これはハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーの「プレイバック」という作品で私立探偵フィリップ・マーロウが口にするセリフである。(実際には翻訳の結果このように訳された言葉のようだが)
この言葉とは、僕は中学生の頃に出会った。
昔からあまり広く人間関係を築くのが苦手で「普通の」人たちがあまり悩んでいなさそうなところで悩んだり躓いたりしてしまうことのあった僕にとって、この言葉はなんだか強烈に心の中に残った。
そうか、強くなければいきていけないのか、そして、優しくなければ生きる資格がない、これはなかなかいい言葉だな、これからの人生で生きるためには強くあろうとし、そしてかつ優しさを持って生きていくようにしよう、という風に当時の僕は思い、それからはこの言葉が座右の銘になったといってもよい。色々な場面でこの言葉を意識しながら生きてきた。
だが、最近、あまりに後半の言葉に僕自身は気をつけすぎていたのではないか、という風に思うようになった。というのも、「優しさ」を求めすぎたせいか、僕のそもそもの優柔不断な性格のせいなのかは分からないが、他の人にひどい言葉を言わないようにしよう、そしてできる限り人の助けになるようにしよう、と思いすぎて逆にあまり人の間に入っていけなくなってきたような感じなのだ。
しかも、そういう場合に、「自分は優しいのだ」という言い訳ができてしまうというのがまたいけない。そのうえ、冗談の範疇で会話のなかに相手を馬鹿にするような言葉を使う人を見てそれは冗談で言っているだけなのに「あいつは優しくないな」みたいなことを無意識のうちに言っている自分もいる。
これではいけない。
そもそも、前半の「強くなければ生きていけない」という言葉の意味が分かっていないことになる。優しいだけの人間が生きていけるわけはないから。
最近スーパーでバイトをするようになったりしてやっと少し実際に経験を経て思うことだが、生きていく上では色々傷つけ、傷つけあって生きているのだから、少々のことで優しくないからどうのこうのと言っていてはとても生きていくことなどできない。「あんたが優しいのは分かった。でも、実際に仕事ができなければ社会人としては価値はない。」ということになってしまう。
そもそも、本当に優しくない人なんてなかなかいないという気がする。なんだかんだでどんな人も思いやりをもって人に接することはできるものだし、本当に目の前に困っているひとがいれば手を差し伸べたり、助言したり、あるいは厳しい言葉をかけながらも成長を見守るということなどは誰でもできると僕は思っている。
やはり、強くなければ生きていけない、のである。まあ、そもそも「強い」ってなんのことだ、とも感じるのだが、それはおそらく僕がずっと考えながらその都度得た答えを人生で活かしていくことになるものなのだろう…。
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