一体人間はどのような時に幸福を感ずるのであろうか?
ゲームをしたり、友達と遊んだりして楽しいことをしているとき?
恋人との時間を過ごしているとき?
それとも自分の趣味に没頭しているとき?
以上は一般的に幸福を人が感じるのではないかと僕が思うことを挙げてみたものである。
だがしかし、題名からも分かるのではないかと思うのだが、僕はここでこのような一般的な幸福論を語ろうというものではない。
そもそもそのような「幸福論」は巷に溢れかえっているのでそれを読んでいただければよいので、ここでは僕なりの理論を展開させていただこうと思う。
今回「しあわせ論」という題名にして、「幸せ」という言葉をひらがなで表現したのには理由があり、これは分かる方なら分かると思うのだが、掛け言葉(?)となっている。
相当なこじつけになってしまうが、ここで、僕は「しあわせ」という言葉を「死(=し)と隣り合(=あ)わせ」という風にムリヤリ解釈しております 笑。
これはつまり、どういうことかと言うと、どんな人間であってもいつ死んでしまうのかは分からないのであり、たとえ今日この瞬間に生きていたとしても次の瞬間に交通事故で死んでしまうかもしれず、いつ死んでしまうか分からないものである、そしてたとえ天命を全うしようとも最後に「死」が全ての人間を待っているのだ、という現実をまずしっかりと受け止め、自分は死と共にある、つまり自分は「しあわせ(=幸せ)」なのであると考えるということである。
ムリヤリすぎる考えであるが、何か嫌なことがあったときに自分は不幸だ、などと考えるよりは自分を「しあわせ」だと考えることでしっかりと現実に対する正しい認識の上に立って自分の置かれている状況を見つめ直すことができる部分もあるのではないかと思うのである。
そもそも「死を意識する」ということはある種非常に重要なことであり、有名な「武士道とは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)という文章にも顕著であるが、生というものは死と共にあるという考え方はそもそも昔から存在するものなのだ。
そして、それは一面の真理でもある。
死を意識して生きることは、その生を更に際立たせるのだ。
いつ何時でも死を意識することで「今」に集中することができるということだ。
さて、これを読んだみなさん、自分は「しあわせ」なんだナァ~、と思えるようになってきたでしょう!?
て、そんなことはないか 笑。
最新の画像もっと見る
最近の「人生哲学」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事