今回の記事ではB'zの稲葉さんが2024年に発表したアルバム「只者」を簡単に紹介します。
この作品は稲葉さんが自らを「只者」=「何者でもない一人の人間」として、そのことを表現したようなアルバムになっています。
稲葉さんのような人が「只者」であるはずはないだろ‼とも突っ込みたくもなるような気もしますが、どうやらそういうわけでもなさそうです。
聴いてみて、稲葉さんが「普通の人」であると自らを自覚しているからこそ色々な結果を出せてきたのだということがよく分かるようなアルバムだと感じました。
曲自体はB'zの激しいイメージとは異なる曲も多く、全体として落ち着いた仕上がりになっているのではないかと思っています。
曲それぞれに対しては特に言及はしませんが、B'zの稲葉さんが自らを「只者」としている背景などに触れながらちょっとだけ思ったことを書いてみようかなと。
稲葉さんはインタビューなどでは以下のように語っています。
「普通の男ですし、際立った才能があったわけでもない。だけどそんな自分だから、出会いやその幸福みたいなものが、どれだけ大切なのかよくわかっているんですよ。結局、僕みたいな普通の人間がいっぱしのものになりたいなら、目の前のことを必死でやるしかないんですよね。他の人の何倍、何百倍もやらないと、生まれながらに何かを持っているような人には敵わない。それだけは誇れるというか、やってきたからここにいるという自負はあるので」
「僕はたまたまそれをやり続けることができた。必死でやれた。そんな自分に期待してる人が近くにいてくれた。それがとても大きかったんだと思います」
結局、自らを普通の人間と考えているからこそ、自分の足りない部分をたくさん自覚するからこそそれを補おうとしっかり努力することができたということなのだと思います。
自分を特別な人間だと思っていたら他の人よりも努力しようとは思わないはずです。
ただ、確かにそれを本当に信じて自分の足りないところを自覚して努力を継続できたことはむしろ「只者」ではないかもしれません。
要は、稲葉さんは「只者」=「普通の人」であると自らを自覚「し続けた」からこそ自らを高める努力を継続でき、それが故に他人からみると「只者」ではないような結果を出すことが出来たのではないでしょうか。
継続して自分を「只者」と自覚し続けることはかなり難しいと思います。
普通はなにか結果を出してしまうと、自らを「只者」と自覚し続けられないですから。
そこが稲葉さんは違ったのかもしれないです。
つまり、多少結果を出しただけでは満足せず、自分にダメ出しをし続けて、仕事には妥協せず、真面目に取り組んだからこその結果かもしれません。
以上、まとめると、
「只者」であるところの稲葉さんは、自らを「只者である」と自覚「し続け」たが故に只者ではないような結果を出せた。
ということなのだと考えます。
今回も読んで下さりありがとうございました。
ちなみに、個人的にこのアルバムで一番好きな曲は「シャッター」です。