「敵がいなけりゃ」歌詞
これはB'zの曲で、1995年発売のアルバム「LOOSE」に収録されている楽曲です。
この曲を作詞されている稲葉さんが歌詞にどんな意味を込めたのかの本当のところは知りようもない処ですが、これまで僕はこの曲を二つの意味で聴いてきました。
一つ目は、自分にとって嫌な相手がいたり、自分に対して嫌な感情をもっているであろう人がいる時、その相手を単に嫌うというより、全身で憎むことによりむしろそれをプラスの方向の力に変えて目の前のやらなければならないことを処理していこうとするという意図。
二つ目は、いわば一つ目の派生形のようなもので自分にとって特に嫌な相手もおらず、周囲は(自分にとって)いい人ばかりである時、そのような時は自分を高める手段に乏しい時でもあるので、そこで憎むべき相手として仮想「敵」を設定し、その仮想敵に対する(仮想的な)憎しみを糧にしてやるべきことをこなそうという意図。
そして、両方の場合においてその「敵」はあくまで自分の脳内に留めておいて実際にその相手に接する時は礼儀を失しないように気をつけておく…(これは実際にはできているのかどうか怪しい)。
とにかく、このような考えで僕は「敵がいなけりゃ」という曲を結構いろんな場面で聴いてきて、どうしても「弱さ」に傾きそうになる自分の心を常に鼓舞してきました。B'zの曲には僕にとってこのような一時的に精神を安定化させることがてきる麻薬のような曲が多く、ずっと好きで聴いてきました(B'zでなくとも、一時的に精神を安定化させることができる、というのはクラシック音楽であろうが、ポピュラーな音楽であろうが誰でも自分の好きな音楽を聴くときに感じることなのかもしれないが)。
まあ、「敵」の存在というのはある意味重要なもので、個人にとってもそれは上記のようなメカニズムで(一言でいえば「スター・ウォーズ」の「ダークサイド」みないな!?笑)自分を奮い立たせることに作用し、そして集団にとっても、外部に敵を作ることで内部の対立から目をそらさせ、内部の結束力を高めるという作用があります。
それにしても、なんだか「敵」の存在により前に進もうという姿勢に段々僕も疲れてきた…。
その考え方にすがって生きてきた部分はあるが、本当はもっと周囲の人間を信頼して頼ったり時には頼られたりしながら生きていくのが本当は良い生き方なのではないか、と最近考えるのです。
つまり、自分はなかなか難しく生きにくい生き方をしており、そしてそれを自ら選んでいる可能性がある、と…。
「強くなければ生きていけない」としてその考えを変えたことはいままでなかったが、実は弱いままでも生きていけるのではないか、そして弱いまま生きているのが本来の人間の姿なのではないか、とも思うようになってきた。
というのも、いままで会ってきた人達も、なんだかんだでそれぞれに弱い部分を持っているものでしかもその弱さを克服しているというよりはその弱さとともに生きているのではないか(実際どうかはわからないが)、という風に見えてきたからだ。
だが、それでも、本当に信じあえる関係などあるのか…?
相当怪しいところでもある。
まあ、世の中に真実などなく、あるのはタテマエという名のウソばかりなのかも…
そして、真の「強さ」とは…?
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