あの…」
「悪い、これから新作のプロモーション会議に同席なんだ。
また遊びに来たら寄ってよ」
「ええ…頑張って下さい」
慌ただしいその場の雰囲気にのまれていた。
みんな必死で仕事をしていて、
私が暇つぶしにする仕事を下さいなんて言える空気ではなかった。
「じゃお幸せに~」
「早くジュニアの顔見せて下さいね~」
顔見知りのスタッフの声に見送られ、
愛想笑いを浮かべながら事務所を後にした。
「参ったな…」
揺は小さくため息をついた。
仕事辞めるなんて一言も言ったことないのに…
ここ数年、まともな仕事をしていなかったつけを払うはめになったらしい。
いよいよ揺の存在は伝説になっていた。
「橘さん?」
「吉田くん?」
事務所の出口ですれ違ったのは後輩の吉田だった。
「残念です」
吉田は目の前のコーヒーをかき混ぜながらつぶやいた。
「え?」
「僕、橘さんの字幕大好きで。あなたが僕の目標だった…」
「ずいぶん低い目標ね…それに私仕事辞めるなんて言ってないのよ。
ここんとこ不真面目に働きすぎたんで干されちゃったみたい」
揺はそういうと困ったように頭をかいた。
「何だ…そうですよね…橘さんみたいに才能ある人が
仕事簡単に辞めませんよね…でも…」
「ん?」
「現実問題としてどうやって仕事するんですか?」
「…」
「橘さんだってこの世界、
どんなに実力あったってそれだけじゃ渡って行けないこと
わかってるじゃないですか…。
発注先の我が儘聞いて無理聞いてコネ作って…
自分がやりたい仕事やっと回してもらえるそんな世界でしょ?
結局は融通がきく人が優先ですよ。
橘さんあのまま突っ走ってたら
引く手あまたの売れっ子字幕翻訳家だったでしょうけど…
あなたはそのポジションを簡単に降りてしまった…
おかげで僕は今好きなようにやらせてもらってますけど。
韓国にいて…どうやって仕事するんです?」
「…そうね…何とかなるかなって思ってたんだけど…
甘かったみたいね。
今日事務所覗いたらみんな必死に仕事してて、いい出せなかったわ。
さすがにつちのこでも気が引けた」
「橘さん…」
「まあ、何とか考えてみるよ。心配してくれてありがとう」
「もし良かったら…僕の仕事…回しましょうか」
「相変わらず甘いわね吉田くん。
あなただって一作一作が勝負でしょ?
人の心配してないで自分の心配しなさい…でも嬉しいわ。
気持ちだけもらっておく。ありがとう。
あなたも頑張って。ほら、打ち合わせあるんでしょ?
ここはセレブなマダムが奢るから、早く行きなさい」
揺は吉田を追い立てた。
「橘さん…僕、また橘さんの字幕見たいですから、
大好きですから、諦めないで下さいね」
吉田は席を立ちながら言った。
「ありがとう。良きライバルよ、共に頑張ろう!」
揺はにっこり笑うと彼に手を差し出した。
一時間に一ページしか進まない読書に別れを告げ、
揺はDVDのスイッチを入れた。
今日は…そうだ、彼がこの間買ってきてくれたフランス映画。
確かラブロマンスだったよね…。
映画が始まった…。字幕が気になる。
吹き替えのセリフが気になる。
結局、字幕吹き替えなしが一番安心だった。
人が手掛けたものを見るのは精神衛生上よくなかった。
私なら…
ここはそうじゃなくて…
ニュアンス全然違うじゃない。
ひとりDVDの画面に向かってブツブツつぶやく姿は
見苦しくて人に見せられるものではなかった。
「そんなに偉いなら自分でつけてみろよ」
自分で自分に話しかけ、
DVDに勝手に字幕を付け直す遊びをこの数ヶ月何度となく繰り返してきた。
もちろん彼には内緒だった。
心配するのはわかりきっている。
でも…やっぱりこんなこと繰り返してても何も始まらないよな…。
今夜あたり…話してみるか…。
揺はDVDのスイッチを止めた。
広い家の広いキッチンで一人分の夕飯を作りひとりで食べる。
お母さん…ずっとこんな生活してきたのかな…。
ウナちゃんは忙しくて
ソウルの中心地に借りているオフィテルに週に半分以上は泊まっているから、
そう一緒に食事も出来ないし。
「寂しくなかったのかな…」
スプーンが茶碗に当たる音がやけに響いて聞こえた。
食器を洗う。
ここのキッチンで彼と茶碗を洗ったのは…ひと月くらい前だったかな…。
最近撮影が忙しくて朝もギリギリまで休んでいることが多い。
夜だって…ヘトヘトに疲れて帰ってくるのにお皿洗おうなんて…
声をかけられるはずもない。
一人分の食器をあっという間に洗い終わる。
することもないから一時間以上ゆっくり湯船に浸かる。
お風呂をピカピカに磨いてリビングに戻るとオモニが帰っていた。
「お帰りなさい。
良かった、今お風呂頂いてついでにピカピカに磨いたところです。
今日は何かいいもの見つかりました?」
他愛もない会話をして笑う。
彼はまだ帰って来ない。
「揺ちゃん。あのこ待ってると朝になっちゃうから
気にしないで休みなさいな」
オモニの言葉に軽く返事をする。
今日も…話せそうにないな…。
揺はリビングの灯りを消した。
玄関に面した窓から車のテールランプが見えた。
帰って来た。
読んでいた本を閉じ揺は階段をそっと駆け下りた。
玄関のドアをあける。
「揺…起きてたのか…遅くなるから先に休んでって言ったのに」
不意にドアが開いたので外の彼は驚いていた。
「お帰りなさい。寝てたんだけど…パッと目が覚めたのよ。偶然」
「偶然ね…」
ビョンホンはクスッと笑った。
「何?」
怪訝そうな揺。
「いや、凄い偶然だと思って」
彼は笑いながらそういうとパジャマ姿の揺をギュッと抱きしめる。
「いい匂い…」
首筋に唇を這わせささやく。
「あなたは夜の雨の匂いがする…」
抱きしめられた揺はにっこり微笑んでそうつぶやいた。
「最高に幸せだ…」
洗い立てのシーツに滑り込むと彼は大きな声でそう叫んだ。
「ちょっと…お母さんに聞こえるよ」
揺は呆れ顔で笑った。
「だって幸せなんだから仕方ない。
仕事目一杯して疲れて帰って来たら
玄関で可愛い嫁さんがパジャマ姿で出迎えてくれて。
あったかいクッパがパッと出てきてさ…
シャワー浴びて出てきたら、
またまた可愛い嫁さんと美味しいワインがお出迎え。
これ以上の幸せがあるか?揺…ほら早く」
「はいはい」
揺は駄々をこねる子供に答えるように返事をした。
そして彼の腕の中に滑り込む。
「揺…今日は楽しかった?」
「うん。楽しかったよ。あなたは?仕事順調?」
「まあまあかな…現場はいろいろあるからね…」
「そっかぁ…大変だよね…。頑張って。
きっと大変な分いい作品に仕上がるよ。
明日も早いんでしょ?もう休まないと」
揺はベッドサイドのダウンライトを消した。
「揺は幸せか?」
そう尋ねながらも、目を閉じ、
髪を撫でる彼の手は今にも止まろうとしていた。
疲れているよね…
揺は目を閉じた彼をじっと見つめた。
「私はすごく幸せよ」
揺はそうささやくと彼の腕の中でそっと目を閉じた。
数ヶ月後、揺は相変わらずの毎日を過ごしていた。
この日違うことと言えば
久々に彼のインタビュー記事が掲載された雑誌が発売されること。
珍しく揺は車に乗りソウルの街中の書店に向かった。
「ねぇ…読みたいから帰りに買ってきてよ」
昨晩ベッドの中で揺は彼に頼んだ。
「いいよ。読まなくて…。
いつもお前の独占インタビューにちゃんと答えてるだろ。
あのインタビューは大したこと答えてないから…
買うだけ損だよ…それよりほら…
今夜は俺が揺に独占インタビュー…」
結局そのまま愛し合い…雑誌の話はうやむやになってしまった。
「さてさて何が書いてあるかな…」
揺はページをめくった。
彼女は家に帰る気になれず、景徳宮の庭園のベンチにずっと腰掛けていた。
午前中にたどり着いたのにもう日が暮れ初めている…
私一体ここに何時間いるんだろう。
手元には今朝買った雑誌があった。
またペラペラとめくる。
インタビューの終盤のくだり。
―プライベートではご結婚されましたね。おめでとうございます。
早く亡くされたお父様に思い入れが深いビョンホンさんですから
お子さんに対する希望もおありかと思いますが…
そろそろ嬉しいニュースが聞ける予定は?
―僕が子供みたいなものですから妻は急に2人子供がいたら大変だと思いますよ。
しばらくは二人で新婚気分を満喫するのもいいかなと思っています。
―まだ新婚ホヤホヤなんですね。
―おかげさまで。とても幸せです。
彼が読まなくていいと言った理由がわかるような気がした。
きっと私が気にすると思ったに違いない。
いつまでこうやって答えるつもりなんだろう。
誰だってそう思うわよ。
ビョンホンssi…早くにお父様を亡くしたあなたは絶対息子が欲しいって。
息子じゃなくてもウニちゃんみたいに可愛い娘が欲しいって。
思わないはずがないもの…。
あなたの気持ちがわかっていても、やっぱり目の当たりにすると胸が痛いよ。
どう頑張ってもあなたの思いは叶えてあげられない。
それどころかお父様への思いも語れないようにしてしまったかもしれない。
お父様の話を自慢げに嬉しそうにするあなたが大好きだったのに…
私は…あなたにしてあげられることが何もないよ…。
「ただいま帰りました…」
揺が家に帰ると珍しくビョンホンが早くに帰って来ていた。
「どうしたの?具合でも悪い?連絡してくれれば良かったのに…
お母様すいません…」
慌ててキッチンに立つ。
「いいわよ。それより揺ちゃんが一日中出かけるなんて珍しくて。
どこ行ってきたの?楽しかった?」
「…ええ。景徳宮に行ったら楽しくて時間忘れちゃって…」
「あら、そう?」
オモニは少し驚いた顔をしている。
今更…一人で景徳宮に一日中…。
ビョンホンは2人の会話を黙って聞いていた。
揺の顔色をそっと伺う。
「かあさん、悪いけど揺ちょっと借りるよ。夕飯の支度頼んでいいかな」
「どうぞごゆっくり」
オモニはにっこり笑った。
「揺、おいで」
ビョンホンは揺の手を引いて寝室に向かった。
「ちょっと待ってよ…手伝わないと…」
逆らう揺を有無を言わせず寝室に押し込むとベッドに座らせた。
「もう…帰ってきて早々に何?
腕痛いよ…言っておくけど浮気なんてしてないからね」
ふてくされている揺をじっと見つめる。
「お前…読んだだろあれ」
「あれって何」
「雑誌のインタビュー」
「…読んでないよ」
「うそつけ」
「何で…そんなことどうでもいいじゃない。私もう行くよ」
立ち上がろうとする揺の肩を彼の大きな手が抑えこむ。
「揺…」
「もうホンに会えない…あなたの子供が産めないの…」
湯の中で泣き続ける揺を彼は優しく抱き締めた。
「揺…女性として辛い気持ちはわかるけど…
俺にとっては…お前が一番大切だから…
その問題は…
特別大変なこととは思わないんだ…
うまく言えないけど…
そりゃあホンに会えないのは寂しいけど…
仕方ないことだよ。
ホンだってきっとわかってくれるさ。
アイツは俺の息子だから。
揺は揺だから。
子供を授からなくても何も変わらないよ。
ホンのことは俺たちが忘れないでずっと大切に思い続けてやろう。
それでいいじゃないか。
大丈夫…アイツならわかってくれるさ。
全く。
そんなことでずっと悩んでたのか…
もっと早く話して楽になれば良かったのに。
何でもひとりで考えこむのはお前の悪いところだ」
ビョンホンは優しく微笑みながら揺のおでこを指でつついた。
彼の腕の中はとても温かくて居心地が良かった。
揺は彼さえそばにいてくれたら、どんなことでも頑張れる気がした。
どんなに辛いことがあっても何とかなるような気がした。
目一杯仕事して
目一杯愛し合って
たとえホンに会えなくても
彼がいてくれたら大丈夫だ。
温かい湯の中で彼の温かい胸に抱かれ揺は心からそう思っていた。
「今日は撮影が立て込んでるから遅くなるよ。先に休んでて」
ジャケットの袖に腕を通しながら彼は揺に言った。
「うん。仕事頑張ってね」
揺は彼に軽くキスをした。
「ああ。じゃ行ってくるよ」
いつものように彼を送り出す。
そして辺りはいつものような静けさに包まれていた。
結婚してから数カ月が経っていた。
揺はソウルで暮らしている。
彼はドラマの撮影で忙しい毎日を送っていた。
早朝に出かけると深夜遅くまで帰って来ない。
「揺ちゃん、私、今日お友達と出掛けるけど…」
朝食の片付けをしながらオモニが声をかけた。
「楽しそうですね。どちらにお出かけですか?」
「え?ちょっとお買い物にね…たまには一緒に行く?」
「ありがとうございます。でも…片付けたいこともありますし…
また今度。ゆっくり楽しんできて下さい」
揺はにっこりと微笑んだ。
真っ青な空の下、大きく真っ白なシーツを庭に干す。
立派な乾燥機はあるけれど
揺はこの作業が大好きだった。
まだ春になったばかりで風は冷たかったが、
ひらひらと風になびくシーツを眺めながら揺は深く息を吸い込んだ。
穏やかな幸せ…を噛み締める。
「さて…本でも読もうかな」
誰も散らかす人のいない家の掃除はあっというまに終わった。
広い家なのに
床を磨いて窓を拭いてもそう時間はかからない。
朝のうちに家事を終えると揺は読みかけの本を手にした。
「揺…仕事は?俺に気を使わなくていいからどんどん好きな仕事しろよ」
「うん。今ちょうどやりたいのがなくて…」
そんな会話をずっと繰り返していた。
結婚後
ゆっくり休んでいた揺はこの年の初め、
久しぶりに東京の小此木のもとを訪れた。
「いやぁ…久しぶりだな。つちのこ。
しかしもったいない気もするけどよく決めたよな…。
ま、お前の幸せのためなら仕方ない。
まあ、あいつはいい男だし…。
後のことは後進に任せてソウルで幸せに暮らせ。
で、今日は挨拶まわりか?」
「…まあそんなところです。あの…」
「悪い、これから新作のプロモーション会議に同席なんだ。
また遊びに来たら寄ってよ」
「ええ…頑張って下さい」
慌ただしいその場の雰囲気にのまれていた。
みんな必死で仕事をしていて、
私が暇つぶしにする仕事を下さいなんて言える空気ではなかった。
「じゃお幸せに~」
「早くジュニアの顔見せて下さいね~」
顔見知りのスタッフの声に見送られ、
愛想笑いを浮かべながら事務所を後にした。
「参ったな…」
揺は小さくため息をついた。
仕事辞めるなんて一言も言ったことないのに…
ここ数年、まともな仕事をしていなかったつけを払うはめになったらしい。
いよいよ揺の存在は伝説になっていた。
「橘さん?」
「吉田くん?」
事務所の出口ですれ違ったのは後輩の吉田だった。
「残念です」
吉田は目の前のコーヒーをかき混ぜながらつぶやいた。
「え?」
「僕、橘さんの字幕大好きで。あなたが僕の目標だった…」
「ずいぶん低い目標ね…それに私仕事辞めるなんて言ってないのよ。
ここんとこ不真面目に働きすぎたんで干されちゃったみたい」
揺はそういうと困ったように頭をかいた。
「何だ…そうですよね…橘さんみたいに才能ある人が
仕事簡単に辞めませんよね…でも…」
「ん?」
「現実問題としてどうやって仕事するんですか?」
「…」
「橘さんだってこの世界、
どんなに実力あったってそれだけじゃ渡って行けないこと
わかってるじゃないですか…。
発注先の我が儘聞いて無理聞いてコネ作って…
自分がやりたい仕事やっと回してもらえるそんな世界でしょ?
結局は融通がきく人が優先ですよ。
橘さんあのまま突っ走ってたら
引く手あまたの売れっ子字幕翻訳家だったでしょうけど…
あなたはそのポジションを簡単に降りてしまった…
おかげで僕は今好きなようにやらせてもらってますけど。
韓国にいて…どうやって仕事するんです?」
「…そうね…何とかなるかなって思ってたんだけど…
甘かったみたいね。
今日事務所覗いたらみんな必死に仕事してて、いい出せなかったわ。
さすがにつちのこでも気が引けた」
「橘さん…」
「まあ、何とか考えてみるよ。心配してくれてありがとう」
「もし良かったら…僕の仕事…回しましょうか」
「相変わらず甘いわね吉田くん。
あなただって一作一作が勝負でしょ?
人の心配してないで自分の心配しなさい…でも嬉しいわ。
気持ちだけもらっておく。ありがとう。
あなたも頑張って。ほら、打ち合わせあるんでしょ?
ここはセレブなマダムが奢るから、早く行きなさい」
揺は吉田を追い立てた。
「橘さん…僕、また橘さんの字幕見たいですから、
大好きですから、諦めないで下さいね」
吉田は席を立ちながら言った。
「ありがとう。良きライバルよ、共に頑張ろう!」
揺はにっこり笑うと彼に手を差し出した。
一時間に一ページしか進まない読書に別れを告げ、
揺はDVDのスイッチを入れた。
今日は…そうだ、彼がこの間買ってきてくれたフランス映画。
確かラブロマンスだったよね…。
映画が始まった…。字幕が気になる。
吹き替えのセリフが気になる。
結局、字幕吹き替えなしが一番安心だった。
人が手掛けたものを見るのは精神衛生上よくなかった。
私なら…
ここはそうじゃなくて…
ニュアンス全然違うじゃない。
ひとりDVDの画面に向かってブツブツつぶやく姿は
見苦しくて人に見せられるものではなかった。
「そんなに偉いなら自分でつけてみろよ」
自分で自分に話しかけ、
DVDに勝手に字幕を付け直す遊びをこの数ヶ月何度となく繰り返してきた。
もちろん彼には内緒だった。
心配するのはわかりきっている。
でも…やっぱりこんなこと繰り返してても何も始まらないよな…。
今夜あたり…話してみるか…。
揺はDVDのスイッチを止めた。
広い家の広いキッチンで一人分の夕飯を作りひとりで食べる。
お母さん…ずっとこんな生活してきたのかな…。
ウナちゃんは忙しくて
ソウルの中心地に借りているオフィテルに週に半分以上は泊まっているから、
そう一緒に食事も出来ないし。
「寂しくなかったのかな…」
スプーンが茶碗に当たる音がやけに響いて聞こえた。
食器を洗う。
ここのキッチンで彼と茶碗を洗ったのは…ひと月くらい前だったかな…。
最近撮影が忙しくて朝もギリギリまで休んでいることが多い。
夜だって…ヘトヘトに疲れて帰ってくるのにお皿洗おうなんて…
声をかけられるはずもない。
一人分の食器をあっという間に洗い終わる。
することもないから一時間以上ゆっくり湯船に浸かる。
お風呂をピカピカに磨いてリビングに戻るとオモニが帰っていた。
「お帰りなさい。
良かった、今お風呂頂いてついでにピカピカに磨いたところです。
今日は何かいいもの見つかりました?」
他愛もない会話をして笑う。
彼はまだ帰って来ない。
「揺ちゃん。あのこ待ってると朝になっちゃうから
気にしないで休みなさいな」
オモニの言葉に軽く返事をする。
今日も…話せそうにないな…。
揺はリビングの灯りを消した。
玄関に面した窓から車のテールランプが見えた。
帰って来た。
読んでいた本を閉じ揺は階段をそっと駆け下りた。
玄関のドアをあける。
「揺…起きてたのか…遅くなるから先に休んでって言ったのに」
不意にドアが開いたので外の彼は驚いていた。
「お帰りなさい。寝てたんだけど…パッと目が覚めたのよ。偶然」
「偶然ね…」
ビョンホンはクスッと笑った。
「何?」
怪訝そうな揺。
「いや、凄い偶然だと思って」
彼は笑いながらそういうとパジャマ姿の揺をギュッと抱きしめる。
「いい匂い…」
首筋に唇を這わせささやく。
「あなたは夜の雨の匂いがする…」
抱きしめられた揺はにっこり微笑んでそうつぶやいた。
「最高に幸せだ…」
洗い立てのシーツに滑り込むと彼は大きな声でそう叫んだ。
「ちょっと…お母さんに聞こえるよ」
揺は呆れ顔で笑った。
「だって幸せなんだから仕方ない。
仕事目一杯して疲れて帰って来たら
玄関で可愛い嫁さんがパジャマ姿で出迎えてくれて。
あったかいクッパがパッと出てきてさ…
シャワー浴びて出てきたら、
またまた可愛い嫁さんと美味しいワインがお出迎え。
これ以上の幸せがあるか?揺…ほら早く」
「はいはい」
揺は駄々をこねる子供に答えるように返事をした。
そして彼の腕の中に滑り込む。
「揺…今日は楽しかった?」
「うん。楽しかったよ。あなたは?仕事順調?」
「まあまあかな…現場はいろいろあるからね…」
「そっかぁ…大変だよね…。頑張って。
きっと大変な分いい作品に仕上がるよ。
明日も早いんでしょ?もう休まないと」
揺はベッドサイドのダウンライトを消した。
「揺は幸せか?」
そう尋ねながらも、目を閉じ、
髪を撫でる彼の手は今にも止まろうとしていた。
疲れているよね…
揺は目を閉じた彼をじっと見つめた。
「私はすごく幸せよ」
揺はそうささやくと彼の腕の中でそっと目を閉じた。
数ヶ月後、揺は相変わらずの毎日を過ごしていた。
この日違うことと言えば
久々に彼のインタビュー記事が掲載された雑誌が発売されること。
珍しく揺は車に乗りソウルの街中の書店に向かった。
「ねぇ…読みたいから帰りに買ってきてよ」
昨晩ベッドの中で揺は彼に頼んだ。
「いいよ。読まなくて…。
いつもお前の独占インタビューにちゃんと答えてるだろ。
あのインタビューは大したこと答えてないから…
買うだけ損だよ…それよりほら…
今夜は俺が揺に独占インタビュー…」
結局そのまま愛し合い…雑誌の話はうやむやになってしまった。
「さてさて何が書いてあるかな…」
揺はページをめくった。
彼女は家に帰る気になれず、景徳宮の庭園のベンチにずっと腰掛けていた。
午前中にたどり着いたのにもう日が暮れ初めている…
私一体ここに何時間いるんだろう。
手元には今朝買った雑誌があった。
またペラペラとめくる。
インタビューの終盤のくだり。
―プライベートではご結婚されましたね。おめでとうございます。
早く亡くされたお父様に思い入れが深いビョンホンさんですから
お子さんに対する希望もおありかと思いますが…
そろそろ嬉しいニュースが聞ける予定は?
―僕が子供みたいなものですから妻は急に2人子供がいたら大変だと思いますよ。
しばらくは二人で新婚気分を満喫するのもいいかなと思っています。
―まだ新婚ホヤホヤなんですね。
―おかげさまで。とても幸せです。
彼が読まなくていいと言った理由がわかるような気がした。
きっと私が気にすると思ったに違いない。
いつまでこうやって答えるつもりなんだろう。
誰だってそう思うわよ。
ビョンホンssi…早くにお父様を亡くしたあなたは絶対息子が欲しいって。
息子じゃなくてもウニちゃんみたいに可愛い娘が欲しいって。
思わないはずがないもの…。
あなたの気持ちがわかっていても、やっぱり目の当たりにすると胸が痛いよ。
どう頑張ってもあなたの思いは叶えてあげられない。
それどころかお父様への思いも語れないようにしてしまったかもしれない。
お父様の話を自慢げに嬉しそうにするあなたが大好きだったのに…
私は…あなたにしてあげられることが何もないよ…。
「ただいま帰りました…」
揺が家に帰ると珍しくビョンホンが早くに帰って来ていた。
「どうしたの?具合でも悪い?連絡してくれれば良かったのに…
お母様すいません…」
慌ててキッチンに立つ。
「いいわよ。それより揺ちゃんが一日中出かけるなんて珍しくて。
どこ行ってきたの?楽しかった?」
「…ええ。景徳宮に行ったら楽しくて時間忘れちゃって…」
「あら、そう?」
オモニは少し驚いた顔をしている。
今更…一人で景徳宮に一日中…。
ビョンホンは2人の会話を黙って聞いていた。
揺の顔色をそっと伺う。
「かあさん、悪いけど揺ちょっと借りるよ。夕飯の支度頼んでいいかな」
「どうぞごゆっくり」
オモニはにっこり笑った。
「揺、おいで」
ビョンホンは揺の手を引いて寝室に向かった。
「ちょっと待ってよ…手伝わないと…」
逆らう揺を有無を言わせず寝室に押し込むとベッドに座らせた。
「もう…帰ってきて早々に何?
腕痛いよ…言っておくけど浮気なんてしてないからね」
ふてくされている揺をじっと見つめる。
「お前…読んだだろあれ」
「あれって何」
「雑誌のインタビュー」
「…読んでないよ」
「うそつけ」
「何で…そんなことどうでもいいじゃない。私もう行くよ」
立ち上がろうとする揺の肩を彼の大きな手が抑えこむ。
「揺…」
の。。最高に愛してる!
の。。彼の想いは揺ちゃんには届かないの??
もう泣けてるから。。
けれど。
揺ちゃんに逢えて嬉しい。
次話待ってますね。
彼のお声に包まれて眠るとします。
夢見よっ(笑)
こんばんは。
さっそくに揺さんにあわせてくれてありがとうございます。
揺さん、結婚したんだ~。よかった、よかった。
でも心は複雑・・・。
幸せなのに、悲しくてせつない・・・。
彼に心救ってもらって乗り切っても
長い人生の中で、
何度も何度も思い悩むのでしょうね
彼の幸せを思って・・・。
でも彼の幸せは?自分の幸せは?
ほんと心は複雑・・・。
久々にビョンホンと揺ちゃんに会えたわ~
嬉しいけど・・辛そうだな・・。
感の良い2人だけに言葉は多くは要らないわね。
分かりすぎてしまう2人、分かるだけに放っておけない。
韓国で長男で生ま育ったときに背負う物の大きさ、
これは当人にとって大変な重圧なのでしょうね。
きっとビョンホンも大きな荷物を背負っているのよね・・。
それの分かる揺ちゃんはもっと辛いわ。
考えるとエンドレス。
やはり揺ちゃんは仕事をするのが一番良いのかな・・。
なんて思ってしまったわ。
ちょっと多忙故2-3日お邪魔しなかったら、
サプライズなプレゼント頂いた気分だわ。
ありがとうございます。
ビョンホン氏と揺ちゃん、お久しぶりです
幸せな新婚生活送ってる様子でよかった
お互いの幸せを一番に考える二人だからきっと悩みに悩んでしまうのかな
ビョンホン氏の幸せって揺ちゃんと同じ人生を歩いていく事だろうけど、揺ちゃんは違うのね。もっともっと彼の幸せな顔を見ることなのかな。辛いな
彼の言葉が揺ちゃんの心を癒してくれる事を願ってます。
なんせ、ビョンホンの奥さんだもんね。
どう生きるのが、遥にとって幸せなのか・・・
考えちゃいました。
びょんほんssiと揺ちゃんはどうしてるかなと思ってたら、
新婚の2人だーーーー!
これって、驟雨の前にお蔵入りさせたお話、ですかね?
心配・不安でどきどき。読みたいような読みたくないような、ううん、やっぱり読まずにはいられない!
続き待ってます♪
わ~いって、喜んだけど、出だしから・・・
揺ちゃんに逢えて嬉しい
読んだら、切なかった
でも、やっぱり、揺ちゃんに逢えるのは、嬉しい(笑)
続き、お待ちしています
ごめんなさい・・。
次のトピに書いたとおり、
このお話には続きがありません。
たぶん・・彼の想いは届きすぎるほど届いていて。
だから揺は何も言わず、
ただ幸せだと思い続け
彼のそばにいる生活を選んだのだと思います。
そんな幸せもあっていい気がするんだけど・・。
彼らしい
揺らしい
それがとても難しい気がする。
揺ちゃんはまだ今頃放浪の旅の途中でしょうか。
どうしているかなぁ~~。
きっと元気だと。
夢いっぱい見て下さいね~。
せっかく揺ちゃんに会っていただいたのに
こんなお話でごめんなさい。
人の幸せとは形が見えないもの
それぞれの笑顔が違うみたいに・・
だと思う。
彼の幸せな笑顔が見たくて結婚した揺は
このあと、彼の辛い顔を見ることになり。
彼もまた揺を幸せにしたいのに
思い通りにならない・・・。
お互いお互いの幸せを一番に考えているのに
うまくいかない・・。
そんな悲しいお話の冒頭。
とっても複雑な胸の内なのです。
いつか・・番外編でも書いてぱぁ~とね。
揺ちゃんも彼も元気できっと自分の天分全うしてるわ。
だからbyung0712さんも元気出して下さい~。
この創作。
実は妙なリアリティを追求しています。
bumomさんのおっしゃるような
韓国の長男として育った彼だからこその苦悩・・
徴兵を免除されるお国柄だという現実がそこにはあると私も思います。
このように簡単にはもしかしたら結婚できないかもしれない・・・。
それを踏まえての「驟雨」でした。
そしてこちら。
それでも強引に結ばれた二人は
その後多くの代償を払うことになります。
私が考えたプロットでは
このあと、苦悩する揺を見るに見かねた彼は
揺に仕事をするように勧めます。
真白なシーツで幸せだ~と叫ぶ彼を思い
ひとりで毎日ご飯を食べるオモニを思い
揺は同意するものの極力両立させることを自ら条件に出します。
日帰り、徹夜と無理が続き
結局体を壊す彼女。
それを見かねた彼は日本に戻るように
彼女を説得します。
そうこうするうちにマスコミが彼の私生活を面白おかしく書きたてる。
日本人妻との別居の真相・・・
それを知った揺は仕事を捨てて韓国にまた戻ることになります。
息をひそめたように静かに暮らす揺
彼女を心配する彼・・・
こうやって簡単に追っただけでも
この話の未来には救いがない・・・。
仕事を持つ女性の現実の厳しさと
彼が芸能人であるという事実と
後世に遺伝子を残せない重圧と
国際結婚に関する偏見もあるでしょうか
妙なリアリテイがそこにはあって。
その壁は厚く二人の前に立ちふさがるのです。
やっぱだめだ・・この話。(笑)
妙に熱く語ってしまいました。
ご静聴ありがとうございました。