敦賀茶町台場物語 その2
庄町の長屋に住む大工の又吉は、今朝も茶町(ちゃまち)の浜へ土運び人足の仕事に出かけた。秋晴れの朝はすがすがしくて気持ちがいいが、又吉の足取りは幾分動きが重い。好きな大工仕事に行くのではないからだ。又吉の本職である大工の仕事は、当分のあいだ出来そうにない。奉行所から禁止されているのだ。
又吉は三十半ばを過ぎた腕のよい大工で、大工仲間の内ではまだ若い方だが、棟梁たちからは一目置かれており、若い衆からも頼りにされている。上背もあり、きりっとした男前だと言われている。役者絵の誰それに似ているとは何度も言われたが、又吉自身は本気にしていない。
又吉には紙漉き屋の娘である妻のお美代との間に三人の子供がいる。その日暮らしの家計だが、何とか生活できていた。しかし、本業の大工の仕事がしばらく出来ず、人足の賃銀は一律なので又吉にとっては損になる。その上、家屋普請に付き物の祝儀や付け届けのまったく無い分、収入は随分減っている。奉行所からの命令だから、仕方なく人足仕事に行くのだった。
茶町の浜へ行くには、庄の川を西へ渡らなければならない。庄の川には橋が二つ架かっている。上から庄の橋と今橋(いまばし)の二つで、庄町にあるのが庄の橋だ。だから、庄の橋を渡るのが又吉の家から一番近いのだが、庄の橋の西詰めには奉行所や御陣屋といった役所があり、橋には槍を掴んだ番人の下役人が二人立っている。又吉は庄の橋を渡らずに町中を浜の方へ下って庄の川の河口近くまで行き、北隣の金ケ辻子町(かねがずしまち)から今橋を渡ることにしている。
金ヶ辻子町はその昔に、佐渡の金山の役人が住んだとか、出雲の国から来た鉄売りが住んだとも言われている。今では鉄問屋もあるが、敦賀中の鍛冶屋が集まっていた。金物には縁がある町だ。
何も悪いことはしておらず、しかも茶町の浜へ行くのは奉行所から命じられた仕事なのだから、堂々と庄の橋を渡れば良いものを、別段遠回りになる訳でもないからと、又吉は自分に言い聞かせていた。又吉でなくとも、朝から橋の番人に住処と名前と行き先を告げるのは煩わしい。今橋にも番人がいるが、今橋の両詰めの町は町人町だから、番人も橋の東詰めの金ケ辻子町と、西詰めの茶町とから交代で出ている。又吉とも顔なじみなので、朝の挨拶だけで通してくれる
今橋は寛永一二(一六三五)年に架けられた。はじめは土橋で、長さが一六間、幅が三間あり、敦賀一の大橋になった。毎年六月末の夏越の祓(なごしのはらえ)では、人形に切った紙に名を書き、その紙で身体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移し、今橋の上から川に流して清めんと、大勢の人が出かけて来る習わしだ。夏の暑い時分には涼を求めて橋の上で夜風にあたり、その人出目当てに茶売りなどもやって来る。度々、役人が出張って人を蹴散らすのも風物詩となっている。
今朝は茶町から二人が橋番に出ていた。
「よお、又吉さん。今日も台場かね」
又吉の姿を見て先に声をかけたのは、茶町の作兵衛だった。
作兵衛は茶問屋の番頭をしている。茶町という名の町なのに、茶町に茶問屋は一軒だけしかない。それでも昔は茶問屋が軒を並べていたそうだ。元々茶町は今橋が架かった後に、敦賀中の茶問屋を集中移転させて出来たと言う。
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