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敦賀茶町台場物語 その15

2021年04月13日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その15

 

二年後のニ月、前年十二月に敦賀で降伏した水戸天狗党の浪士が処刑された。斬首の刑である。四日に武田耕雲斎ら二十四人、十五日に百三十四人、十六日に百三人、十九日に七十六人、二十三日には十六人が、やはり衆人が見守る中で首をはねられた。戦争でもないのに、これだけの大人数が殺されるとは、目撃した敦賀の人でさえ信じられない思いだったにちがいない。世も末だと震え上がったことだろう。

お絹は命が助かっただけ拾い物なのだ。刑罰は見せしめとして行なわれる。お絹のような事をするなと見せつけられる。しかし世情は動揺している。お絹はあまりにもあくど過ぎただけで、もっと上手くやるべきだという教訓にしかならない。

上手くやれるのは、財カのあるものだけである。又吉のような普通の職人は、隠し持つ金銀も何もない。しかも、嫌な台場の仕事にかり出されて、いらいらするばかりだ。現場ではちょっとした事で喧嘩になる。監督の役人や肝煎がいなければ、すぐに殴り合いが始まって収拾がつかないことだろう。いつもは何でもない事なのに、自分でも不思議なほど腹が立ってしまう。

金ケ崎の台場は、茶町のとはまったく違う形のものになった。一方十間ばかりの方形である。前方は石を積んだが、残り三方は土手で囲んだ。砲台座は三つある。台座の脇には池を設けた。

この台場にかかる費用は、東町の大和田荘兵衛が一切を献金した。長州方面の政情が不安定で、西廻り航路が敬遠されて敦賀に入る船が増えたせいで商いが伸びてもいたが、半ば強制して藩が出させたのだと噂された。

不安の材料は後を絶たない。

この年六月には、敦賀に農兵の制度ができた。村から石高に応じて二百人を招集し、町中からその費用に充てるため年に米二百俵を出させた。農兵は十二隊に分けられて、各隊に農兵頭一人がおかれた。

農兵は銃砲隊の訓練をしたが、日常の帯刀を認められた。その上、弓馬以外の武芸に励めば藩の引き立てもあるとされた。秀吉による刀狩り以来、農民は武器の所持を禁止され、農民から武士になる道も固く閉ざされていた。それがこの制度で農民に帯刀を許し、その志があれば兵士として出世も可能となった。 武士の身分はわずか「弓馬」の芸で支えられると自らが認めた。身分制度の解体は、武士の手でなされたのだ。

翌元治元(一八六四)年五月、小浜から城代三浦帯刀が敦賀へ出張してきて、二十一日に松原で演習が行なわれた。この演習は本勝寺表門から繰り出して唐仁橋町通りを西浜から今橋を渡り、茶町を通って松原へと向かったものだった。

十九日には町奉行所からのお触れがあった。

『明後二十一日松原に於て三浦帯刀殿一手の調練有り、浜島寺町本勝寺表門より人数繰り出して、唐仁橋町通り西浜、それより今橋茶町通り松原へ押し出される。この行列の拝見は、町家軒下で見る分には構わないが、通りへ出ることは許されない。不敬の無いようにすること。松原御備場台場近辺への立ち寄りは禁止するが、遠方より拝見する分には構わない。』

この演習も含めて、台場や農兵など、何のための武装強化なのか分かりにくい。当時の人々は何と心得ていたのだろう。単純に、外国からの攻撃に備えるためだと思っていたのか? それは考えられない。勤皇か倒幕か、攘夷か開国か、当時の世論はいち速く敦賀へも伝わったはずだ。

しかしまさか この年の暮れに水戸浪士の事件が起こるとは、誰も思っていなかった。十一月に大子村を出発した天狗党が、陸路京を目指して進軍した。各所で行く手を遮られ、ついに八百人の浪士の部隊が敦賀の町へ入る手前で、加賀藩から派遣された藩士に降伏した。

水戸浪士の進軍で、敦賀の町は大騷ぎとなった。台場に据えるために製造した大砲を山に向け、農兵も差し向けられた。海の防御とばかりに思っていたものを、内陸に使うとされたのだ。しかも攻めてくるのは外国の軍隊ではない。動皇の志高き武士である。

敦賀の農兵や町人に、水戸浪士と戦う意思はない。異国から攻めて来たら戦おうとの漠然とした思いしかなかった。しかし、水戸浪士の部隊が敦賀の町に入って来たらどうするべきか。黙って見ているわけにも行かない。幸いなことに、水戸の浪士たちにも戦う意思は毛頭なかった。浪士たちはただ、京へ行きたい、慶喜に会いたいだけであった。それなのに道を逸れて、敦賀に入ってはどうしようもない。方向が反対になる。

加賀藩の武士たちは水戸の浪士に同情し、それならばと浪士たちは降伏を決めた。幕府の官僚ばかりが浪士を迎えたならば、必ずや一戦が開始されていただろう。そうなれば敦賀の町は破壊され、広く燃えてしまうところを、間一髪助かった。浪士の志を受け止めて、同じ武士として対峙した加賀藩士のおかげである。

温情ある加賀藩とは違って、小浜藩は浪士たちを苛酷に扱った。敦賀町内の寺に軟禁されていた浪士たちは、小浜藩の手に移されるとともに船町の荷蔵に収容された。その蔵の中では、浪士たちの足に足枷がはめられた。

一月の下旬になり、又吉は突如奉行所へ呼び出された。訳の分からないままに、又吉は御陣屋の塀の中に引き入れられた。そして、そこに敦賀中の大工や指物家具職人が集められたのを知った。そうして又吉たちは足枷を作らされたのである。幕吏に引き渡された水戸浪士八百二十余名にはめる足枷を、又吉たち敦賀の職人が作らされ、作り終えるまで帰宅を許されなかった。

又吉は複雑な心情だった。水戸の浪士と自分が関わりになるとは、思ってもみなかった。確かに、降伏前には水戸浪士を恐れもしたが、戦うつもりはなく潔く降伏したことを知ってからは、少なからず同情の思いまであった。しかし、しよせん身分違いの武士のこと、大工の自分とは住む世界が別なので、それ以上の考えは持たなかった。

酒屋や湯屋では、いろいろに言う者もいた。浪士が可哀相だと言うのは誰も同じで、武田耕雲斎がいかに立派な男であるのかを自分のことのように喋る者や、水戸の殿様が情けないとか、いやそれが大将たるべき者の道であるとか、さまざまに言い合った。

又吉もその中に加わり、知ったかぶりをしたこともある。

 



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