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敦賀茶町台場物語 その1

2021年03月29日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その1

 

越前敦賀は天然の良港であり、町は湊と共に発展してきた。海運が発達すると、数えきれないほどの大船小船が、浜辺から伸びた桟橋やずっと沖合にまで、年中停泊係留されるようになった。船荷の積み降ろしに小舟が行き交い、船頭や水主に乗客らが大船に乗り込み、降りてきた。その男たちを目当てに茶屋遊郭宿屋の女たちは小舟で客引きに出かける。陸に上がる前に客を捉まえてしまおうというのだ。せわしない風習が伝わって来たものだと、昔ながらの敦賀の商人は眉を顰めるが、よその湊で流行っているものを止める訳にはいかない。浜辺だけではない、船の上でも嬌声が上がる。

その湊の浜から南へ、敦賀の町がひろがっている。町人が住む長屋や、各種商人の町屋が立ち並び、大小の寺院や神社に祠などもある。縦横に走る川には荷を積んだ舟が浮かび、舟から川岸の倉へと荷を運ぶ人足の掛け声がいくつも聞こえてくる。

往来には魚売りの女が頭に生きのいい魚の入った盥を載せて「かれい、召せよー。あじ、いらんかねー」などと声をかけている。近在の村々からは野菜を載せた笊を天秤棒で担いだ百姓が、商家の裏口や長屋の狭い通りまでを練り歩き、家人と親しげに喋りながら商いに精を出している。

敦賀の町の中ほどに庄町(しょうのまち)がある。庄の川の東岸にあり、西岸の御陣屋や奉行所とは庄の橋で繋がっている。庄の橋の庄の字は、昔は兄鷹と書いた。兄鷹と書いてしょうと読むのは、鷹の生態から来ている。鷹匠の言葉なのだ。鷹の夫婦は、雄が雌よりも小さい。それで、雄を兄鷹と書いて小(しょう)と呼び、雌を弟鷹と書いて大(だい)と呼ぶ。

鷹匠にしか通じない言葉を橋の名に付けたのには訳がある。

我が国に鷹匠の秘術が伝わったのは、唐から鷹匠がやって来て教えたからであった。唐人鷹匠が鷹狩りの秘術を教えた所が敦賀津の、この橋下の河原辺りだった。それで橋の名が兄鷹(しょう)の橋となり、橋詰め町の町名が兄鷹の町となった。橋に鷹のとまる図が、今でも庄の町の町印である。

鷹匠各流派の鷹書には、敦賀津で唐人鷹匠から鷹狩りの秘伝を習得したのは、京の都からやって来た若侍、源政頼(みなもとのせいらい)だと伝わっている。政頼は武人として朝廷からの信頼が厚く、後に出羽守として奥羽へ赴いた。しかし政頼は、蝦夷討伐には消極的だったと記録に残っている。鷹狩りに使う鷹は、雛もしくは成長後に捕まえて馴らす。奥羽は良鷹の産地なので、蝦夷との難しい時期だったが、内心嬉々として赴いただろう。政頼はもちろん鷹飼いの祖として名を馳せた。政頼死する時、背に鷹の羽が生え、顔も鷹のような嘴になったとまで噂された。

 



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